絶望
伽藍がもはやこの世界に存在しないという事実を受け入れるために、僕はどれほど時間がかかったのだろう。
僕は、その事実について、何度考えても、そんなはずはない、あり得ないという結論に至っていた。
人間は愚かで、いつも間違えている。だから今回も間違いだ。
技師の誰かがいつものように「修復は不可能だ」なんて弱音を吐いて、他の人間が勘違いして大袈裟な噂が広がったのだ。そうに違いない。
しかし、伽藍の試合は設定されず、企業の人間も技師もずっと緊張感に包まれていて、機械闘士の業界全体が火の消えたように静かになって、僕が建物のどこを探しても伽藍の姿は見つからない。
いや、そもそも僕は、今までこんな風に、伽藍の姿を探し回ったことがあっただろうか?
伽藍はいつだって突然僕の前に現れて、好き勝手言って気が済んだらすぐにいなくなっていたのではなかったか。
だから、いくら探しても見つからないのは当然ではないのか。伽藍はきっと今、僕に会う気分ではないのだ。
そう結論付けた次の日、メンテナンス項目の変更を知らされた。
腹部の電気配線の点検が義務化されたことが主な理由だった。
腹部に強い衝撃が与えられ、一定の手順で配線が破壊されることで、火花が散る危険性がある、という。
伽藍が自爆したことで初めて発見された機械闘士の「欠陥」だった。
僕は絶望した。
やはり、伽藍はもういない。
あの試合、たった一度の試合で負けない為に、自分のすべてを投げ打って、伽藍は元型も無いほど粉々に砕け散ったのだ。
それからは、僕はこれまでと変わらず、淡々と数少ない試合をこなしていった。
勝てば嬉しいし、敗ければ体が砕け散りそうなほどの恐怖が生まれる。
それでも、ただ試合のことだけを考えていれば、それ以外のことは何も考えず、思考せずにいられる。
以前伽藍に言われたことを、いつしか僕は実践できるようになっていた。
しかし、試合が終わってひとりになると、僕は自分の感覚の一部が消失しているかのような錯覚に襲われた。
具体的に身体のどの部分が、と明確に言い表せない。
だが、どこかが足りない。
何かが僕の身体から決定的に欠けてしまった。
そんな空虚感、焦燥感ばかりが募る。
しかし、何度メンテナンスをしても、感覚器官の機能的な異常は全く見られなかった。
だが僕の頭脳には、何かがおかしいという考えが蔓延っている。
何かが足りない。何かが欠けている。
がらんどう、という言葉が、僕の持つ語彙の中では一番適切かもしれない。
螺鈿の身体には数えきれないほどの部品やデータがみっちりと詰め込まれているはずなのに、僕は空っぽのがらんどうの機械に成り下がってしまったのではないか。
このままでは、いつか試合の途中にも感覚異常が起きるようになるかもしれない。
僕は恐れた。
そうなれば、試合はできない。原因を探して、何らかの対処をしなければ。
メンテナンスの度にそう訴える僕に、門沢は難しい顔をした。
そしてある日、門沢は僕に、伽藍の部屋を見てはどうかと言って来た。
門沢は、僕のその異常が、親しいものを亡くした人間が示す悲嘆反応と似ていると言った。
残された人間は、故人の部屋や遺品を見たり、墓参りに行ったりして回復していくのだという。
僕はそんなことで、何が変わるとも思えなかった。
僕の異常が、人間の反応と同じとも思えなかった。
しかし、他に方法もないので、一度試してみることにした。
僕はこれまで、伽藍の部屋に入ったことはなかった。
そもそも僕は、伽藍に自室があるということを、考えることも、興味を持つことすら無かったのだと気付く。
伽藍の部屋は、無機質な金属製のベッドと机、椅子が一つ。
僕の部屋とまったく同じ配置だが、何故か僕の部屋以上に閑散として見えた。
本棚には本が数冊詰めこまれている。
人文学系の本は一冊もなく、全てが機械や工学の書籍だった。特に、機械闘士の技術に関するものが多い。僕が読んだことのない本ばかりだった。
どの本の上にも、薄く埃が積もっている。
伽藍は、この本で自分自身の身体のメカニズムを学んでいたのだろうか。
自分という機械を熟知していたことも、あれだけの強さに影響を及ぼしていたのかもしれない。
そして、どこをどのように破壊したら爆発させることができるかということも、よく理解していたのだろう。これもすべて、今となっては憶測でしかないが。
「伽藍は自分の部屋には何も、自分のものを置こうとはしなかった。この本だって社員が無理やり押し付けたようなものだった」
部屋に入ろうとはせず、入り口に立ったまま門沢は言った。
「それだけじゃない。大抵の機械闘士は、膨大なデータの一部をクラウドに保存しておく。大事な試合に関する知識やデータ、それ以外にも、失いたくないと思ったものは何でも。君もよく知っているだろう……だが、伽藍はほとんど全てのデータを、自分の本体にだけ保存していた。見かねた技師が、以前彼女に何とか複製させておいたものもあったが、到底伽藍の復元には足りない量だ」
だから伽藍は、直せなかった。
長年蓄積された膨大なデータも、メンテナンスし修復を重ねて最高の状態に仕上げたボディも。
戦績にも映像にも一切残らない、経験、記憶、思考、形を持たないそれの情報がすべて纏めて、あの日吹き飛んだのだ。
耐えられなくなり、僕は部屋を出た。
門沢は、僕がまるで人間のように、この部屋から何かを得ることを望んだのだろう。
だが、僕にとってこの部屋は、懐かしさも嬉しさも無い。むしろ居心地が悪く、気持ち悪ささえ感じた。
この机も本も、人間にとっては伽藍の遺品ということになるのだろうが、僕にはそうは思えなかった。
この部屋は、人間が伽藍の為に勝手に作って、勝手に与えたもの。伽藍を形作るものではなく、ただの使い捨ての備品のようなものだ。
こんなものが伽藍の一部然として、ここに置かれていることに対して、僕は何故か嫌悪感さえ覚える。
伽藍は、この部屋を自分の場所だと思ったことはなかったのではないかと、ふと思った。だから何も置こうと思わなかったのではないか。
伽藍は試合にしか何かを残さなかった。闘いにすべてを残し、すべてを失わせた。
それが、伽藍らしい、と思う。やはり、それこそが伽藍の在り方だ。
伽藍が生きたのは、歓声に包まれたあの真四角のリングだけだ。伽藍とは、試合を通してでしか真に対話することはできない。
そして、その機会ももはや永遠に失われた。
僕はもう、伽藍と真に対話することは、出来ない。
「もういいのかい。ここには、もう入れないかもしれないよ」
門沢がそういうので、問題ない、と返した。住人のいなくなったこの部屋もいずれ、取り壊されて失われるのだろう。
僕はこの時、何故もうこの部屋に入れないかもしれないのか、きちんと聞くべきだったのかもしれない。
しかしそうしたところで、やはり何も変わらなかっただろうか。
僕には分からない。何も分からない。
僕の周りの全ては混沌として、まるで纏まりが無かった。
困難で理解不能なこの世界の中で、唯一の目印として光り輝いて見えた不変の存在。暗闇にただ一つだけ光る灯台。夜空の北極星。
僕はどれも見たことが無い。だが、僕はそれを知っている。
きっと僕にとってはそれが、伽藍だった。
それを失った今、僕は何もかも分からなくなり、混乱し、恐れ、戸惑った。
この世界を、意思無き只の機械として生きていけたらどれほど良かったか。
敗北する度に何度も繰り返したそんな思考を、こうして今再び繰り返している。
こんな感覚に悩まされるくらいなら、自由意志も思考能力も持たない只の戦闘機械として作られた方が、よっぽど良かったのではないかと思う。
しかし、そのようなありもしない仮定や願いを抱いて嘆いて居られる時期はとうに過ぎた。
僕はこの不合理でまがいものの心を抱えたまま、生きていかなければならないのだと、これまでの日々でもう十分すぎるほど理解していた。
痛みなど感じないはずの胸が酷く軋む。
伽藍はいない。いないのだ。
僕は、この事実を受け入れ、消化し、生き続けなければならない。
世界の目印は消えた。無敗記録は途絶えた。
僕の身体から欠けたものは、知らぬ間に僕の内部に存在していた、伽藍によって生み出されたものすべてだったのだろう。
あの日からすべて失われて、失われたのに未だ戸惑い探し続けている。
それが何だったのか、僕にはもはや分からない。
ただ一つ確かなことがあるとすれば、こういうことだ。
僕は、伽藍の存在しない世界でこれからも闘っていかなければならない。
伽藍が消えてから、機械闘士業界全体の集客率は大きく下落した。
それでも、何とか巻き返しを図ろうと、試合は設定される。
僕はひとつひとつの試合に丁寧に向き合った。勝利し、敗北する。その度に思考は揺れ動く。
試合に集中するために、あのことは考えないようにする。
それでも、試合が無い時は、考えてしまう。
いないのか。本当に、もういないのか。
考えたくもないが、その問答は僕の思考に突然侵入的に入り込んで来る。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
ある日、企業が「新たな機械闘士」の制作を発表した。
螺鈿の制作以来、数年ぶりの制作発表に、世間は沸き立つ。
あの試合以来、どこか活気を失った機械闘士の世界が、再び熱狂を生むきっかけとなるかもしれない。人間たちはそう期待していた。
新たな機械闘士の名は……
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