幕間 いのちというもの
虫
2週間に1回程度のペースで、僕の本棚には新しい本が増える。
企業では、さまざまな社員が順番に本を選び、螺鈿に渡すことが慣例になっていた。
今日は、今年入社したばかりの社員が選んだ、フルカラーの大判昆虫図鑑だった。
小説や専門書、画集、自己啓発本などを渡されたことはあったが、図鑑は初めてだった。
社員たちは「やっぱり新入社員は考えが柔軟だよなあ」と口々に言って、感心したように笑っていた。
しかし、僕にとっては、本の内容などそれほど意味を持たない。時間つぶしに読めれば良いのだ。
渡されたその日のうちに、僕はさっそくページを開いた。
学名、分類、生息地。学名、分類、生息地。
まちがい探しのように、同じように見えて少しずつ違う文字が羅列されている。
結局、30分もしないうちに最後のページにたどり着いてしまった。
今までで一番大きなサイズなのに、こんなにも早く読み終わってしまうとは何事だろうか。
僕は考えた。図鑑というものは、一体何のために存在するのか。
図鑑は文字が少なく、ページのほとんどを写真が占めている。もしかすれば図鑑は、文字ではなく写真を見るためのものなのだろうか。
僕は最初のページからもう一度読み直すことにした。
今度は、写真をじっと眺める。
昆虫は、僕とも人間ともまったく違う、奇妙な形状をしていた。
脚が6本ある。羽がある。色は黒や茶色や緑、光に照らされて光っている。
種類によって形状がまったく違っている。これをすべて昆虫と一括りにまとめてしまう人間は、やはり傲慢なのではないか。
大きさは数センチメートルのものがほとんどだ。そんな小さい体の中の内臓部品は、どれほど精巧にできているのだろう。
僕の中に、もちろん「昆虫」というものの知識は、最初から存在していた。
しかし、いくら知識として備わっていても、どんなものか思い返して、使おうとしなければ結局無いのと同じだ。
僕は今、初めて昆虫というものの存在を意識した。
こうして写真を見てみると、昆虫は、暇つぶしになるほどには興味深く感じる。
図鑑には、この国に生息している昆虫がさまざまに紹介されている。
しかし、僕はそのほとんどすべてを実際に見たことが無かった。本当に、こんなものがたくさん、いたるところに生息しているというのだろうか。
昆虫は木や草のある場所に生息している。
僕は木や草のある場所を知っていた。
どうせ今は他にやることもないので、僕は図鑑を携えて、部屋を出ることにした。
廊下を整備室とは反対側に少し歩くと、階段がある。そこはいつも薄暗く、手すりは錆びついている。
しかし、階段を上がっていくにつれ、次第に明るさが増し、床や手すりが装飾されたものに変化していく。
おそらく、この建物は上階に行くほど、人間のための部屋が増えるからだろう。
僕の部屋や整備室など、機械闘士の運用のために必要な、最重要の機械や整備員の多くは地下に存在している。
地上1階には閲覧室があり、機械闘士の試合の動画を見ることができる。
地上2階には整備員や社員が休息するための部屋がある。
それより上の高層階には、僕とは直接関わりのない人間が数多生息している。
企業のプロモーションを行ったり、社員の給料や休暇を取りまとめたり、会社の資産を運用したり、そういう人間たちが労働しているらしい。
僕が移動できるのは地上2階までだ。
それでも、地上2階に行くことはめったにない。
食事や休息といった、いかにも人間用に整備された場所は、僕には馴染みが無くて居心地が悪い。
しかし、木や草がある中庭はそのエリアにしか無いので仕方ない。
休息室の付近にいた人間たちは、なぜ機械がここにいるのかと、奇妙な目を向けている。僕は、人間たちから離れるように足早に歩いて廊下を抜け、一番奥にあった目的のガラス戸を開けた。
中庭は、空も木も草も、この企業の中において唯一存在する場所だった。
しかしそこに、異質なものが一つ。先客だ。
人間なら出直そうかと思ったが、違ったので僕は声を掛ける。
「何をしているのか」
伽藍は、いつも通り小馬鹿にしたような笑顔を浮かべて僕を見た。
「誰かと思えば。螺鈿、お前こそ何をしている」
「昆虫を見るために来た」
「はあ? 昆虫だって?」
伽藍は眦を吊り上げた。
「虫けら何ぞ見てどうする」
「見たことが無いからだ。図鑑に書いてあったが、本当にあんな奇妙なものが生息しているのか疑問に思った」
僕は伽藍に図鑑を見せた。
「そんなこと、一体何の役に立つ? 暇つぶしにもならんだろうに」
「伽藍は、ここで昆虫を見たことがあるか?」
「気にも留めたことが無いな」
馬鹿馬鹿しい、と伽藍は鼻で笑った。
僕は壁際の木に近寄った。
濃い緑色の葉を一枚、眺める。昆虫はいない。
葉の一枚一枚を注意深く観察する。昆虫はいない。
「おい」
次は隣の木を見た。昆虫はいない。
その隣の木を見た。昆虫はいない。
「おい」
この中庭には昆虫は存在していないのか?
「螺鈿、ああ、ああ。お前ごときの分際で、我々を無視するとは。良い度胸じゃないか。余程我々を怒らせたいと見える」
「虫するとは?」
「馬鹿にしているのか。お前、我々の言葉を聞いていなかったのか?」
「聞いていなかった。何か話していたか?」
「……」
伽藍は口をへの字に曲げてこちらを睨みつけている。
僕は、今度は伽藍の方に目を向け、言葉を待った。
伽藍はしばらく無言だったが、こちらを睨みつけたまま口を開いた。
「土の上に、小さい蟻ならいくらでもいる。地面に這いつくばって眺めたらどうだ」
僕は木の下にしゃがみ込んで目を凝らした。
たしかに、小さい蟻がかなりの速度で動き回っていた。
1匹見つけたら、その隣にも、歩いていく先にも、数えられないほど動いている。
「こんなにもたくさん生息しているとは」
「そんなもの、吐いて捨てるほどいる。我々には何の利益も害ももたらさない、取るに足らない存在だ」
「本当に奇妙な造形をしている。そして非常に小さい」
「造形?」
伽藍は僕の隣にしゃがむと、おもむろに手を伸ばして、蟻を指でつまんだ。
僕は驚いた。何と、蟻は指でつまめるのだ!
「ふうん。胴体が3つに分かれている。足は6本もあるし、頭に角が生えている。確かに奇妙と言えなくもない」
伽藍の白い指に挟まれて、黒い体と足がそれはそれは細かく素早く蠢いている。
「人間は、何故人間型の機械ばかり制作するのだろうか。昆虫型こそ制作すべきだ。これほど奇妙な造形のものが闘う姿は、きっと素晴らしいはずだ」
僕が熱意を持ってそう言うと、伽藍は蟻をぽいと地面に投げ捨てた。
「人間の太い指で、この小ささの機械を制作するのは、余程手間がかかるんだろうさ」
蟻は中々の速度で伽藍から一目散に離れていき、すぐに姿が見えなくなった。
僕も蟻をつまもうとした。伽藍の真似をして、親指と人差し指に力を入れる。
だが、蟻は僕の指をかいくぐって滑るように動いて、逃げ去っていく。
その動きは非常に滑らかで、二本足で揺れながら歩く機械闘士や人間の姿とはまったく異なる。
こんなに小さい体で。素早く、繊細で、美しい。なんと滑らかな動きだろう。僕は唐突に、伽藍が試合で見せる美しい動作のことを思い出した。
僕の指は何も触れず、何度も空を切った。
「剣使いの癖に、指先のコントロールが随分と下手なことだ」
伽藍は、小馬鹿にしたようにまた笑った。
そしておもむろに立ち上がる。
伽藍の視線の先には、白っぽい小さい何かが、妙な軌跡を描きながら浮かんでいる。
伽藍は、ぱっと素早く手を振り、握りこぶしを作った。
こぶしを開いて、僕に手の平を見せてきた。
「これは……蝶か」
まじまじと見つめる。蟻とはまた、造形がずいぶん異なっている。
図鑑で見たような、大きな羽。
胴体は細長い。
頭らしい部分には、細長い糸のようなものもついている。
「ふうん。胴に対して、随分と羽が大きい。小さい虫も、これだけ羽が大きくなきゃ飛べないって訳か」
蟻とは違って、蝶は少しも動かない。
ただじっと、伽藍の手の平で倒れ伏している。
伽藍もそれに気づいたようだった。
「こいつはまったく動かない。強く掴み過ぎたのか? あれだけの力で。何て弱っちい羽虫だ」
「衝撃で動けなくなったのか?」
僕がそう問いかけると、伽藍は事もなげに言い放った。
「いや、死んでるんだろうよ」
なんと! この蝶は死んだらしい。
僕は驚いた。僕は、死んだ生物を初めて見た。
死んだということはつまり、永遠にもう動かないということだ。先ほどまでふらふらと飛び回っていたのに、もうこの蝶は二度とそんな風には動かない。
にわかには信じがたい思いだった。
「まさか、可哀想だの何だのと言いたいわけじゃないよな? 人間じゃあるまいし」
「何が可哀想なのか」
可哀想とは、何が可哀想なのか。死んだ蝶のことが? それとも、それを見ている僕たちのことが?
「人間は、我々がこうして生物を死なすのを見ると、そういうことを言うのさ」
人間は人間が死ぬと悲しむことは知っている。昆虫が死んでも悲しいのだろうか。
僕はふと、以前29冊目の本で得た知識を思い出した。
「しかし、人間は幼少期に昆虫や爬虫類などの小さい生物が死ぬ姿を見ることを通して、自分や他人の命の存在について学ぶそうだ」
伽藍は底意地の悪い顔をして、鼻で笑った。
「命の存在ねえ。なれば、学んでみるか」
伽藍は、手の平の蝶を土にぽいと投げ捨てた。
そして地面にしゃがむと、人差し指を蟻に向かって突き刺した。
指先が土に少しめり込むと、茶色の砂粒が指先にくっついている。
別の蟻にも。また別の蟻にも。一匹ずつ突き刺して、一度も外さない。
伽藍が刺した後、土には指先の大きさの穴ができる。
蟻はその中で、ピクリとも動かなくなった。
五体満足のものもあれば、潰れて薄くなったものもあった。三つの球が連なったような形の胴体がばらばらに分離したものもあった。
僕は、試合で相手の機械を破壊した時のことを思い出した。
部品や破片がそこらじゅうに飛び散って、腕や脚や首や、部品がバラバラになって地面に落ちている。
人間はそれらを拾い集めたり捨てたりする。残った部品を使ったり新しい部品と取り換えたりして、僕らは修復されて試合に再び出ることができる。
ここにいる蟻たちは違うのだ。
何をどうやっても、修復することはできない。
あれだけ蠢いていたのに、もはやまったく動かない。
これが、生物が死ぬということか。
地面にはいくつもの穴ができた。まだ生きている蟻は散り散りになって逃げ、その場から1匹もいなくなった。
僕はそれをじっと見ていた。
「何か学んだか?」
伽藍がそう尋ねるので、僕は返事をした。
「分からない。だがこれが、生物が死ぬということか、と思った」
「だから命は大切にしましょう、って? くだらないな」
伽藍は立ち上がった。昆虫を見るのも飽きたのだろう。
本当に、伽藍にとっては試合以外の何もかもが暇つぶしにすぎず、どうでも良いことなのだろうと思う。
しかし、ドアに向かって歩くのかと思えば、唐突に立ち止まって、僕の方に手のひらを向けた。
「図鑑を渡せ」
「……まさか、君も読むのか?」
「まさか。読まない。だが渡せ」
伽藍は無表情で、手を出し続けている。
僕が戸惑いながら図鑑を手渡すと、伽藍はひったくるように取り、さっさと歩き出し、中庭を出て行った。
伽藍の意図がわからないのはいつものことだが、今回は本当に何を考えているのか分からなかった。
伽藍は図鑑を一体何に使うのだろう。読まない、というのは本当だろうか。
本当は、部屋に戻ってから、改めてもう一度図鑑を読み直そうと思っていたのだが。
仕方なく、僕は、しばらく座ったまま、虫が死んでるのを眺めていた。
どれだけ待っても、死んでるものは動かない。
これが死ぬというものなのか。
どういうものなのか理解できないし、する気も無かった。
しかし、これが、これこそがそういうものなのだと、何故だかひどく腑に落ちた。
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