いい試合

「随分といい試合をしたそうじゃないか」


 耳に絡みつくような声が聞こえてきて、僕は記憶の再生を止めて振り返る。

 この特徴的な話し方の主が誰なのか、振り返らなくてもよく分かっていた。

そして、何を言われるのかも分かっていた。それでも、声を掛けられたものの礼儀として振り返る。


 案の定、伽藍がらんがそこにいた。

 何もない薄暗い廊下に対して、伽藍の赤いユニフォームとライトブラウンの長い髪はあまりに派手で、不釣り合いだ。

 伽藍はにやり、と効果音が聞こえそうなほどに、目と口をゆがめて笑う。


「まさか、折れた剣に気を取られた隙に一発喰らって、動けなくなった挙句に首を落とされたなんて。惨めで恥ずかしくて、もう堂々と廊下も歩けないかと思ったが」


 芝居がかった口調と、大げさな身振り手振り。

 こんな意地の悪いコメディアンのような話し方をしているものが、人間には「凛として花のように美しい」などと言われているのは、全くおかしなことだと思われる。


「僕の試合を見たのか?」

「まさか。我々が負け犬の試合なんて見るとでも? 嫌でも耳に入るさ、悲惨な負けっぷりだとあれだけ噂されていれば」

 僕は目を伏せる。

 敗北を一番の屈辱と考える伽藍らしい、手厳しい物言いだった。

 そして、その言葉はすべて事実の通りだった。


「君の言う通りだ。僕は負けた。さらに、剣も折れてしまった。まさに最低の試合と言う他ない」

 伽藍は眉を上げる。

「剣が折れたことを、何故敗北と同列に並べて語る?」

「僕にとって剣は、進むべき道を描いてくれる地図のようなものだったんだ」

 そうだ。剣は折れたのだ。

 思い出すと途端に落ち着かない。

 もう何日も前に塞がれたはずなのに、胸に再びぽっかりと穴が空いたような奇妙な感覚があった。


 剣は、僕の一部だった。

 闘い、そして生死を共にするもののことを、人間は戦友と呼ぶという。

 ならば、僕にとって剣は、まぎれもなく戦友だったろう。


 僕にとっては世界は酷く混沌としていて、つかみどころがなく、理解が難しいことばかりであった。

 しかし、剣を持って試合に立てば、自然と自分の進むべき道が見えてくる。

 暗闇に光る街灯。

 入り組んだ路地の看板。

 剣は僕にとってそういった目印のようなもので、この世界で唯一光り輝いて見えるものだった。

 とはいえ、街灯も看板も地図も、僕は使用したことも無ければ、実物を見たことすら無い。ただの比喩だ。


 僕の生活で、他のものに例えるならば……本棚の一冊目だろうか。

 例えば、数時間前、僕は神経症に関する専門書を読もうと思い立った。

 その本を読むのは24回目なので、もはや目新しさなどなく、知識を確認するだけである。

 しかし、それでもこの本が、僕の持つ本の中でも1番新しいものだったから、読む必要があるのだろうと思った。

 休日は新しい本を読むための1日なのだと、53冊目の本に書いてあったからだ。  

 僕は、今日こそは、この一冊を読もうと決めていた。

 それなのに、僕はいつも、ぎっしりと本が並んだ棚の前に立つと、うろたえてしまう。

 あまりにたくさんの情報が目の前に提示されると、その無数の情報にただただ圧倒されて、恐ろしくなる。

 今まで自分が何を考えていたのか、何冊目を読もうとしていたのか、何も思い出せなくなって、途方に暮れてしまう。

 そして僕はつい、光に群がる羽虫のように、本棚の一番上の右端に置かれた、「1冊目」に手を伸ばしてしまうのだった。

その後は結局、最後の神経症の専門書にたどり着くまで、右上から順番に、置かれた通りに1冊ずつ読まずにはいられなくなる。


 僕は、本棚に並んだ本の中から、1冊だけ選んで抜き出すということが非常に苦手だ。

 そんな僕にとっては、1冊目の本は、気持ち悪いほど整然としているのに、恐ろしく混沌としたこの本棚の中で、唯一分かりやすく、光り輝いて見える。

 この奇妙な世界で過ごすためには、そういった目印たちを何とか頼りにすることが必要不可欠であった。

 その目印を失うことが、僕にとってはどれほど衝撃的で、困った出来事であるかということ。

 言葉を重ねて説明したが、伽藍は僕の話を聞いてもいなかったようだった。

 伽藍は、如何にも興味を失ったような表情をして吐き捨てる。


「武器の話はまったく興味が無い。我々には、この身体ひとつあれば十分だ。お前も、武器にばかり頼っていないで、他の技術を学ぶべきでは?」

「僕の機械属性は、フェンシングをベースにした剣闘士と決まっている」

 僕は、人間が僕に設定したイメージ、特徴というものをよく理解している。

 だから、人間が求めるならそのようにすべきだと思う。そう主張したつもりだったが。


「馬鹿馬鹿しいな」

 刀を持たない伽藍に、僕の主張は一刀両断されてしまった。

「人間に与えられた初期設定を守り続けることに必死になって何になる。勝てなければ意味がない。勝てない機械闘士には何の価値も無い。そうだろう?」

「……ああ、そうだ」

 率直すぎるほど率直な伽藍の言葉に、僕はいつもこうして頷くほかない。

 伽藍の言葉はいつでも正しい。なぜなら、伽藍は他の何よりも強い勝者であるからだ。


「ならば、どんな手を使っても勝たなければ。常に勝つことを考えろ。こんな場所で油を売っている暇があるのか?」

「話しかけてきたのは君だ」

 僕も、流石に少し横暴ではないかと思った。

 だが伽藍は、僕の控えめな抗議など意に介さない。

「当然だ。我々はお前と違って、今までもこれからも勝ち続ける。決して負けはしないのだから」

 僕の知る限り、伽藍は一度も敗北したことが無い。常に勝ち続けている。

 だから、伽藍にはオイルを売る時間はたっぷりあるということだ。そして僕には、無い。その通りだった。


「ああ、こんなことを話していても何にもならない。試合! 試合があれば! 我々はお前に教えてやれるのに。余計なことを考えている奴はすぐに壊れて終いだと」

 伽藍は両手を広げると、心底残念そうな表情をわざわざ作って首を左右に振った。

 首の動作に併せて、長い毛髪と膨らんだ胸が揺れる。どちらも、僕にはない装飾だった。

 こんな邪魔な装飾を付けたまま、よく闘い続けられるものだと思う。


「僕達が試合をすることは無いだろう。剣闘士と徒手闘士の試合は、収益や公平性の視点から通常は行われない」

「人間というものは本当にくだらない」

 伽藍は不服そうに顔を歪ませた。伽藍は人間の思考や趣向を軽蔑しているのだ。

 そして、僕にももう興味を失ったのか、脈絡なく突然に踵を返して歩いていった。


 僕は、伽藍に追いついてしまわないように、その場で待って時間が経つのを待つことにした。

 伽藍はどうも、わざときつい言い方をして、相手の反応を引き出して楽しんでいる節があった。

 新人の職員は、伽藍の言動に戸惑い、怯えることもあると聞いたことさえある。

 しかし、僕は、人間たちのように、伽藍に対して怒りや戸惑いを感じたりはしない。


 伽藍は勝者だ。この世界で一番強い。

 勝つ者、強い者の言葉は何より価値がある。

 伽藍は常に、僕にそのことを教えてくれる存在だった。


 僕は伽藍と闘ったことは無いし、今後も決してその機会は無いだろう。

 僕は、そのことを残念だと思う反面、ひどく安堵していた。


 何故なら、伽藍と試合をしたとして、僕は全く歯が立たずに負けることがよく分かっているからだ。

 試しに考えてみるだけで、恐ろしいと思う。

 恐ろしすぎて、だからなのか、何度も夢想してしまう。



 僕の目の前に立つ伽藍は、試合開始の合図と同時に、一気に踏み込んでくる。

 伽藍の思考に様子見などという言葉は存在しないのだ。

 しかし、全く隙が無い。僕の間合いが、一瞬で伽藍のものになる。

 僕の動体視力は最新鋭の技術が用いられているのでしっかりと伽藍の動きを目で追っている、それなのに僕は少しも動くことができない。


 そして、一瞬だ。一瞬。


 ほんの一瞬で、すべてが終わる。


 ボディが粉砕される。

 細かな金属片が飛び散る。

 自身の首が胴体を離れ、リングをごろごろと転がっていく。

 何もできない。

 伽藍は、完膚なきまでに僕の身体を粉々に叩きのめす。


 何度でも直れるはずなのに、僕は、ああここで死ぬのだろうと、人間みたいなことを思う。

 無傷の伽藍が、拳を天に突き上げる。

 それを地面に這いつくばって見るのは、どんなに苦しいことだろう。


 恐ろしい。

 壊れること、直らないことではなくて、闘えないことが。

 動くこともできず、無様に、哀れに、ただ惨めに負けることが。

 一瞬で決まる勝負に敗けることがこんなにも、僕は恐ろしい。

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