1-10 魔法使い見習いの日常

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 早朝のトキオの市街は、さすがは眠らぬ都市、無人ではない。

 駅のそばへ行けば、前日の終電を逃して始発を待っていたらしい若者たちや、夜勤帰りと思しき背広姿の人々、水商売を連想させる男女。他にもホームレスの姿もあるし、酔いつぶれてそのままなのか緑化のための花壇の内や外に寝転がっている人も見える。

 ともかく、僕としては走るしかない。

 詩歌からは一日に十キロと言われていて、僕は携帯端末を利用して距離を測り、早朝におおよそ十キロは走るようにしていた。携帯端末が距離やペース、消費カロリーを計算してくれるのは、モチベーションになる。

 走り始めて一ヶ月。人生でこんなに運動したこともなかったけど、どうやら体力がついたらしい、一キロ七分程度で十キロは走り通せるようになった。

 市街地へ出てから折り返し、集合住宅のハンの部屋に戻る。すでに周囲は明るいけどハンは大抵、まだ寝ている。

 僕はプロテインを手早く摂取して、さっさとシャワーを浴び、朝食を用意する。

 ここに居候し始めてすぐ、料理は僕の担当になった。と言っても、凝ったことは何もしない。卵を茹でるか、炒るか、卵焼き、目玉焼き、そのどれかを必ず出して、あとは生野菜のサラダか温野菜も出す。納豆、もずく酢は交互。主食はパンか白米がやっぱり交互。ベーコンを焼くかハムを出すかソーセージを出すか、これも順繰りである。

 ハンがもっと食事にうるさい性格なら文句を言っただろうけど、今までに一言も、何の指摘もしてこない。

 美味しい、とは言ってくれるから、とりあえずは続いている。

 食事の間にハンが話すことはまったくの世間話で、芸能人がどうこうとか、歌手がどうこうとか、意外に若者のような話題が多い。説教なんてしないし、むしろどうでもいい話題だから聞き流してくれ、というスタンスだ。

 僕にアイドルについて聞いたりするほど、ハンは好奇心がある。かといって進んで調べたり、活発な情報収集をするようでもないのは不思議だ。どちらかといえば、興味はあっても深追いしないタイプだろうか。

 ちょっと表現しづらいけど、ゆらゆらと揺れている、ろうそくの火のようなものかも。

 朝食が終わり、それぞれに身支度をして二人乗りの自動車で事務所へ。

 事務所ではほとんどの場合、市郎太が先に着いて事務所を開けていて、すでに仕事を始めている。僕は挨拶もそこそこに、まず彼からその日の仕事の説明を受ける。

 事務仕事は人工知能が肩代わりしてくれる場面が増えたけど、まだ人間が手を貸さないといけない部分が残っている。そこを市郎太と手分けして済ませていく。役所などへ提出する書類を作ったり、警察への報告書を用意したり、収入で発生する税金の納税書類を整えたり。

 市郎太は仕事の最中は無駄口は一切開かない。僕が仕事について質問すると、的確に、しかし最低限の言葉で答えてくれる。過不足のない表現なのでそれで支障はないのだけど、どうやら僕はそれほど好かれてもいないらしいと思わざるを得ない。

 詩歌は詩歌で仕事をしているけど、彼女は午前中は外に出かけていることが多い。

 魔法の影響で発生する越境災害への対処があったり、護衛の仕事や、魔法にまつわる指導を請け負ったりしている。警察や役所の下請けもある。それがヴァーミリオン事務所の主収入だ。

 これは午前中は詩歌の担当で、午後になると市郎太が出て行く。

 お昼ご飯は大抵は出前を取るけど、それはハンだけで、市郎太は外へ食べに行くし、詩歌は自分で何かを用意している。僕はといえば、やってきて一ヶ月と少しのトキオの街を見物するために、昼休みの一時間は気が向くままに出かけていた。

 トキオほどの都市になると、お金さえ持っていれば問題ない。ありとあらゆる料理が、店それぞれの値段で売られている。パン一つを取っても、ただのあんぱんを八十円で売る店もあれば、三百円で売る店もある。食べ比べていないけど、八十円には八十円の味があり、三百円には三百円の味があるんだろう。もちろん味が全てではないのが、この街の原則だ。

 ハンは僕に一週間の小遣いとして三千円をくれる。これはやや少ないかもしれないけど、ハンは僕に住むところを無料で提供してくれているし、朝ごはんと夕食も彼が出資して、僕は一円も出していない。

 昼食をうまくやりくりして食べろ、というだけなのか、決められた額で生活する術を身につけろ、という意図があるかは、判断がつきにくい。ハンがそんな回りくどいことをするだろうか。

 とにかく、何かを適当に買って、食べて、事務所へ戻る。

 午後はハンか詩歌の訓練に当てられる。

 詩歌とは運動公園まで行って体力作りのための走り込みと、いくつかの筋力トレーニング、そして格闘技の実戦的なやり取りになる。

 僕は何度、殴り倒されたか、何度、投げ飛ばされたか、そして何度、気を失ったか、もう覚えていない。

 詩歌はさすがに前衛とされる魔法使いだけあって、容赦がない。

 細身の体はまるで猫というよりは豹だ。

 彼女が本気になれば僕なんて一瞬で始末されるのは確実である。それも魔法なんて少しも使わず。

 ハンとの訓練は魔法の発動に関する基礎的な部分を、やはり実践的に教えてもらう。繰り返し魔法を発動し、発動までの時間を短縮するのが最初に与えられた課題だった。慣れが全て、というように、僕は同じことを反復した。

 そうして日が暮れる頃に日課は終わり、解散になる。

 ハンは酒を飲むことは滅多になく、家に帰るとすぐ夕食にして、音楽を聞きながら電子端末で何かを読んでいる場面が多い。

 何を読んでいるか、訊ねてみると、最新の魔法や魔法刀剣その他に関する雑誌を読んでいる、と見せてくれた。

 それを見習って、僕は彼から借りた魔法に関する解説書を読んでいた。予習、復習は誰に言われたわけでもないけど、必要だと実感していた。

 深夜になる前にハンはシャワーを浴びてベッドルームに引き上げ、僕もそれほど夜更かしせずにシャワーを使ってからリビングのソファに横になって、毛布をかぶる。

 これが僕がトキオにやってきて落ち着いた日常であり、不安と焦燥と同時に、充実と高揚が入り混じった日々だった。



(続く)

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