1-7 言い訳
◆
遅い遅い!
背後からの声に返事をすることもできない。
息が上がって、走る姿勢も逆らいようがないほど顎が上がっている。
「魔法使いも体力仕事だよ!」
ドンと背中を押されて、転げそうになる。なんとか足を送って先へ走る。しかしもう、足元も覚束ない。
トキオの外れにある運動公園の整備されたジョギングコースだった。
一帯には緑が多く、トキオという大都会の喧騒や人いきれもここには届かない。代わりに、草いきれを感じる。
僕も詩歌も運動着だったけど、僕のそれは高校で使っていたジャージで、詩歌はちゃんとしたスポーツウェアだった。今はサングラスもスポーティなそれになっているし、長い金髪は高い位置でひとつに結ばれていた。
ジョギングコースは一周十キロ。一周走るごとに二十分の休息が与えられているけど、既に二周目に入っているから、体力は根こそぎにされていると言っていい。
胸が苦しい、というか、痛む。息が吸えない。
両足ももう感覚がなくなっているような気がする。
二周目が終わり、僕はほとんど道に倒れこんだ。二時間以上走っていたのに詩歌は平然としている。スタート地点に設定した場所には公衆トイレと自販機が何台かあるので、すぐに詩歌がペットボトルに入ったスポーツ飲料を持ってきてくれた。
ポイと投げ渡されても、それを掴むことすらできない。汗のせいか目が霞んでいて、僕の手は空を切ってペットボトルは地面に落ちて、虚しく転がった。這うようにして捕まえて、ようやっと蓋を開けて最初の一口。
生き返る、とはまさにこのことだ。
「これからも毎日、十キロくらいは走りなさいね。後衛としてもそれでは不足だけど、素人だからね、一足飛びには無理でしょう」
まっすぐに立ったまま、詩歌は平然としている。
僕は返事もできないまま、スポーツ飲料をボトルの半分ほど飲んで、噴き出す汗を袖で拭う。
「さ、早く立ちなさい。敵は待ってくれないよ」
はい、と掠れた声で返事をしたけど、実際には掠れすぎてただの息のようになった。
起き上がり、少し木立を進むと、グラウンドに出る。フットサルのコートでは大学生らしい集団が遊んでいる。
そこから少し離れたところで、僕は詩歌と向かい合った。
彼女が用意した棒が僕の手にあり、棒は長さの割に軽い。プラスチック製で中空なのだ。
「じゃ、とりあえずは乱取りで、打ち込んで」
僕はまだ整っていない息をなんとか制御し、呼吸を読まれないようにする。
この稽古を始めて一週間が過ぎている。呼吸に関しては口を酸っぱくして言われ続けていた。
攻撃のタイミングを見切られるのは下策の中の下策。
攻撃とは常に不意打ちであるべき、というのが詩歌の教えだった。
タイミングを読まれないために視線や構えや姿勢で牽制を交え、陽動し、そうして初めて本命の攻撃を繰り出す。
本来的な前衛の魔法使いなら、構えや姿勢、視線、息遣いなど、そんなものは小手先の欺瞞に過ぎないらしいけど、僕ははっきり言ってど素人だし、一方の詩歌は一流、超一流の使い手だった。
ぐっと腰を落とし、突っ込むと見せかけて、しかし本当に突っ込み、変則的に身を沈める。
棒は腰だめに構えている。
目の前には詩歌がまっすぐに立っている。
まったく構えていない。
攻撃して良いか、逆に抵抗があるが、その抵抗を捨てることも叩き込まれた。
全体重を乗せて、伸び上がるように棒を突き出す。
ひらりと、詩歌が半身になる。
しかしそれは僕も読んでいる。
体を捻って素早く横に棒を薙ぎ払う。
その途中で僕の手が強制停止。
手首を掴まれている。間合いがあったはず。いや、そもそも詩歌の動きが見えなかった。
声を上げる間もなく、手首が捻られ、肘、肩に激痛。勢いを逃がすために自分から地面を蹴る。
空中で体が一回転して、背中から地面に落ちる。
身を丸め、転がる。この時には詩歌は僕の手首を放している。手加減されているのは明らかだ。
起き上がろうとして、視界の隅に影。
踏みつけるような攻撃をさらに意図的に転がり、回避。
やっとしゃがんだ姿勢を取り戻しても、今度は回避不可能な速度で直蹴りが僕の胸を打ち、肺から空気が逆流、体は跳ね飛ばされる。
背中から地面に落ちて、仰向けになる。
苦労して吸った息で咳き込むと肋骨が痛む。これでも、やっぱり手加減されている。
「センスがないよなぁ」
すぐそばまで詩歌が歩み寄ってきた。
「やる気があるなら、すぐに立ちなさい」
僕は答えるより先に、全身に力を込め、両手を地面についてなんとか両足で立った。
「それで戦えるものですか」
これだけは放すまいと握っていた棒を構えようとした腕を弾かれ、正拳突きが僕の胸を打つ。
こんなに人の体が容易に宙に浮くのは、実感、実体験だとしても信じがたい。
背中から地面に落ちるのは、これで何回目か。
空が見える。白い雲がゆっくりと流れていく。
一度、目を閉じて全てを闇で閉ざす。
体はどこもかしこも痛む。骨、筋肉、内臓、どれも決定的に壊れてはいないけど、解剖学的に際どいところまで痛めつけられている。
目を開いて、起き上がる。
詩歌は退屈そうに斜め上を見上げていた。
彼女への怒りはない。
あるとすれば、自分への怒りか。
自分が天才とか、一流とか、そういう人間ではないと知っている。知りすぎるほどに。
でも天才だって、一流とされる人だって、歴史上の偉人でさえ、最初は素人だ。
言い訳かもしれないけど、この言い訳が今、一番の支えになる。
握り続けていた棒を確認。魔法使いは魔法刀剣を本来的に必要とするから、どんな時でも得物を放してはいけない。鉄則だ。
それでも、ガチガチに強張った手を一度、緩める。
そしてもう一度、棒を握り直す。
まだ心は折れていない。
僕は詩歌に向かっていった。
公園は、僕の悲壮さと対照的に、のどかで、穏やかだった。
(続く)
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