1-5 始まりの時

       ◆


 思わぬ形でハン・ヴァーミリオンという中年男性に面倒を見てもらえることになった。

 何より助かるのは、両親に事情を説明することだったけど、それも請け負ってくれた。

 そうして両親とは動画通信で顔を合わせたけど、映像越しでも直視できないほど怒りに燃えていた。

「どうも、その」

 鬼の形相を前に、ハンでさえ言葉がすぐには出ないほどだった。

 それでも気を取り直したハンが、義照くんは我が社の求人に応募し、面談の結果、事務員として雇うということになりまして、とどうにか平静を装って説明した。

 カメラに映らないところで、両手を擦り合わせていたけど、手汗が不快だったんだろう。

「今朝には置き手紙を残して姿がなく、その日の昼過ぎにはトキオで働き口を見つけたというのですか?」

 目尻のつり上がった母親の言葉に、そういうことです、とハンは応じる。苦笑いというか、顔は引きつっていた。

「あまりに都合よくありませんか?」

 容赦ない母の追及に、ハンは短く笑った。

「都合が悪いよりはいいでしょう? お母さん」

「出来過ぎじゃありませんか?」

「出来ないよりはいいですよ、お母さん」

 これはもう、説明しているのか、挑発しているのか、わからなくなった。ハンの動転には共感できるけど、今は、その、盾になってもらうしかない。

「我が社は零細ではありますが、比較的、まともな事務所です。ご安心を。もし倒産することになったら、出来る限りの事をして故郷へ送り届けますから」

 ハンの言葉に、ピクピクと母の眉が震える。

「倒産するような会社に、息子を預けられると思いますか?」

「形あるものはいずれは壊れるものです」

「ハンさん、あなたの会社で学んだことが無駄になれば、それは時間の浪費です」

「そうでもないですよ。失敗から学ぶことは多い。僕の人生はそういう人生でしたけど。あくまで個人の感覚としては、ですが」

 母がまだ食い下がろうとしたが、ハンはいつの間にか適当に受け流し始めている。ヤケクソになったようにしか見えない。

 不気味なことに、母の隣に座る父は終始、無言だった。

 ハンがゆっくりと、しかし母に割り込まれないように切れ目なく言葉にする。

「とにかく実力主義の世界ですから、経済力だけではないのですよ。実績です。しかし事務仕事も多い。この技能は意外にどこの企業へ行っても役に立つ。まぁ、学歴より職歴、という世相でもありませんけど」

 そんなことをハンがペラペラと喋っているところで、不意に父がぐっと前に乗り出した。

「義照」

 僕は息を詰めて、画面を見た。

「お前が決めたことに、親が何かを言うのは間違っているのかもしれない」

 父の隣の母が、真っ青な顔で父を見ている。

「自分で決めたことだ。自分で進むんだ。いいな?」

 はい、と僕はとっさに答えていた。

 そんな僕に無言で頷き返し、父はハンの方を見た。

「ハンさん、息子をよろしくお願いします」

「ええ、まあ、喜んで」

 妙な返事をしたハンに、父は強張った顔でどうにか微笑み、母はまだ愕然としていて、通信はぎこちない別れの挨拶とともに切断された。

 恐ろしい人たちだね、とハンがネクタイを緩めて、シャツのボタンを二つ、外した。そうしてから僕に、ぼんやりと笑みを見せる。

「さて、では、きみの住まいを用意しないとね」

 椅子の上で背伸びしてから、ハンが跳ねるように立ち上がる。

 ヴァーミリオン事務所のフロアで、唯一、規則正しく全てが整理されているデスクで詩歌が仕事をしていた。今は僕とハン、詩歌しかいない。

 すでに自己紹介も済んでいる。

 彼女は筒井詩歌という名前で、トキオ出身、年齢は不明だけど、二十代。もちろん魔法使いで、ハンが口を挟んだところでは、トキオの若手の中でも売り出し中の魔法使いらしい。

 ハンの取り計らいというか、貧乏くじを押し付けられたというか、この女性が当分は僕の教師役になってくれるという。

 もう一人、所員がいるというけど、先ほどの越境災害の事後処理に出ているということだ。どうやら男性らしい。

 いつの間にか、そろそろ夕方になろうかという時刻だった。

「じゃあ、詩歌ちゃん、今日は早めに帰らせてもらうよ。新人くんのために部屋を掃除しなくちゃならないから。あと買い出しも」

「わかりました」

 端末から顔も上げずに詩歌が答える。

「ちゃんとした寝床とちゃんとした食事は提供してあげてくださいね」

「もちろん。これでも昔、犬を飼っていた時期もある。実に賢く、穏やかな犬だった」

「人間はどんな犬よりも面倒ではないはずですが、所長が意図的に努力を怠って、彼を私に泣きつかせるのは無しですからね」

 そんなことはしないよ、とハンは笑っているが、どこかぎこちないように見えたのは気のせいだろうか。

「じゃあ、お先に」

「お疲れ様でした」

 僕は「お疲れ様でした」と声にしたけど、詩歌は操作している端末を見たまま、さっと手を挙げただけだった。

 ともかく、そのまま僕とハンはトキオシティのはずれにある古めかしい集合住宅へ向かった。移動手段は二人乗りの自動車で、見たところ、丁寧に扱われていてボディはピカピカだ。走り出してみると古い内燃機関の駆動音が懐かしさを感じさせる。

 集合住宅は同じような建物が三棟、並んでいる。昔で言うところの団地に近い。

 セキュリティーが不安になるほど、あっさりと目的の部屋の前に着いた。ここではさすがに個人認証が数段階で行われた。声紋、掌紋、暗証番号。

 ドアが開くとき、ガチャガチャガチャガチャと音が連続したのには驚くしかない。それだけ防犯に気を使っているのだ。

 ただ、団地に住んでいるのが一番のリスクじゃないのか?

 中に入ると、ここでもタバコの匂いがした。でも嫌な匂いじゃない。甘さと苦さが混ざった匂い。

 中は狭く、部屋は三部屋しかない。一つはリビングで、ここはまだ片付いている。他の二つは洋間と和室で、和室の方は何が入っている箱なのか、大量の木箱が積み上げられていて、ほとんど空いている空間はない。

 洋間の方は、ちらっと見たところハンの私的な空間らしい。といっても純粋な書斎ではなく、ベッドルーム、寝室も兼ねているという感じ。

「きみはまぁ、ソファで寝なさい」

 そう言われて頷いて、やっと意識がそこへ向いた。

 荷物がない。例の越境災害の時、どこかへやってしまったのだ。

 そのことをハンに話すと、「警察に問い合わせようか。向こうからも接触があるだろうけど。警察は厳密に市民の安否確認をするから」ということだった。

 警察からの連絡が来る前にリビングの掃除を二人でして、それから郊外の大きなスーパーでの買い出しに行ったところで、警察から折り返しの連絡が来た。

 帰るついでに、ハンが警察へ寄ってくれた。

 トキオ市警の中央署は近代的な建物で、芸術的ですらあった。石造りで、細かな彫刻が無数に施されている。正面には何を象徴しているのか、剣を持った人物の像が並んでいる。

 荷物は確かにここに保管されていた。受け取る時、いくつもの質問を受けたけど、ここまでの道すがら、ハンが質問を予想し、答え方をレクチャーしてくれたのでその通りに答えた。

 越境災害が発生したのに驚いて、荷物を投げ捨てて逃げようとした。警察が敗退した後、運良く民間の魔法使いに保護された。揉め事になりそうだったので、逃げた。警報が止んでから荷物を探したけど、見当たらなかった。

 そんな感じで、どうもこれはハンと詩歌の間で脚色したストーリーらしい。詩歌は先に、僕を保護したことを警察に通知していたようだった。

 僕の相手をした制服の警官は不機嫌そうだったけど、書類にサインすることで荷物を渡してくれて、非常に助かった。大したものはないけど、少しの貴重品も入っている。

 警察署を出て駐車場の車まで行くと、外に出てハンがタバコを吸っていた。口元で時折、赤い点が灯り、消える。

 僕に気づいた彼の視線はすでに日が暮れかかっているので、曖昧だ。

「怪我っていうのも忘れているけど、どんな具合?」

「両肩がちょっと痛むくらいです」

「そうかい。若いから、治りも早いだろう。一応、帰ったら湿布でも貼るとしよう。さあ、乗った乗った、帰って飯にするぞ」

 僕は思わず笑ってしまった。

 トキオに来た第一日目で、こんな多くのことが起きて、急に道が開けるとは、想像もしていなかった。

 道が開けたと言っても、何も見通せないし、明日のことすらわからないけど、始まったことだけはわかる。

 あとは僕次第だ。



(続く)

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