1-3 魔法使い

      ◆


 巨猿が吠える。

 その眼前へ飛燕の如く、鎧をまとった女性が切り込んでいく。

 彼女の右手に握られた短剣が伸長。

 違う、短剣を芯にしてまったく新しい剣に変わる。

 それは似ている現象を探せば、真冬の寒い日に軒から垂れる水のしずくが、凍りついて氷柱になるようなものだ。

 でもそんなに呑気なものではない。

 短剣は一瞬で長剣のそれに変わったのだ。

 毛に覆われた巨猿の腕が迎え撃つのを、ひらりと回避し、女性の刃が一撃でその腕を輪切りにする。

 恐るべき切れ味と人間の限界を超えた剛力、そして圧倒的な技が僕の目の前の光景にあった。

 どす黒い血しぶきを撒き散らして腕が飛んでいき、絶叫する巨猿の目の前で地面を蹴りつけた女性が飛翔。

 追い払おうとがむしゃらに振られる片方だけの腕を蹴りつけ、次には巨猿の肩の上に彼女の姿があった。

 その時、何か言っただろうか。そんな素振りがあったけれど、声はもちろん聞こえない。

 刃が一閃。

 巨猿の動きが停止し、足から力が抜け、腕も垂れ下がる。

 膝から崩れた反動で、巨猿の首が緩やかに傾き、地面へと落ちていくのは、現実味がなかった。

 まずその頭が地面に転がり、次に巨体が倒れこむ轟音が辺りを揺るがす。

 それら全てを背景にして、女性が地面に着地した。

 さっと刃から血を払い、魔法を終了させていく。まず剣が光る粒に変化して短剣の姿に戻り、女性の全身の鎧も細かな粒子となって舞い上がる。

 そうして、彼女の武装は消えてしまい、元の姿に戻った。

 巨猿はといえば、こちらもやはり細かなきらめく塵となって、吹き散らされるように消えていく。

 女性が短剣を鞘に戻し、サングラスをかけ直した時には見上げるほど巨大だった猿の大質量はもうほとんどなくなっていた。

 僕の前にやってくると、仁王立ちした女性が不思議そうに首を傾げる。

「ここにいると、厄介なことになるよ。さっさとどこかに逃げなさい」

 答えようとした。

 した途端、肩の激痛に息が詰まった。肩だけじゃない、腕も背中も痛い。

 さっきまでなんともなかったのに、脂汗が吹き出し、奥歯がカチカチと音を立てる。

 うずくまった僕に呆れたようで、女性が盛大に溜息を吐き、耳元に手をやった。何か話し始める。

「所長? ええ、仕事は終わりました。警察の分隊が一つ、やられています。損害はその四名だけですが、とりあえず生きています。救急隊もすぐ来るんじゃないですか。あとはバンが一台、お釈迦ですね。とにかく安全は確保されました。ええ、それで」

 ちらっとサングラスの向こうの瞳がこちらを見た。

「民間の負傷者がいまして、警察と関わりたくないようです。え? 理由? 知りませんよ。事情も知りません。聞いてませんから。ですから、民間人です。ただ雰囲気からしてトキオの住民ではないですね。トキオの住民ならさっさと逃げていますから。自殺志願者じゃないかって、越境災害を待って自殺するほど呑気な人がいますか?」

 少しずつ女性が険を見せ始める。僕のせいだろうか……?

「一時的に保護するだけです。どうも怪我しているようですし……。ああ、そうですか。では、事務所で」

 女性が耳に当てていた指を外す。そしてこちらを見て、ちょっとだけ口元を緩めた。

「一応、うちに来てもいいみたいよ。立てる? どこが痛む?」

「う、腕が……。あと、背中……」

「腕と背中ね」

 女性が膝をついて、いきなり僕の両肩を確かめたので悲鳴をあげそうになった。

 ものすごい激痛で、息が止まる。

 はめるとも直すとも言わず、女性の両腕が器用に僕の肩に片方ずつ力を込めた。まず右、次に左。それぞれにものすごい痛みがあったけど、先ほどよりはずっと楽になった。背中もだ。

 これも魔法か? 信じられない。

「乗れる?」

 感心する僕をよそに女性はもう移動のことを考えていた。目元に涙がにじむのを素早く袖でぬぐって、「乗れます」とやっと答えた。二輪に乗った経験はないけど。

 僕が黙っていたので、そのまま大型二輪に乗せられて、道を走り始める。かなりスピードが出てる、今度は冷や汗まみれだ。

 というか、先ほどの現場はどうするのだろう。

 そう思っていたけれど、サイレンがいくつも近づいてくる。警察の応援はこの女性以外にもいるらしい。

 大型二輪はどこをどう走ったのか、人気の少ない旧市街という趣の一角で停車した。ちょっと、気分が悪くなりそうだったので助かった。

 古びた四階建てのビル。看板が出ているが、全部に何の表示もない。真っ白な看板だ。

 しかし一階のドアの横には札があり「ヴァーミリオン事務所」と印字されていた。ただ、その印字された文字も風化していてだいぶ掠れていて、読みづらい。

 大型二輪の警報装置を起動してから、女性が「ついてきて」とドアを開けて中へ入っていく。

「お、お邪魔します」

 よろめきながら僕は一応、そう声に出して中に入ったけど、予想外の光景がそこにあった。

 事務机が六つほど並んでいるが、そのうちの三つは完全に書類や工具箱や古い端末やおもちゃ、そういうもので埋まり、偏執的に覆われていた。残りの三つのうちの一つは丁寧に片付けられ、もう一つは雑然としているが最近に人の手が入っている気配はする。

 最後の一つは、書類がうず高く積まれて、記録装置が並び、端末があり、その端末の上に人の足があった。

 椅子に座って机に足を乗せているのは、男性のようだった。

 顔の上に週刊誌が被せられていた。

 僕と女性が入ってきたのに気づいていないのか、ピクリともしない。

「所長!」

 女性の一喝に「フゴッ」と変な声をあげ、その人物が雑誌を払い落とした。咳き込みながら椅子から転げ落ちそうになったが、足を机に乗せたままに変なバランスで転倒は回避した。

 真っ赤なレンズのメガネをかけているのがまず印象に残る。次は真っ白い髪の毛で、長く伸ばして一つに結ばれていた。

 しかしどこか締まりのない表情をしていて、これは寝起きだからだろうか。

 その視線がレンズ越しに女性に向けられる。

「詩歌ちゃん、いつ戻ったの? 早いね」

「連絡した時点で終わってましたから。そう先に言ったでしょう」

 詩歌ちゃんと呼ばれた女性はやや冷ややかな口調でそう告げると、僕を手招きした。

「この少年が、例の民間人の少年です」

 やっと男性が足を机の上から下ろし、何の意味があるのか、緩めてあったネクタイを締め直した。

「それで」

 男性がじっと僕を見て、何かを確かめるようにわざとらしく視線を上下させた。

「怪我人だって聞いたけど、どこを怪我しているわけ?」

 僕がまごついていると、彼の視線が女性に向けられる。女性は実に簡単に答えた。

「怪我というのはほとんど方便です。ちょっとは怪我くらいしてますけどね」

 あのねぇ、と男性が女性に何か言おうとしたが、それよりも先に女性が耳元に手をやった。

「神崎さん? ええ、こちらは終わって事務所です。すぐに警察に報告に行かないといけませんけど……。え? そっち、そんなに強力なんですか? 他の事務所に任せたらどうですか? はぁ。そうですか。わかりました。はい、はい、では」

 女性が手を耳元から話すと、男性に向き直った。

「神崎さんの方が苦戦しているようです。援護に行きますので、この子から事情くらい聞いてあげてください。それと私の方の現場の報告もしないといけないので、帰ってくるのは遅くなります。では、よろしくお願いします」

 まくし立てるように言うなり、女性は勢いよく、しかし優雅な動作で身を翻して事務室を出て行ってしまった。

 ドアが閉められる音の後、静寂がやってきた。

 小さく唸ってから、参ったね、と男性が笑いながら言うと、椅子を軋ませてゆっくり立ち上がった。

 このまま僕は追い払われる。

 そう思ったけど、彼は意外にも「ちょっと付き合いなさい」と僕を手招きした。



(続く)

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