1-2 越境災害

     ◆


 越境災害は魔法使いの悪影響。

 そういう主張が常識になっている。

 そしてトキオこそ、魔法使いたちの中でも優れたものが集まる地だ。

 耳を塞いで甲高い音に耐えていたのが、唐突に何も聞こえなくなった。

 無音。

 顔を上げても、周囲に変化はない。

 音もなく、それは虚空の一点から現れた。

 その出現の様子はイメージとしては風船が膨らんでいく様が近い。

 しかしあまりに巨大だ。

 空中の小さな点から、あっという間に頭が膨れ上がり、首ですぼんだ後、肩、そして腕が現れ、上半身が覗く。

「さ、猿……?」

 変な折れ曲り方をしながら足が伸び、地面を踏みしめる。まず右足、次に左足。地面が揺れ、振動が僕を震わせる。

 こうして姿を現したのは、身の丈が四メートル近い巨大な猿だった。

 越境存在と呼ばれる、こことは違う世界の存在。

 その巨体はこの世界にありえない大きさで、頭の位置は見上げるほど高い。

 巨猿が吠える。衝撃によろめくほどの咆哮だった。

「何をしている!」

 背後からの怒声。

 振り返ると、「警察」と側面に書かれたバンがすぐそばに止まっていた。全く気づかなかった。

 降りてきたのは全部で四人。全員が武装している魔法警察だった。

 三人が腰から短い剣を抜き、一人が僕の手を掴んでバンの後ろに引っ張り込んだ。

「どうして逃げなかった! この阿呆!」

 僕は答えようとして、しかしそれはできなかった。

 絶叫が響き渡り、僕を息を呑んだ。その僕をその場に残して警官がバンの陰からさっきの巨猿の方を確認した。彼は舌打ちして、首元にぶら下がっていた無線機に何か話し始める。ほとんど怒鳴っている上に、専門用語が多すぎる。

 ともかく、援護を要請しているようだ。

 悲鳴は続いている。怖い、と思った。そう思ったら、体が震えた。

「いいか、ここを動くなよ!」

 警官はそう言った。

 はずだ。

 轟音で聞こえなかった。

 僕たちが隠れていたバンが吹っ飛ばされた轟音で。

 僕は反射的に頭を下げ、ほとんど地面に伏せた。

 音が遠ざかり、顔を上げると、離れたところにバンが横転していた。さらに視線を巡らせると、巨猿がこちらへ歩んでくる。一歩ごとに地面が揺れ、音よりもその振動の方がリアルだ。

 さっきの警察官は……。

 視線を巡らせると、通りに面した建物のそばまで吹っ飛ばされたバンのすぐそばに、あの警官が倒れていた。

 生きているのか、死んでいるのか。

 他の三人は?

 やはり倒れている。血だまりが見えた気がしたが、よく理解できない。もう悲鳴も聞こえない。

 僕もああなるのか?

 どうしたら……。

 僕はもしかして、もしかしなくても、ここで、死ぬ?

 その時、視線がそれを捉えた。

 さっきの警官が腰に帯びていた剣がすぐそばに転がっていた。

 魔法を発動することを補助する機能を持つ剣。

 魔法刀剣。

 使い方なんて知らない。

 でも今はこれしか、武器がない。

 飛びつくようにして剣を手に取り、構えた。

 切っ先どころか全部がブルブル震えて、柄を握る手にも力がこもらない。今にも剣を取り落としそうだと他人事のように思う。

 僕に構わず、悠然と巨猿が歩んでくる。

 丸太のような腕が振り上げられ、僕はそれを前にしても震える以外、何もできなかった。

 振り下ろされた腕が伸びる。

 そうか、だからさっき、距離があって安全だったはずのバンが跳ね飛ばされたのだ。

 大きすぎる手のひらは、気づいた時には僕のすぐ目の前にあった。

 跳ね飛ばされて建物の壁で染みになるか、もっと徹底的にすり潰されて地面に張り付くか。

 絶望。

 ぐっと魔法刀剣の柄を握ったのは何故だろう。

 頭の中で光が爆ぜた。

 その光の向こうに、圧倒的な光景が展開されたのは、初めての感覚だった。

 その光景は、この世のものではない。

 果てしなく広がる火山。

 何も見えないほどの極寒の吹雪。

 楽園のごとき花園。

 金属の鈍い光と鉱物の結晶だけの無機的な世界。

 ビリビリッと手が痺れた。

 巨猿の手のひらは、僕を直撃するはずだった。

 それが僅かに逸れ、指の一つが僕が握っている剣に接触するだけになる。

 それだけでも圧倒的な勢いを伴った質量に、剣が跳ね飛ばされ、無意識に握りしめた僕の手から腕、肩、胴体と引きずられて、あっけないほど簡単に両足が地を離れる。

 体が宙を舞った感覚は、地面に墜落してから把握できた。

 肩から落ちた激痛、背中への衝撃が続き、また肩が地面を滑り、その繰り返しの後に体は仰向けで停止した。

 視界が明滅する。

 痛いなんて言っていられない。

 まず息ができない。両肩がまるで脱臼したように痛むけど、そもそも脱臼を経験したことがない。

 とにかく、逃げなくては。

 両腕に力を込める。例の魔法刀剣は既にどこかにすっ飛んでしまい、手の中から消えている。そばには見当たらない。

 巨猿の足音が近づいてくる。

 悠然とした、ゆっくりしたものだ。

 なんとか僕は四つん這いになり、両脚に力を込めて、駈け出すことができた。

 なのに、痛みのせいか、先ほどのデタラメな衝撃のせいか、ふらついてよたよたとしか足を進められない。駈け出すなんて夢のまた夢、僕は酔っ払いのようにしか先へ進めなかった。しかもたったの二歩を進んだだけで、倒れ込んでいた。

 背後を振り返る。巨猿が腕を振り上げる。

 やっぱり死ぬんじゃないか。

 こんなことなら、都会になんて来るんじゃなかった。

 立ち上がり、しかし今度は一歩目で足がもつれた。

 無意識に視線が巨猿の方に向いた。

 今にも腕が振り下ろされるところだった。

 死んだ。

 頭を下げ、うずくまるようにしたのは、生物の本能だろう。

 轟という異常な風を突き破る音。

 空気が僕を打った。

 終わった。

 ……風が吹き抜けていき。

 それだけだ。

「あなた、こんなところで何しているわけ?」

 頭上から声がした。

 恐る恐る顔を上げていく。

 革製のブーツ、スキニーデニム、ベルトには飾りが多いバックル。

 短い丈の外套の下には東洋風の民族衣装を感じさせる着物。

 細い首筋。顔も小さいが、半分は今、サングラスで隠れている。

 髪の毛は長く、輝くような金色だった。

 意志の強そうな口元がへの字に結ばれ、視線はこちらを見下ろしているようだ。

「まぁ、後で話を聞くとしましょう」

 やっと僕も周囲が見えた。

 女性の向こうに大型二輪が止まってる。この女性は警察の援護なのかもしれない。巨猿が唸りながら身を屈めているのを背景に立つ彼女を見て、ぼんやりと思った。

 彼女が右の太腿に括り付けられている鞘から、短剣を引き抜く。

 魔法刀剣だ。

 彼女は、魔法使いなのだ。

 左手で彼女がゆっくりとサングラスを外す。

 女神のような美貌が露わになった。

 しかしそれはすぐに隠れる。

 何もないところから、物質が出現し、彼女の身体を覆っていく。

 頭も兜に包まれ、面頬が下げられた時には、幾何学的な文様で構成された鈍い光沢を放つ金属の鎧で全身が装甲されていた。

 巨猿が吠える。

 女性が突進を開始。

 目で追いきれない速度。

 これが僕が初めて実際に目にする、高位の魔法使いの戦闘になった。



(続く)

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