第弐什話 翔子からの依頼

「頑張りましたね、新田にったさん、元気な女の子ですよ」

 

 初めて翔子が助産師として、新生児を取り上げた瞬間だった。勤務三年目の事だった。

 

「ありがとうございます、梅木さん、初めての子、梅木さんに取り上げてもらえて良かったです」

 

 初産だったこの妊婦と翔子は汗だくで、喜び溢れる産声を浴びていた。翔子が助産師として、自信を重ねる経験となった。

 それから五日後、予期せぬ事態が起こった。その新生児が誘拐されてしまったのだ。

 

「わ、私の子、盗まれた、紗英さえが誘拐された、何故、私の子が、絶対みつけてよっ、私に生きて返して」

 

 母親の新田佳代にったかよこ子は周章て強い口調になった。

 

「はい、絶対に、警察には連絡しました、私どもも、全職員の所在を確認中です、もし、うちの職員がそうしたとしたなら、逃亡する恐れがありますから、一応、こういった事態に備えて緊急時マニュアルを警察に協力してもらい、作っております、新田さん、不安でたまらないと存じますが、出産直後ですから身体に障ります、お部屋に戻りましょう、たいへん申し訳ございません、梅木さん一緒にお願いします」

 

 看護師長の上田忍うえたしのぶは冷静だった。

 

 程なくして、警視庁捜査二課から刑事が五人登場した。

 一人の刑事が病院長と事務長と共に、新田佳代子の部屋へ訪れた。

 

「この度は、私どもの病院の管理体制の甘さが、このような事態を招く事となりましてたいへん申し訳ございませんでした」

 

 病院長の田代優作たしろゆうさくが早々に謝罪した。

 

「警察の方もいらして居ります、我々も全面的な協力体制を取らせて頂きます、万が一の場合は、私と病院長が責任を取る覚悟で早期解決に努めさせて頂きます」

 

 事務長の岡部誠司おかべせいじが、院長と共に頭を下げた。

「宜しくお願いします。絶対、紗英は生きて帰ってきますよね」

 

 佳代子は、ギャッジアップされたベッドにもたれ掛かって座り、俯き、涙を流していた。

 

「新田さん、初めまして、警視庁捜査二課から参りました、松重まつしげ明穂あきほ警部補です」

 

 警察手帳を見せ、名刺を渡し、挨拶した。

 

「捜査の方針は、暫くマスコミには、非公開で進めます、上田看護師長からもお話があったように、全職員の所在確認をしております、これは、後、三〇分で終わります、そして、警備室で二課のものが、防犯カメラを解析してます、また、病院周辺の聞き込み、監視カメラの解析を同時に行ってます、それと、この病院で出産を迎えて、死産や出産後一年以内に何らかの原因でお子様を亡くされた方をカルテから抽出して、その方々の身辺も調べます、恐らく、容疑者を洗いだす事が出来ると思います、犯人はこれまでの事例からも、子供が欲しいという動機から、犯行に及んだ女性の可能性が高いです、そのような女性だと、赤ちゃんを乱暴に扱うといった事はありませんので、どうか新田さんも気丈になって頂いて、捜査へのご協力お願い致します」

 

 松重警部補は、新田佳代子の不安を少しでも軽くしようと考えて説明した。

 

「では、暫く私と新田さんだけでこの部屋に待機させて下さい、院長はじめ、職員のみなさんは業務に戻って下さい、くれぐれも、情報漏洩が無いように細心の注意を払って下さい、通常通りに仕事して下さい、捜査員への協力も宜しくお願いします」

 

 松重警部補は冷静に指示を出した。

 

「新田さん、携帯電話はお持ちですか、分かりやすい場所に置いてて下さいね、それと旦那様には、既に連絡しました、奥さんの体調が悪くなったからといってきて頂きます、これも情報漏洩の予防です、旦那様が到着されましたら、私どもの一人と病院職員で、事情を説明し、ここへいらしてもらうようにします、ご心配なさらないで下さい、後、ご実家のご両親には何も伝えておりません、いらっしゃった時に、ご主人と同じように説明させて頂きます、それと、旦那様は、もう新幹線に乗って向かってるようです、名古屋がご自宅なんですね」

 

 しばし、時間が止まったように、二人には沈黙が流れた。

 

「松重さんは、お子さんいらっしゃいますか」

 

 佳代子は寂しく不安を気持ちを込めた。

 

「はい、中学一年の長女と小五の長男が居ます、主人は幼馴染で精肉店をしてます」

「じゃあ、二人のお子さん達は、お肉盛り盛り食べて学校生活を楽しんでるのでしょうね」

 

 佳代子の言葉は穏やかだが、松重に顔を向けるのがやっとだった。

 

「はい、お陰様で、二人は柔道をしております、凄い食欲です、下の子はお姉ちゃんにまだ勝てなくて、練習の鬼と化してますよ、部活が終わって、家で晩ご飯食べて、夫と稽古するんです、勝ち負けには拘らず、柔道が好きになって、いつまでも柔道を楽しんでくれると良いなぁと思ってます」

 

 松重は躊躇無く自分の子供たちの話しをした。

 

「逞しいですね、うちの紗英も好きたことを見つけて夢中になって欲しいなぁ」

 

 松重の嘘、偽りのないように感じる言葉は幾分、佳代子の心を癒した。

 

「あっ、報告メールが来ました、病院職員の所在は明らかになったようです、ですから、職員さんたちの中に容疑者が居ないのが明らかになりましたね、順調です」

 

 佳代子は少しだけ安心した。そして、佳代子の夫、大吾だいごが到着した。

 

「佳代子、大丈夫かい、紗英は必ず戻ってくるさ、この方は」

 

 大吾は冷静を装い病室に入ってきたが、佳代子の顔をみるなり、普段、見たことのない雰囲気を感じ、優しい表情を見せた。

 

「うん、大丈夫よ、落ち着いてきたわ、こちらの方は、警視庁の松重さん」

 

「初めまして、警視庁捜査二課の松重明穂警部補です」

 

 名刺を渡して、挨拶すると目力を強めた。

 

「ご夫婦が揃いましたので、早速ですが、お聞きしたい事があります、宜しいですか」

 

 その内容は、二人に恨みを持ってる人はいないか。身近に、子供が欲しい事を熱望する人はいないか聞いた。

 

「私たちの同世代の夫婦は誰でも子供は欲しいと思います、しかし、熱望してる人までは分かりません」

 

 佳代子は答えた。

 

「私も、そろそろ産まれる事を喜んでくださる人や、夫婦で力を合わせて育児をするようにとか、説教じみた事を最近よくいわれます」

 

「とりあえず、奥様がおっしゃった、〝熱望する〟までは言わずとも、羨ましいがる人のお名前と連絡先等教えて頂けますか」

「はい、分かりました」

 

 佳代子は三人の女性の名前と電話番号を教えた。

 

「では、この方々の現状を調べます、あくまでも、容疑者から外すための捜査ですので」

 

 そういうと、メールで部下たちへ情報を送った。

 松重に報告のメールが届いた。この病院で、不幸にも死産になってしまった女性二人と、不妊治療を受け、子供を授かれなかった二人の女性がいたのが分かった。その女性達の捜査も開始された。この日、これ以上の進展はなかった。

 翔子は、勤務の途中に、睦基に連絡を取った。

 

「睦基君、今日、病院から私が初めて取り上げた赤ちゃんが拐われたの、看護師長が警察と協力して捜し始めたんだけど、でも、新生児室から運び去るなんて、できるのかしら、不思議でたまらないわ」

「翔子ちゃん、辛いね、でも、僕に話してもいいのかい、っていうか、こんな話、誰にも漏らさないけどさ」

 

 翔子から電話で事件のことを聞き、睦基は驚くも直ぐに冷静になった。

 

「睦基君は信用できる人、それ以上の人たちだもん、睦基君たちにも調べて欲しい、お願いします」

 

 翔子は半泣きになった。

 

「分かった、翔子ちゃん、一文字です、防犯カメラから見てみるよ、携帯は持ってられるの、勤務中でしょ」

 

 一文字に代わり、翔子に聞いた。

 

「うん、大丈夫、いつも持ってるから」

「何かあったらメールするね」

 

 一文字はそういい電話を切った。

 

 早速、医局の自分のデスクのノートパソコンで、一文字が翔子の病院のサーバーに入り込んで、新生児室の防犯カメラ映像を見た。

 深夜一時以降から録画された映像を早送りで見た。深夜勤の看護師達、三人は、定期的に、一人一人の新生児の様子を見回りをしていた。この三人がどの子を見るか決まってるようだ。

 午前五時頃だった。拐われた紗英ちゃんのベッドの下から一瞬、一秒も満たないくらいの長さだけど、手が見えた。そして、何ら変わらない映像が流れた。一文字は、見逃さなかった。そして、その瞬間の映像を静止させた。

 

 〝手袋してるよ、それも掌に滑り止めが付いた手袋だよ、この手が犯人だね、きっと、恐らく防犯カメラの位置が分かってる人だ、それと、防犯カメラを操作してる人も居るね〟

 

 一文字は言った。

 

 〝同じ時間帯の出入り口の動きに変化ないかしら〟

 

 レイはいった。

 

 〝ここでも一瞬だけ扉が動いたよ〟

 

 手が見えて数一〇秒後にその扉の変化が確認出来た。そして、その一時間後、紗英ちゃんが居なくなった映像に突然、切り替わった。そして、三人の看護師が紗英ちゃんのベッドに駆け寄ってきた。三人のうち、一人の看護師は、他の二人よりも慌てた素振りが少なく、紗英ちゃんがいないのに気づいてたかのように、ベッドに近づいて来た。その日、紗英ちゃんを見てた看護師だった。

 

 〝これは、この時間帯に勤務してた人しかできないトリックだ、恐らく、外で子供を受け取る人がいたはずよ〟

 

 レイはいった。そして、防犯カメラを見た結果を翔子にメールした。

 

「犯人は独りじゃないのね、うちの職員と外部の人なのね」

 

 メールを読んだ翔子は呟いた。睦基からのメールの最後に、『仕事が終わったら、実際に、翔子の病院の出入り口近くの防犯カメラや効率良く逃走出来そうなルートを探してみるよ』と、あり、『ありがとう』と、翔子は返信した。

 

 一方、警察の捜査では防犯カメラ映像で午前六時に紗英ちゃんが突然、姿を消した映像を確認したものの、睦基たちが見た、それよりも一時間前の手袋をした手や出入り口の扉の動きには気づけないでいた。そして、新生児室のナースステーションにある壁に埋め込められた、カメラの操作盤に異常がないか、指紋の検出も行った。

 その結果、操作盤に付着してた指紋は、このカメラを取り付けた業者の物である可能性があった。しかし、その業者は静岡県に本社を持つ会社で、東京支店等は存在しない。松重は、捜査員の一人を静岡に向かわせたため、捜査が一旦、中断する事になった。

 睦基は仕事が終わると、レイと交代して、翔子が勤める病院へ向かった。正面玄関辺りを見廻っていると、翔子が私服で出てきた。

 

「あ、レイさんで来たの、お久し振り」

 

 翔子の表情は硬かった。

 

「お疲れ様、翔子さん、仕事、終わった、一緒に回ってくれるとありがたいけど」

「うん、こちらこそ、お願いします」

 

 二人で、後、二箇所ある出入り口を確認することにした。

 一つ目は救急車で搬送された人が運ばれる出入り口だった。その出入り口前の駐車スペースの路面には、オレンジ色で、緊急車両専用と四角形の線に囲われバツ印の二本の線が交差する中央にその字が書かれていて、建物に平行に二台は車が停められるスペースになっている。その建物側の四角形の一遍と平行に建物に向かって、左から右へ薄くなる泥で塗られたタイヤ痕があった。

 右端だけ少し濃くなってた。

 また、軽自動車程の幅で、ゆっくり走らせてきて停まったような痕だった。この一点だけ怪しく思えた。

 次に、夜間通用口に向かった。ここは、面会時間が二〇時で終わる時や深夜勤の職員に使われる出入り口で、特に変わった様子はなかった。

 レイと翔子は、正面玄関先のベンチに座った。

 

「防犯カメラ、確認する、翔子さん、一緒に見て」

 

 レイが鞄からノートパソコンを取り出し、頭の中で一文字が言う通り、ハッキングした。紗英ちゃんが拐われた時間帯の救急搬送される出入り口の画像を見た。

 その出入り口より三メートル前くらい、丁度、画像の切れ目に一瞬、白い車の屋根が見えて消えた。そして、病院の敷地から車道に出る車の出入り口、白い屋根が見えた位置から一五メートルくらい先に右折するウインカーを点滅させてる白い軽自動車の最後部の側面が突然現れて車道へ向かっていった。

 

「あの、泥のタイヤ痕は白い軽自動車ね。二箇所で見えたわ、屋根と尾尻の部分、ナンバープレートが黄色、数字は見えなかった」

 

 レイはその映像を覚え込むように言葉にした。

 

「私、見えなかったけど」

 

 翔子は呆気に取られた。

 

「うん、見えないかも。私達、六人の視力合わせられるから、じゃあ、車道に行こう」

 

 驚いた翔子は無言でついていった。

 車の出入り口から右を向くと、一〇メートル先に調剤薬局、コンビニ、コインランドリーが並んでいて、交差点になっていた。

 そこまで歩いて行くと、車の停止線の直ぐ横にコインランドリーが位置していて、車道側を向く防犯カメラが店内の奥に設置されていた。このコインランドリーは二四時間営業になっていて、出入り口は常に開いている状態だった。

 

「もしかしたら、映ってるわ」

 

 レイはコインランドリーの洗濯機にノートパソコンを置き、ここを警備してる会社にハッキングした。

 すると、助手席側の窓ガラスが降りた、白い軽自動車がゆっくり進んで来て、車体に赤色が反射していた光が緑色に変わると、一瞬、助手席を見て加速した。

 この画像をコピーして、スロー再生し、解像度を上げた。運転してるのは、女性、三〇から四〇代。助手席には、黒い大きめのファスナーが開いたまま、丸めた白いバスタオルのような物が入ったボストンバックが置かれていた。

 その女性が助手席に顔を向けた瞬間を静止した。解像度も更に上げた。

 

「この人、見た事ある、不妊治療でうちに入院してた、私、病院に戻る」

 

 翔子はコインランドリーを駆け出ようとした。

 

「待って、ここでもみれるわ」

 

 レイは翔子を止めた。

 

 病院にハッキングして、カルテを見た。

 

 『相田千鶴あいだちづる、四六歳、不妊症』

 

「この人よ、間違いない、子供が欲しい、欲しいって、新生児室を長い時間見てたわ、私たちに気兼ねなく、気さくに話してきてた、半年前くらいだったはず」

 

 翔子は目を見開いていた。

 

「この人の家に行きましょう」

 

 レイは、無表情だった。

 

 一方、警察は静岡の防犯カメラの会社でこの病院の担当者の指紋を提供してもらい、静岡県警で照合した。結果は、その担当者の指紋だった。病院内では、防犯カメラの画像の解析をしてた。新生児室での変化、救急搬送者の出入り口の画像の変化を気づかずにいた。

 

「手がかりがないわね、ナースに話聞きたいけど、みんな忙しそうで、そんな暇はないわね、深夜勤の人達も手がかりになる証言がなかったから、謎だらけだなぁ」

 

 松重表情は、困惑していた。

 

「刑事さん、ほんとに紗英は大丈夫なの、なんか頼りないんだけど」

 

 佳代子は怒って松重に噛みついた。

 

「佳代子、相手はプロだよ、時間かかるんじゃない、落ち着こうよ」

 

 大吾の声には力がなかった。まだ、父親の自覚を持ててないからだった。

 

「大吾は私の気持ち、分からないのよ、あの子ができたことを話した時も素っ気なかったし、悪阻で苦しんでる時だって、病気じゃないんだから、寝てろとかしかいわないし、それでも父親なの」

 

 佳代子は大吾の言葉に余計、怒りを増した。

 

「申し訳ございません、どうかご夫婦で揉めないで下さい、最善を尽くしますので」

 

 少し、強めの言葉遣いで、松重は深々と頭を下げた。

 警察の捜査は、全く進展していなかった。

 看護師長は院長室に呼ばれ、総看護部長と事務長、四人で今後を話していた。

 

「私、この事件が解決したら、責任取らせてもらいます」

 看護師長の上田は腹を括っていた。

 

「な、何いってんだよ、師長、後ろ向きな考えはよしなさい」

 

 事務長の岡部はそんな申し出を受け入れる余裕なぞなかった。

 

「そうだな、産婦人科も閉めないといけない事態になりかねんな」

 

 院長の田代は苦い表情を見せた。

 

「待って下さい、院長、そんな事になったら、収益減ですよ、不妊治療は保険外でも受ける患者さんが居ますから、収益激減しますよ、成績も良いし、上田師長も医師たちも頑張ってますよ、職員の給与だって、減り兼ねませんよ」

 

 岡部は珍しく、院長に反論した。

 

「すみません、私独りで責任取りますので」

 

 上田師長は益々、自分の責任だと感じた。

 

「みなさん、こんな時が正念場ですよ、私は、上田師長が辞めることも、産婦人科を廃止するのも反対です、今回の事件がどんな結果になっても、我々は真摯に捉え、反省すべきです、そして、これまで以上に、来院される方々の信頼を高める機会にするのです。ですから、耐えるのです、職員が団結するのです」

 

 総看護部長の夏目節子なつめせつこの言葉は説得力があった。

 

「そうです、そうですよ」

 

 岡部は同意した。

 

「でも、事勿れ主義ではないが、私は安心、安全を重視したいな、収益が落ちるのであれば、それなりの経営をすればいい、有資格者は、食いっぱぐれがないから、他の病院に移ればいいさ」

 

 田代院長は冷ややかだった。

 

 このように、警察は捜査が難航し、経営陣は事件後の後処理に迷走していた。

 

「歌音に代わるわ、こんな場面は、彼女が得意だから、翔子さんは、犯人と会わない方がいい」

 

 紗英ちゃんを誘ったであろう松田千鶴の家の近くで、レイは翔子に言った。

 

「分かった、任せる。あの公園で待ってるわ」

 

 翔子は不安な表情を見せないようレイたちに任せた。

 

「こんにちは、相田さん、金井です」

 

 このアパートの隣りの家の表札と窓越しに、千鶴と同年代らしき女性が見え、その人のふりをして、玄関先に歌音はたった。

 

「はーい、ちょっと待ってぇ」

 

 千鶴は、三年前に夫と離婚し、アパートで独り住まいをしていた。離婚の原因は、千鶴の執拗なまでの子供欲しさへの執着と夫の不倫であった。夫はその不倫した女性との間に子供を授かった。それに対し、激怒した千鶴は上限額の慰謝料を請求し、財産分与した土地を売却し、今、住んでるアパートを購入して、家賃収入で生計を立てている。経済的な不安がない生活を送ってた。

 

「えっ、あなた、どなた」

 

 玄関を開けて、歌音の顔を見ると、千鶴は呆気に取られていた。

 

「お邪魔しますね、紗英ちゃんはどこかな」

 

 歌音は土足のまま強引に家に上がり込んだ。

 

「なによっ、あんたは」

 

 千鶴は、横切る歌音を捕まえようとしたが、歌音は千鶴の腕を取り、脇固めで千鶴を床に押さえ込んだ。

 

「千鶴さん、気持ちは分からないでもないわ、私も子供が産めない身体なの、でも、他人の子を奪うなんてあり得ない、出産がどれだけ命がけなことか分かってるはずよ、女として恥ずかしくないのっ」

 

 歌音は強い口調で、千鶴を床に押さえつけていると、千鶴は泣き出した。小さな声で啜り泣いた。抵抗する力が抜けた。歌音は腕を離した。

 

「ご、ごめんなさい、どうしても、どうしても子供が欲しかった、子供を育ててみたかった、不倫されて、あいつには、子供ができて、悔しくて、悔しくて」

 

 涙は鉄砲水のように流れていった。

 

「千鶴さん、座って、私を見て」

 

 その姿を見た歌音は優しい声で誘った。

 千鶴はゆっくり起き上がり、歌音の顔を見ながら座った。

 

「私はね、卵子が作れないの、不妊治療も出来ないの、だから、子供は作れないの、でも、大切な仲間が居る、兄や姉のような人、弟や妹のような子たち。その仲間たちがね、私が困ってると支えてくれるの。私を慕ってくるの、一生、傍に居て欲しい、傍に居たいっていってくれるの、まるで家族みたいに、自分の身体を僻んで、身勝手に、利己的に生きてたら、そんな仲間はできなかった、千鶴さんの現状はあなた自身がそうさせた要因だって有るはずよ、よく考えて、紗英ちゃんをご両親に返しなさい」

 

 歌音は、優しく説得した。

 千鶴は緊張の糸が切れて、肩を落とし、俯き、沈み込んだ。数分間、動けないでいた。

 

「分かったわ、そうね、紗英のお母さんだって、お腹を痛めて産んだのよね、命がけだったはずよね、お父さん、お爺ちゃん、お婆ちゃん、きっと喜んでるね、私、自分勝手な事したね、こんなんじゃあ子育てどころじゃないね、親になる資格がないね、人間失格だわ、情けない」

 

 千鶴は涙は量は減ったものの止まらなかった。

 

「私、病院まで一緒に行ってあげる、さあ、紗英ちゃんをご両親に返すわよ」

 

 歌音は立ち上がって千鶴を見つめた。

 

「あなたは、病院の方、それとも警察」

 

 千鶴も立ち上がると冷静さを戻しつつあった。

 

「どちらでもないの、ただ、紗英ちゃんが拐われたことを聞いて、探し回っただけ、紗英ちゃんと千鶴さんも救いたくて、誰だって、いつからでもやり直せるから」

 

 千鶴はポカンと不思議そうな表情をしたが、紗英ちゃんを連れて行く準備を始めた。

 歌音は玄関先に出て、公園で待ってる翔子に電話した。

 

「翔子ちゃん、私は、千鶴さんと二人で病院に行くね、あなたは、やっぱり千鶴さんと一緒じゃない方がいいわ、一人で病院に戻っててね」

「分かりました、紗英ちゃん無事なんですね、良かったぁ、歌音さんありがとうございます」

 

 歌音と千鶴は白い軽自動車で紗英ちゃんを連れ、病院へ向かった。

 

「もしもし、益田です。今、大丈夫、睦基君かしら、今は誰」

 

 千鶴と紗英ちゃんを連れて、白い軽自動車で移動中に絢子からの電話だった。

 

「歌音です、大丈夫ですよ」

「私の後輩から依頼があったんだけど、歌音で良いわね、田代第一病院に行ってくれない、誘拐事件があったの、神路三姉妹も今から向かうから、警視庁の松重っていう女刑事がいるから、協力してあげて」

 

 どうやら、松重警部補は、先輩の益田が運営する防犯研究所に捜査協力を依頼したようであった。

 

「はい、今、向かってます、紗英ちゃんも無事です」

「えっ、なんで、知ってたの、そうか、翔子ちゃんからね、うんうん、ご苦労様、じゃあ、宜しくお願いします」

 

 絢子は驚いたが、納得して電話を切った。

 

 千鶴が病院へ着くと、外来診察が終わった時間帯で、手の空いた看護師が集まってきた。

 そして、警察官もきた。外来看護師が紗英ちゃんを抱っこして、もう一人の看護師が付き添って、二人で三階にある産婦人科病棟へ向かった。

 千鶴は、警官が控え室として使用している、五階の会議室に連れて行かれた。

 歌音は、駐車場で千鶴と別れ、レイに代わり、翔子と合流した。

 

「ありがとうございました、レイさん。ホッとしたわ、歌音さんは」

「歌音、疲れたみたい、あの人、母性本能が強いから、私と違って」

「うん、ゆっくり休んで下さい、歌音さん」

 

 歌音に聞こえてるかどうか分からないが、翔子は歌音を気遣った。

 

「レイさん、仕事早いわね、絢さんから連絡あったけど、一応、来てみたわ、あなたが翔子さん、睦基君の彼女さんね、初めまして、防犯研究所の職員になった神路姫子です、妹の美里とサキです。宜しくお願いしますね」

 

 神路三姉妹も駆けつけて、レイと翔子に挨拶をした。

 

「睦基君から聞いてました、梅木翔子です、宜しくお願いします」

 

 翔子も挨拶した。

 

「睦基君やるわねぇ、こんな美人さんが彼女なんだ、サキでーす。仲良くしてね」

 

 サキは翔子の手を握り、満面の笑みを見せた。

 

「サキ、また馴れ馴れしいわよ、すみません、美里です、宜しくお願いします」

 

 美里も挨拶した。

 

「睦基がいってるわ、宜しくって」

 

 レイが睦基を代弁した。

 

「翔子ちゃんもいるんだから、レイちゃんと代わればいいのに、ムッちゃん」

 

 サキは不可思議な眼差しをレイに向けた。

 

「ブラしてるから私、睦基と一文字さん、丈は嫌みたい、着替えないと代らないの、佐助は嬉しいみたいだけど、ほんと、変態」

 レイがそういうと翔子と姫子、美里、サキも大笑いした。

 

「変態で、ごめんね、ごめんねー」

 

 一瞬、佐助に代わって、おちゃらけた。

 

「ごめんなさい、多分、一文字さんに怒られてるはず」

 

 レイそうがいうと、再び、笑いの渦が舞い上がった。

 

「翔子さん、レイさん、研究所にいきませんか、一応、絢さんに報告した方がいいんじゃないかしら」

 

 姫子は二人を誘い、翔子もレイも了解し、五人で研究所に戻った。

 

 その後、紗英ちゃんの誘拐犯は、事件当日、深夜勤だった看護師三人と警備員一人が共犯だったと自供した。

 病院側は解雇にせず、一年間の給与三割カットの処分を課せた。

 そして、総看護部長と上田看護師長、田代院長は、一年間給与五割カットを直訴した。

 これがきっかけで、病院職員は一丸となり、接遇の研修を受け直し、業務がマンネリ化しないよう努力した。

 

 紗英ちゃんは、両親は勿論、祖父母達から沢山の愛情が注がれて育てられた。母親の佳代子は、第二子も田代第一病院で翔子が取り上げることになった。

 

 一方、千鶴は、身代金目的ではなかった事、自ら紗英ちゃんを返しにきた事、すなわち、自主したと捉えられ、反省も充分にしていると判断され、執行猶予が付き、実刑を間逃れた。

 その後、翔子は千鶴を母親を伝って、児童デイサービスを紹介し、そこで働く事になった。

 千鶴は、子育て、ましてや、発達障害を持つ子供達の養育に難しさを痛感し、日々、試行錯誤しながら子供達に向き合い、充実した生活を送った。もう二度と同じ過ちはしないと誓って。

 

 歌音は、千鶴に本音を晒け出していた。みんなはあれ以降、それには触れなかった。

 子供を産んでみたい。子育てしてみたい。千鶴と同じ気持ちを抱えていた歌音だったことを。流石に心痛めた事案だった。

 

 続 次回、第弐壱話 困窮を裕福へ換えたい慈悲と凶徒

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