第什玖話 加藤志水の日常
「益田さん、出来ました、チェックお願いします」
加藤はプリントアウトした書類を益田に渡した。
「加藤君、上手くなったわね、誤字脱字は大丈夫かな」
書類を受け取った益田は表情を変えずに当たり前のように受け取った。
これは、益田防犯研究所で頻繁に見られる日常だ。絢子が執筆作業をする中、加藤は、講演会の案内文やスケジュール表、参加者名簿等、絢子が下書きしたものをパソコンのワープロソフトで清書するのだ。
「手直しお願いします」
加藤が作った文書を益田が修正箇所に付箋紙を貼り、再び加藤の手元に戻ってきた。
「了解しました」
加藤は素直に受け取れるようになった。漸く、二人は現状のやり取りで仕事を進められるようになっていた。
加藤志水は、大卒ではあるが、高校入学から空手の選手として、スポーツ推薦で進学してきた。大学も同様に。
母方の伯父が空手道場をやっていて、物心着くと週に二回は道場に通っていた。
そんな幼い頃は、加藤にとって道場は遊び場、親に連れられて来た公園と何ら変わりなかった。そして、毎年、空手大会に出されていた。型の試合が殆どで、小学一年から六年生まで優勝し続けた。
いつからか、負けられないプレッシャーがのし掛かってくるようになった。これを糧に大学入学前までは負け知らずだった。
大学に入学すると、ライバル達は強さを増した。流石に、加藤の連勝が止まるだろうといわれた大会でさえ、下馬評をひっくり返した。
しかし、初めての敗北が訪れた。それは、日本代表として出場したフルコンタクトの世界大会だった。
その大会は体重毎にクラス分けされ、軽量級、中量級、重量級の三クラスに分かれてた。加藤自身の体重は中量級に値するものだったが、協会の方針で重量級にエントリーさせられた。
それでも加藤は自信があった。絶対優勝すると誓い、試合に臨んだ。結果、外国人選手にボコズタにされ加藤は負けた。その試合で肋骨と頬骨の骨折を負った。
その後、怪我が治癒し国内大会に出場が可能になっても、世界大会の時に重量級で出るよう指示した、協会役員の佐藤は重量級でリベンジするよう急き立てた。
その結果、大学三年から卒業するまで、どの国内大会でも優勝する事は出来ず、日本代表にさえ選出されなくなった。これは、あの佐藤による『加藤潰し』だったのだ。
佐藤は、加藤が幼い頃から通った道場の館長にあたる伯父、川上の先輩に当たる人物。
二人は階級が一緒だった。現役時代、佐藤は川上に一度も勝てず、各大会の優勝は勿論、日本代表として世界大会出場も果たせなかった。佐藤は根強い逆恨みを抱いてた。
川上よりも先に現役引退となった佐藤は、賄賂や脅迫等、悪行を尽くし、協会役員の地位を得た。また、川上が現役を退くと、協会の役職に付けないようにした。そのため、佐藤は周りからの評判は悪かった。しかし、具体的な不正は暴かれないように巧みな策略を練って動いてた。暴こうとする者が居なかった。
佐藤と何か関係を持つと、奴隷的服従を受け入れるか、身を滅ぼされるかのいずれかだった。協会会長も手の施しようがなかった。
加藤が社会人となり、身体が周りの重量級選手に近づき、まだ、優勝は出来ずとも戦績が良くなって来た頃だった。ある国内大会の時、残念ながら準決勝敗退となった。加藤本人は手応えを感じ、次大会への課題がみつかって充実した気分で大会会場を後にした。
すると、駐車場での出来事だった。
「中田、これで五連覇か、加藤を潰しといて良かったな、でも、あいつ、重量級でも出てきたな、また、何かしないといかんな」
嘗て、中量級で優勝争いをしていた中田選手に佐藤が言った。
「佐藤さん、宜しくお願いします、あいつ、次の大会ヤバイですよ、勝っちまうかも知れませんよ」
中田は佐藤の発言を否定しようなぞ、微塵も見せなかった。
「そうなんだよな、あの糞餓鬼め、決めた、とことん潰す」
佐藤は益々、調子に乗った。
「中田、佐藤さん、今の話、本気ですか、聞いちゃいましたけど、お前ら許さんぞぉ」
加藤は叫ぶと、佐藤の顔に正拳突きを入れ、上段蹴り、中段蹴りを喰らわした。佐藤は倒れ、失神した。傍にいた中田は突然の出来事に凍りついた。透かさず加藤は、中田に回し蹴りを放った。中田の下顎に入り、その一蹴で仕留めた。
少し離れたところから見ていた大会役員が駆けつけた。
「加藤さん、何してるんですか」
大声で叫んで羽交い締めにした。一人は警察に電話した。もう一人は救急車を呼んだ。
加藤は一旦、逮捕された。事情聴取で佐藤が不正をする話しをしていたのが原因と自供し、警察はその不正まで暴いた。しかしながら、協会側が無期限の大会出場を停止する意向を警察に伝えた。
それが社会的制裁に当たる事と、加藤の反省の態度を考慮し、逮捕を無効にし、検察へ書類送検せずに済ませた。
一方、佐藤は協会から永久追放され、中田選手は、加藤が重量級に転向して以降の大会での優勝を剥奪し、大会への無期限出場停止を課せた。
加藤の暴走のお陰で、空手界の膿を出す事が出来た。だか、加藤を支援する者はいなくなり、空手界から自ら去る事になった。その反面、加藤の暴走は、『加藤の正義の鉄拳』として語り継がれた。
「益田さん、文書上がりました、四〇部刷ればいいですか」
「えぇ、五〇部でお願いします」
暴君にはなりきれない加藤だった。
「カトちゃん、これどうしたらいいの」
傍のパソコンで別の文書作成をしてたサキが、加藤に聞いた。
「センタリングしたらいいんだよ、このマークをクリクックして、あっ、こないだも美里ちゃんに聞いてたよ、早く覚えなきゃ」
「苦手なのよね、私、その内、覚えるわ、また聞くかも知れないけど、怒らないでね、カトちゃん」
サキは、加藤の太腿を摩りながらいった。
「勿論、勿論、了解、了解、これ終わったら、トレーニングしようか」
加藤はニヤけた顔に変わっていた。
「終わったらいいわよ、サキちゃんあまり大声出さないでよ、気が散っちゃうから」
二人の話を聞いてた益田は、その会話に割り込んだ。
「はーい、分かりました、益田さんも一緒にどうですかぁ」
「おい、益田さん、怒っちゃうよ、サキちゃん言い過ぎ」
「私は嫌でーす、お二人でどうぞぉ」
益田ははっきり自分の思いを伝えた。
「へへ、早く終わらそ」
サキは、益田の声を聞いて呟いた。
加藤は、黙々と手直しを終えた文書を輪転機にかけて、一部づつ綴っていた。早く終わらせたかった。サキとは、トレーニングルームで、八卦掌を練習する。とても真剣に、一時間から二時間程稽古する。
その後が、性欲の強い二人のお楽しみで、二人でシャワールームで汗を流しながら、また、別の汗を流すのである。
最初は、益田は驚いたものの、姫子や美里に諭され、サキの性癖を尊重した。加藤は戸惑ったものの、割り切る事にした。逆に、サキがセックス依存症じゃないかと心配した程であった。
空手界のエースになりかけた頃とは、想像も出来ないような日常に変わったが、加藤は不思議な感覚になる事もあった。しかしながら、確実に幸せを感じてた。何のプレッシャーも無く、頑張っても睦基たちには敵わない。自分の弱さに呆れてしまいそうになった。
しかし、そう言った敗北感を爽やかに受け入れることができた。上には上が居るのだ。
そんな思いで、自分自身を鼓舞できていることに気がついた。益々、幸福感が沸いていた。
更には、巧みに、身勝手に、自己中心的に犯罪を犯す人に嫌悪感が生まれた。こんな俺でも、悪人を裁いていいんだと思えた。しかし、それが、義賊的なのか、カルトなのか考える余裕は無かった。加藤志水は空手界を去る事になった事がトラウマになっていた。人を信用できなくなっていた。だから、益田の下で働く日々は、一日一日をしっかり熟す事から悦びを得て、未来の事なぞ考えたくない心境でいた。
続、第弐什話 翔子からの依頼
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