第5話 愛する人は泡となり

ハワイ旅行から帰国して、僅か五か月後に、小佑莉は死んだ。


「ママは行かないの?」

「ごめんね、きょうは用事があって行けないのよ」

あの日、景子は同窓会があり、小佑莉の外出には付いて行けなかった。同窓会は夕方からだったのだが、久しぶりの大人だけの会に、景子は心を躍らせ、準備があるからと、小佑莉を夫に任せた。

「ちゃんとライフジャケットを着させてね」

「わかってる、わかってる。小佑莉の心配はいいから楽しんでおいで」

最近、久嗣は念願だった釣り船を購入した。海は危ないからと、これまで娘を連れて行くことなど一度もなかったが、久嗣の友人が子供を同伴するということで急遽、小佑莉も参加する事となったのだ。子供用のライフジャケットは、久嗣の友人が用意があるということだったが、景子は念のため、ハワイ旅行の際に購入した物を持って行くよう久嗣に伝え、玄関に置いた荷物の横に置いたのだったが、車が出るのを送り届けた後で忘れ物に気が付いた。しかし携帯電話やポケベルが普及していなかった時代なので、連絡を取る術がなく、自前のライフジャケットは諦めた。

「まあいっか。用意してくれるといっていたしね。大丈夫よね」

景子は、残されたライフジャケットを眺めながらそういうと、キッチンへ行き、自分の朝食を拵え、ふたりの為に作った弁当の後片付けをした。

「長い闘病機関だったけど、小佑莉は良くがんばりました。もう普通の子と変わらないね。もうすぐ、もっと、もっと元気になる」

食事が終わった景子は子供部屋へ行くと、娘のベットに横になり、小佑莉が気に入っているダンボのぬいぐるみを抱えて、過去を振り返っていた。そしてそのうち、寝てしまった。

どれ程の時間が経ったのだろう。電話で起こされた。

「えっ、いま何時?」

ベッドから起き上がった景子は居間にある電話まで走った。窓から見える景色は、四月に入ったというのに、雪がちらついていた。

「雪…」とつぶやいた後で、受話器を上げた。

電話は警察からだった。

久嗣の船が転覆したという報せだった。その時点では、乗船している人間の安否はわからなかった。景子がその現実を受け入れるのには、多少の時間が必要だった。

「どういうこと、小佑莉」

我に返ると急いで支度をし、タクシーで実家へゆき、自分の車で千葉へ向かった。2時間後、海上保安部へ到着した。そこには憔悴しきった久嗣と、彼の友人の正人、そして彼の妻がいた。

「景子」

椅子に腰掛けていた久嗣は立ち上がり、頭を下げた。

「小佑莉は?」

「……」

久嗣は答えない。

「あの、小佑莉はどうしたの。なんで一緒にいないの。どこにいるの?」

「小佑莉は、見つかってなくて」

「見つかってないって、どういうこと。ねえ、久嗣、小佑莉はどこ!」

久嗣の腕を掴んで景子は思いっきり振った。

後に聞いた話では、その日、千葉の海は悪天候だったとう。だがせっかくだからと、彼らは海に出た。しかし波は、沖に出る前にすっかり高くなり、視界を塞いだ。初心者の久嗣には操縦が難しくなり、遂には海苔漁の網に、船のスクリューが引っ掛かった。彼らはどうにかして外そうと努力したが、船は横転。寸前に久嗣は小佑莉を抱いて、四月の冷たい海に飛び込んだという。

しかし小佑莉は、久嗣の腕から離れてしまった。

競泳の選手だった正人は、自力で陸まで泳ぎ切り助かった。彼の息子は、今回の釣りには来ていない。直前になり、行きたくないと泣き出したらしいのだ。なので、彼はひとりで泳げた。

「不思議なものですね、今朝になって急に、あんなに楽しみにしてた釣りなのに、行きたくないと大泣きして」

そういいながら、正人は妻と顔を見合わせ、うなずいた。

「それってなんですか?」

景子はふたりの真向いに座っていた。テーブルはない。簡素な椅子が並んでいるだけだ。

「景子、どうした?」

首を大きく垂れていた久嗣は、妻の右肩をそっと掴んだ。

「お宅らの子供が泣き出したから、無事だったって喜んでるの?それとも、お宅らの子供には、何か危機を予知できる能力でもあるといいたいの。それ程、特別な子だといいいたいの。うちの小佑莉はバカだとでもいいたいの」

「いえ、そういう訳では」

正人の妻は泣き出してしまった。しかし景子は許さない。

「それだったらさ、船は事故を起こす予知をして欲しかったよ。小佑莉が行方不明になっちゃうから、きょうの釣りは辞めようっていえば良かったじゃないの。それとも、お宅の子供は、自分だけが助かればいいとでも思ってるの」

「そんな酷い言い方しなくても」

正人の妻は、手の中にあったハンカチを握りしめた。

「それに何よ、さっきからおめおめ泣いてさ。うちの子が死んだとでもいいたいの。自分の子供と、夫は元気にぴんぴんしてるからいいよね。あのさ、泣くのなら出て行ってよ。あんたは関係ないんだから。あっち行け~」

立ち上がろうとする景子を抱えるようにして久嗣が止めた。

「すみません奥さん。気が動転しているんです。許して下さい」

「謝らないで、なんなのよ」

景子は久嗣の腕を振りほどいた。

「ライフジャケットは、用意してくれたんじゃないの?」

「景子、もうよそう。なかったんだ。僕の聞き間違いで」

「へええ、聞き間違いね。あれだけ、ライフジャケットを忘れないでっていったのに。ならばなんで装着しないで海に出たのよ。海は荒れてたんでしょう。どうしてそんなに無責任なのよ」

「申し訳ない、景子」

「それに何、その恰好」

「何をいってるの?」

「正人さんの服装よ。革ジャンにジーンズに革靴。それに頭もリーゼントにしちゃって。一回、家に帰ったの?それとも妻に、グリースを持って来て貰い、洗面所で整えたの?どちらにしても余裕よね。ロックンローラーのつもり……」

景子は目を見開き、口を押えると、そのまま、外に駆けだした。デッキに出ると雪が、荒れた海の中に吸い込まれて行くようだった。寒い海、小佑莉は、どこに行ってしまったのか。


小佑莉が行方不明になって一週間がすぎた。誰もが諦めかけた頃、景子の姉が家に占い師を連れて来た。

「良く当たるって有名な人なの。少しだけでもいいから話しを聞いてみない」

自室の扉越しに、姉が話しかけた。

「いいわよ、話しを聞くだけなら」

絶対に断られると思っていた姉は、逆に動揺していた。

「下にいるの?その占い師?」

「うん、そうよ」

部屋から出て来た景子は、一目で本人とわからない程、瘦せ細っていた。

「あなたのお子さんは、もう亡くなっています。しかし近くにいますよ」

二十代後半に見えるその占い師は、霊魂が見えるという。特殊能力を金に換えると霊力が失われるので、彼女は出されたお茶でさえ、口にしなかった。

「死んだって…」

「そう、いま、お母さんの後ろに座っています。とても心配してる」

景子は、母の入れてくれた紅茶を啜った。

「合図があります」

紅茶の器の内側の絵柄を、景子がじっと見ていた。

「そう。あなたの傍に娘さんが来た時は、娘さんの放つ独特な匂いで、その存在を知らせます。いまもその匂いはしますよね」

僅か十分足らずの滞在で、その占い師は帰った。景子は一言も発しなかった。

ただ真っすぐ占い師を見つめ、一筋の涙を零した。


行方不明になって二週間後。小佑莉は発見された。

大型の漁船が、うつ伏せで海に漂っている小佑莉を見つけてくれたのだ。景子が海上保安庁に到着した時には、既に、久嗣の両親が到着していた。小佑莉の身元確認の部屋に、景子が入ることは許されず、久嗣と義父だけが選ばれた。女には、到底、対処の出来ない対面なのだと、判断された様だ。

その部屋から鳴き声と、同時に小佑莉の名を叫ぶ義父の声が聞こえた時に、水死体は小佑莉なのだと景子は悟った。

暫くすると、警察の人が景子の傍にやってきて、ビニール袋に入れられた小佑莉の洋服を渡された。ずっしりと重い洋服を、景子は腕の中に抱えた。

「なんですって?解剖?解剖はしませんよ」

何度、説得されても、景子は頑なに、行政解剖を断った。

「これ以上、娘の身体にメスをいれたくないのです」

しかし解剖は行われ、事件性はないという結果が出た。


「ほらまたよ」

東京湾を一周して、故人を慰霊する会が開かれた。景子は船の最後尾で、座り込み、海を真下に見つめていた。

「またって?」

久嗣が聞いた。

「どこも悪くないのに、痛い想いをさせられた」

「もしかして、解剖と、骨髄検査のことをいってる?」

「そうよ。小佑莉は無駄に切り刻まれた」

「ごめん」

久嗣はただただ謝った。

船上から花束を投げ入れる時、景子は海の中に落ちてしまうのではないというくらいに、身を乗り出していた。背後から、洋服を持って久嗣が転落しないよう支えている。


葬儀が終わり、ひと月が過ぎた頃の事である。街はこれから迎える夏への喜びに満ち、活気であふれていた。

「ちょっと、愛子さん」

景子は愛子のポニーテールの先を荒くあしらった。

「な、なによ、あんた!」

原宿、竹下通りの美容室。愛子はそこの店員だった。

「わたし、思い出したのよ」

「何をよ!」

接客中だった愛子を、店内の人間が一斉に見た。店長らしき男が飛んで来る。

「失礼致しました。愛子さん、店内で揉め事は困るよ。話しなら表でして」

外に愛子を誘き出した景子は、腕を組んで、彼女の上から下までを見た。

「ふーん」

「なっなに?」

「これはないわ」

「気持ち悪いわね、何よ」

「久嗣に弄ばれて、ムカついたんだね。それで船のスクリューに悪戯した」

「なんの話。知らないわ」

「うちの愛娘がね、船の事故で亡くなったの。報道で知ってるでしょう」

「さあね、忙しいからテレビも新聞も見ないし」

「わたしね、調べたのよ。探偵を雇って。自分も刑事並みに歩いて」

「そこで、あなたと従弟の浩二くんだっけ、その子に接触したの。あの子、気が弱いでしょう。警察に突き出すっていったら、スラスラと喋り出したわよ」

「うっ嘘よ」

明らかに動揺している愛子は、前掛けのポケットから煙草を取り出し、口に加えようとして、床に落としてしまった。

「ふっ船は、海苔網にひっかかったって、言ってたわよ」

「誰がいったの?」

「浩二がそういった」

ふたりは美容室の脇にある、小さな小路にいた。そこには洗ったタオルが多く干されている。

「ふーん、そう。でもね、可笑しいのよ。引き揚げられた船のスクリューに網なんて巻き付いてなかったの。そこの海苔網漁の人たちにも話を聞いたけれど、海苔漁の網は破れてなかったっていってらしたわ」

「じゃあ、なんでそう発表されてんのよ」

「生き残った大人ふたりが推測を話したら、それを警察が信じた」

「だからって、なんでわたしが犯人になるのよ。船の仕組みなんて知らないわよ。第一、リスクがありすぎるでしょう」

「でも、あなたの彼氏は知っているよね。船のこと」

「かっ彼氏ってだれよ」

「ロックな彼よ。正人とかいったかな」

「知らないよ、正人なんて」

景子に背中を向けた愛子は、首筋を掻いている。

「しらばっくれないで。六年前、貴方たちは六本木のオールディーズBARで、あんたたちは知り合った」

「……」

「そこに、正人に呼び出された久嗣がのこのこ現れたんだよね」

「覚えてないよ」

「あなたは久嗣を一目で気に入った。それは、久嗣が金持ちの息子だと、正人に聞かされていたから。嫁は身重で入退院を繰り返している。久嗣は嫁の実家暮らし同然で、生活にうんざりしていると、だから慰めてやってくれと、正人にいわれた。しかし小佑莉が産まれた後、久嗣は、なかなか会ってくれなくなり、態度も豹変した。それで正人に相談。ハワイまでやって来たわよねえ。ご苦労様。それであんた、今度は正人に鞍替えしたんだよね」

「ふん、なにそれ」

吸い終わった煙草を石畳の床で捩じり消した愛子の煙草には、真赤な紅が移っていた。

「それ、その煙草、正人さんの家の前にも落ちてたわよ。駄目よ、ポイ捨て」

「正人が別れたいとか言い出すから、嫁に全部ばらしてやろうかと思って家に行ったのよ。留守だったけど。そん時の煙草ね」

「シャネルの口紅。うちの店で買ったのよね。顧客名簿であなたを見つけたわ。二度しか買いに来てないけどね」

「ふふふふふ」

「変な笑い方するわね。それで本題。なんで小佑莉を殺したの」

「上手く行ったわあ」

「えっ」

「と、思ったんだけどね」

「何をいっているの?」

「あの小佑莉むすめ子狸さえ死んでしまえば、久嗣さんは戻って来ると思ったのよ。なのにさあ、久嗣さん、あたしを知らん顔」

「何よ、娘子狸って」

「なんでもないわ」

「久嗣さんがそう呼んでただけ」

「……そうだったかな?」

「だって、そういったんだもん久嗣さんハワイで。娘子狸が大切だって、宝物だって娘に近づくなって。だから思ったの。娘を殺してしまえば、あたしのことを想ってくれるって。そうでしょう、ねえ、あんたが、あたしだったら、そう思うでしょう。だいたいさ、あんたの娘って生まれて来ること自体が奇跡だったんじゃないの。それを医学で無理やり産ませ、無理やり生かしたりするから、結局は死んじゃうんだよ。バーカ」

愛子は景子の両肩を強く掴むと、大きく前後に振り出した。景子はその手首を掴み、抵抗している。

「いい加減にして、そんな下らない妄想で、うちの娘は死ななければならなかったの」

「下らなくなんかない。あたしの命よりも大切な人なんだもん。久嗣さんは」

愛子は凄まじい力で景子の首を絞めた。両足を広げ、仁王立ちになった愛子の力は強く抵抗できなかった。

ー小佑莉ちゃん、ごめんねー

気を失った景子は、自宅で目覚めた。

「おきた?」

目覚めると、娘の部屋にいた。ベッドに横たわっている。

「小佑莉、ああ」

いまでも目覚めた時は、いつも小佑莉を探す。そして酷く打ちのめされるのだ。

「もう大丈夫だから。全て終わったから」

「なにが?」

「正人と、愛子、従弟の浩二は、警察に逮捕されたよ」

「知ってたの?」

「君のことが心配で、探偵に探偵をつけていた。君が調べたこと、全部知ってるよ」

景子は起き上がり、咽喉を撫でた。

「痛い?」

「ううん。小佑莉のこれまでの痛みに比べたら全っく平気よ」

「痣になっているから、実家に帰る時は、首を隠す服を着た方がいいね。甘酒どう?」

久嗣は、小佑莉の好物の甘酒を妻に渡した。

「少しだけ、いただくわ」

景子はお椀を掌に包み込むと、甘酒に息を吹きかけていた。

「正人のことだけど、息子が釣りに出るの嫌がったっていってたのも全部、嘘で。ライフジャケットのことだって、実家の納屋に隠してたらしいよ」

「そうだと思った」

「最初から疑っていたの、正人のこと」

「そうね、なんか嫌な人だと思った」

「そうか」

「うん」

「横に座ってもいい?」

久嗣を見ると、随分と痩せているのがわかる。夜夜中に起き出して、洗面所で泣いているのを知っている。久嗣は充分、苦しんでいた。

「いいわよ」

ぎこちなく横に座る久嗣に、景子は甘酒を渡した。

「甘酒、少しだけ分けてあげる。小佑莉ならそうするから」

「ありがとう」

久嗣の語尾が泣いていた。

「どうして僕を責めなかったの?」

「さあ、どうしてだろう」

「それが、つらくて」

景子は甘酒を久嗣の手のひらから取り、サイドテーブルに乱暴に置いた。久嗣の肩がぴくりと動く。

「つらいなんて言葉、あなたの口から聞きたくないのよ」

景子の口調は、至って穏やかだった。久嗣はうなだれ、小さくうなずいた。

「あっ」

「えっなに?」

「小佑莉の匂いがする」

景子は目を閉じて、息を吸い込んだ。

「前からそんなこと、いってるけど、小佑莉の匂いってどんな匂いのこと?」

景子は目を開けた。

「水の中に二週間放置された腐敗した水死体の匂い」

「……」

「本当よ。おつやの時、わたし、小佑莉の手を見たの。あの細くて、小さくて、可愛い手。顔も見せてくれないから、せめてと思って、手をね、見たの。爪が真っ黒だったけど、小佑莉なんだと思った。そして、小佑莉のおでこに額をひっつけたの。こうすると、小佑莉は良く笑ったから。でも、悲しいかな、布の上からだけど、小佑莉の顔だった。でも未だ納得できなくて、自分の手を着物の中に押し入れてお腹の傷を探したの。あったのよ。あの手術の傷がお腹に。痩せっぽっちだったのに、お腹が膨れていた。小佑莉のお腹が。そしてね、その間、ずっと、いままで嗅いだことない匂いが小佑莉から発していたのよ。どうして……。でも香ると嬉しいの。小佑莉が傍にいるんだなって思って。本当に嬉しいのよ。いまも時々、小佑莉のその匂いがするの」

「ごめんなさい」

久嗣は嗚咽する程、泣いている。

「小佑莉、寂しがってるだろうね。ひとりじゃ寂しいもの。海の中は暗くて寒いもの。あの子、寒がりだから、冬にディズニーランドに行った時、わたし、着せすぎちゃって、あの子、腕も膝も曲げられなくて。覚えてる?」

夫婦は久しぶりに笑った。泣き笑いだったが、新鮮だった。しかしすぐに現実に引き戻される。

「覚えてる?」

久嗣がいった。

「小佑莉が四歳くらいの時かな、テーブルにあった日本酒に入ったグラスを一気飲みしちゃって」

「小佑莉、酔っぱらって」

「おもちゃの刀を振り回した」

「あの子、悪酔いするタイプだなあって、あなたが関心してたわ」

「すぐに病院に電話したけど、何もなくて良かった」

夫婦は再び、黙り込んだ。

「わたし、少し横になるね」

「わかった」

「景子、お休み」

「さようなら。小佑莉が待ってるよ、またね」

景子は久嗣に背中を向けて横たわっていた。

「償ってね」小さな声だったが、久嗣にはそう聞こえた。

「うん、またね。ありがとう」

寝室を出た久嗣は、飲みかけの甘酒を廊下で飲み干すと、キッチンに行った。リビングにあるテレビの横には、真新しい未使用のランドセルがあった。小佑莉は小学校に行く事をとても楽しみにしていたのだ。

「ここに毒でも入ってたら、楽かもな」

洗い物を終えた久嗣は、書斎のデスクに向かい、手紙を書いた。あて名は妻の景子だ。手紙の内容は遺書だった。

手紙を車のダッシュボードの中に入れ、久嗣は車で夕方の街を駆け抜けた。到着した場所は東京湾。小佑莉が発見された場所にいちばん近い陸地だった。五月の日は長く、とても明るかったが、幸い、人気はなかった。車を停車させ、防波堤に腰掛けて、ポケットから薬の瓶を取り出した。そして大量の睡眠薬を口の中に流し込み、ペットボトルの水で流し込んだ。

薬の効き目を確認するまでは、久嗣はその場にとどまっていた。

「小佑莉、小佑莉には、もう寂しい想いをさせないよ。パパがずっと一緒にいるからね。これから何十年も先になると思うけど、天国でママに会える日を待とうね。これまでママは必死に小佑莉を守って来たから、これからはママに変わって、パパが小佑莉を守るよ。そうしたらママも安心できるからね」

久嗣は海に、まるでお風呂にでも入るかの様に沈んだという。

近くで釣りをしていた人が、その様子を見ていた。すぐに助け出されたが、病院で心肺停止が確認された。

報せを聞いた景子は、久嗣の死を喜んでいたという。心身衰弱と診断されながらも彼女は天寿を全うし、静かにこの世を去った。

小佑莉を失った日から、笑顔を失ったまま。


六歳でこの世を去った小佑莉。

人々に、やさしさを振舞い、誰をも一瞬で魅了した。

母はいつも思っていた。小佑莉は天使なんだと。

授かりものではなく、預かりものなのだと。

でもね、天使を失った人間たちは、心からの笑顔をも失うことになる。

小佑莉、あなたが生きた世界は、「痛み」でいっぱいだったけど、

だから、母はとても後悔しているんだよ。

小佑莉、笑顔をありがとう。やさしさをありがとう。

わたしの子に生まれてくれて、ありがとう。

親ガチャ外れだったけど、嬉しかった。

小佑莉、待っててね。

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キセキの小佑莉、ありがとう。 藤原あみ @fujiwarami1999

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