第4話 最後の家族旅行

小佑莉五歳の秋、家族は、念願だったハワイ旅行へ出掛けた。

この頃になると、小佑莉の体調も至って良くなりはじめ、幼稚園を休む事も少なくなっていたからだ。しかし万が一の為、担当医師に相談し、承諾を得てからの出発となった。

四泊六日の旅。小佑莉の体調を考慮し、景子と久嗣、双方の両親が、ゆったり寛げるビジネスクラスを購入してくれた。窓際の席に小佑莉と景子。通路を挟んだ席に久嗣が座った。ここならば、小柄な小佑莉に限らず、比較的長身な景子も、フラットシートに身体を横たわらせ足を延ばせた。

「ママ、たのしいね」

旅行へ行くと決まった日からきょうまで、小佑莉のワクワクは止まらない。大好きな青色のリュックに詰めた宝物を眺めては、胸に抱えて微笑んでいた。

機内食のデザートには、小佑莉の大好物のメロンが出た。食事制限はなかったが、極端な程に少食な小佑莉も、機内食だけは完食してみせた。

「おお、小佑莉、ぜんぶ食べたのか?」

洗面所から戻った久嗣が、空になった小佑莉のトレイを覗き込んでそういった。

「そうだよ、おいしかったの」

「ええ、そんなこといって、ママの料理がおいしくないみたいじゃない」

景子がそういってふざけると、小佑莉は「シーっ」と人差し指を立てた。

「飛行機のご飯は、めずらしいからよ」

「そうか、それならこれから、こーんな感じでお料理を出そうかな」

「うん、お弁当みたいでいいね」

夕食が終わり、目覚めた時には、もうハワイの上空を飛んでいた。飛行機に乗って6時間。小佑莉はまだ眠っていた。

空港に到着すると、預けてあったバギーに小佑莉を乗せた。本人は平気だといって恥ずかしがったが、環境の変化による免疫力の低下を避けたかった。小佑莉は物分かりの良い子で、すぐに事情を納得したが、イミグレーション以外は、お気に入りの毛布で顔を隠していた。同じ年頃の子供の声を気にした様だ。

泊まったホテルはワイキキにあるコンドミニアム。自炊が出来た方が、小佑莉の負担にならないとの判断でコンドミニアムにした。オプショナルツアーの予約はしていない。時間の制限をなくし、自由に行動が出来ることを優先した。

「わたし、お腹の見える水着がよかったのに、ママがこっちの方がかわいいっていうから、これになった」

小佑莉はスーツケースの中から、お花の飾りがたくさんついた水色の水着を取り出し不平を口にした。

「パパはその水着、かわいいと思うよ」

ベッドの上で、水着を持って飛び跳ねる小佑莉を久嗣は抱きとめた。

「わたし、お腹に大きな傷があるから、ママが隠しましょうっていうのよ」

「うーん、小佑莉はどう思うの。見えてもいいの?」

「平気よ、わたし。だってね、幼稚園でのお着替えの時に、お友達みんなに見られて、そなーにって聞かれたけど、手術したのよっていったら、ふーんっていってたよ。先生は、そんなこと聞いちゃダメっていうけど、わたしは大丈夫なのよ。だって、この傷もわたしの身体だし、命の傷だからよ」

「そっか、命の傷か。小佑莉は強くて良い子だね」

「ママがそういったの。この傷は小佑莉の命を繋いだ傷だって」

「なのに隠せっていうの?」

「そうよ」

「小佑莉はおりこうさんだね」

「いつもいわれる」

「いつも?」

「うん、小佑莉ちゃん、おりこうさんだね、偉いね、強いね、泣かないねって。おとなのひと、みんながいってくれるのよ」

「そうか……」

久嗣は娘を抱きしめた。小佑莉は抱きしめられても嫌がらない。身体が弱いので、そんなに強くはしないからだ。寧ろ、人の温かみを嬉しがっている。生まれた直後から、多くの時間を病院のベッドの上で、ひとり過ごしてきたからだろうか。

「どうしたのふたりで」

水着に着替えた景子が入って来た。小佑莉と同じ水色のワンピースの上に、ラッシュガードを着ている。

「早く海に行こうよ。もうお昼になっちゃうよ。それにパパ、水着穿いて。小佑莉もだよ」

「よし小佑莉、一緒に着替えようね」

背の高い久嗣は、娘を抱いたまま立ち上がると、ダンスをするように、何度も回って見せた。

三人はホテルの前に広がる海にやってきた。デッキチェアとパラソル、バスタオルを借りて、色白の小佑莉に、景子は日焼け止めクリームを塗りたくった。

「景子、小佑莉がバカ殿みたいになっちゃってるよ」

久嗣のいう通り、少し塗りすぎた様だ。顔が真っ白になっている。

「恥ずかちい」

「大丈夫、大丈夫、海に入れば消えるから」

景子は苦笑いをしながら、小佑莉の手を取り、波際まで歩いた。

「冷たい?」

「ううん。あったかい」

海の水はぬるかった。入りやすいのですぐに腰の辺りまで水に浸かった。小佑莉は、子供用のライフジャケット、更に腕にも浮き輪をはめている。泳げない小佑莉が溺れない様にと、ハワイ旅行が決まった直後に、景子が真っ先に買いに走ったものだ。いろいろな人たちの努力と技術、精神的な支え、それに何よりも、小佑莉の生きる力と忍耐で、ここまでやってきたのに、事故でなんか死なす訳にいかない。

4時間ほど海辺で遊んだが、その殆どは寝ていた。

「そろそろホテルに戻る?」

最初に目覚めた景子が、小佑莉を挟んだ向こう側に寝ている久嗣を揺り起こした。

「うん、そうだな」

久嗣は起きると、最初、自分のいる場所がわからないようだった。ワイキキビーチを見渡し、その後で小佑莉を見た。

眠気眼の小佑莉を久嗣が抱っこし、ホテルに戻り、シャワーを浴びると、空港から借りていたレンタカーで夕飯の買い物に出掛けた。スーパーはワイキキから車で15分程の場所にあるショッピングモール内にあった。

「少し、買いすぎたかな?」

久嗣は両手いっぱいの紙袋を持っている。

「買いすぎたかもね」

紙袋三つを車のトランクに入れ、ホテルに戻ってから事件が起きた。

「いやー、なにこれ!」

景子がキッチンの床に尻をついていいる。

「どうしたの、大きな声だして」

ラナイにある椅子に座り、海を見ながら寛いでいた久嗣は急いで駆け寄ってきた。

「ゴキブリ」

「ゴキブリ?ハワイにゴキブリいるの」

「いるでしょう、そりゃ」

「どこ?」

「紙袋の中」

「本当に」

疑いながら久嗣は袋を除くと、後ろに押される様にキッチンカウンターにぶっかった。

「ねっ、いたでしょう」

「どったの?」

リビングのソファーで横になっていた小佑莉が起きて来た。

「小佑莉、来ちゃだめ。汚いから」

景子は立って、小佑莉の元へ行き、抱きかかえると、部屋の隅に離れた。

「嘘だろう」

「何が?」

「ゴキブリが、袋からいっぱい出て来た」

日本でいうチャバネゴキブリの様なものが、無数に出て来てキッチンを彷徨っていた。

「行こう」

景子がいった。

「どこへ?」

「フロントに行こう、もうこの部屋にはいられないよー」

ホテルに掛け合った結果、その日のうちに三人は他の部屋に移ることが許された。ゴキブリの大量発生で、みんな疲れすぎていたので、手料理は作らず、コンビニで「スパムむすび」なるものを買って食べた。

「パパ、あの中身、勿体なかったね、全部捨てちゃうなんて」

袋の中身は気持ち悪いので、ホテルにそのまま処分して貰った。レンタカーも他の車に乗り変えた。一連の手続きは久嗣が行った。景子は、小佑莉と共に、ホテルのロビーで待っていた。広い吹き抜けのロビーには、水の音と、ハワイアンソングが緩やかに流れ、待ち時間は全く苦痛ではなかった。

「仕方ないよ、使えないもの。ゴキブリ入りがふれたであろう食べ物なんて」

「たしかに」

翌日、三人はホテルのレストランで朝食を取り、海に行った帰りに、アラモアナショッピングセンターのフードコートでランチをした。帰りに、ワイキキにあるスーパーで買い物をして、ホテルに戻った。

ハワイ滞在三日目は、シーライフパークとハナウマ湾へ。最終日の四日目は真珠湾に行き、その日の夜は、ワイキキの海辺にある公園でバーべーキューをした。テーブル等のセットも食材も全部、旅行代理店が揃えてくれている。後片付けもいらない。ホテルまでも歩いてすぐの距離なので、疲れたら帰ればいいだけだ。バーベキューエリアの横ではビーチバレーをしている人たちがいる。小佑莉は興味深げにビーチバレーを見つめていた。

「小佑莉、お肉食べないの」

「ううん」

「食べるの?」

景子が娘の顔を覗き、視線の先を追った。

「あれっ、だれかいるの?」

ビーチバレーの向う側、サーフボードを貸し出している店の外に、人影があり、小佑莉は、そこを見つめていたのだ。

「あれっ、パパ」

「パパ?パパがあそこにいるの。可笑しいな、トイレに行くっていってたよ」

景子は小佑莉の手を繋ぎ、近くまで寄ってみた。すると、日本語の話し声が聞こえ、景子は咄嗟にサーフボードに隠れた。

「なんでまだここにいるの?」

久嗣の声だった。

「だってハワイに行くって、あんたの友達から聞いて、せっかく来たのに。スーパーで会った時は、無視するし、仕方ないじゃん、帰れないよ」

「なんだよあいつ、お喋りだな。とにかく驚かさないでくれよ」

ー友達、あいつって誰?ー

景子は息をひそめた。

「それで、今回もあの従弟と一緒なの?」

「さあ」

「もういい加減にしてくれよ」

「冷たい事いわないでよ」

「五年前の渋谷駅の事件、俺はまだ忘れてないからな」

ー渋谷駅、まさかー

景子は口を押えた。そして娘に向かって「シー」と人差し指を唇につけた。

「お前と、従弟が景子にしたこと、許してないし」

「ふーん、まあいいわ。警察に届けてくれなくてありがとう」

「なんだよ、それ、脅しかよ」

ー警察に届けてない。久嗣、嘘をついてたのー

景子にしてみたら、目眩のするような会話だった。

「まあ、届けたら嫁にバレちゃうもんね。わたしとの不倫」

「もういい。やめてくれ」

「やめないよ。そうそう、あれ驚いた?ゴキブリ」

「ゴキブリ?」

「そうよ」

「そういうことか。カハラモールのスーパーで、俺に変な紙袋渡したよな。封筒みたいな大きさの。駐車場でお前を見掛けて、動揺していた俺は、その袋をそのまま、それを買い物袋に投げ入れ、そのまま車のトランクに入れたんだ。お前さ、なんでゴキブリを入れてたんだよ。それも大量の」

ー嘘、ゴキブリを入れたのもあの人ー

景子は吐き気を催していた。

「だって悔しいじゃん。海で親子しちゃってさ。だから、嫁と子供が怖がるだろうゴキブリを渡したのよ。へえーうまくいったんだ」

「おい、お前、いい加減にしろよ」

久嗣の声色が変わった。景子も聞いたことない声だった。

「これ以上、俺たちに関わるな。特に、娘に手出しをしたら許さない絶対に。あの子は俺の、俺たちの宝なんだ」

ー辞めて、久嗣辞めて。小佑莉に恨みを集中させないでー

「ふーん、その宝がお腹の中にいる時に、わたしと浮気してたのに?」

「金も払っただろう」

「手切れ金なんていらないよ」

「何が欲しい。何が目的なんだ」

それから声は聞こえなくなり、久嗣の大きな溜息がしたので、景子は急いで、逆方向に向かった。小佑莉も少しなら走れる。遊んでいると勘違いし、声を出してはしゃいでいた。







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