第3話 度重なる痛み、受け入れる娘
三歳の時、小佑莉は腸ねん転を起こし、緊急入院をした。
症状は突然現れた。
「どうした、お熱でもあるのかな?」
具合が悪そうにしている小佑莉を膝に抱き、慰めていたのだが、小佑莉は膝からずり落ちたかと思うと部屋の床で身体を海老ぞりにさせて苦しんだ。
「小佑莉は?」
仕事を抜け出した久嗣が息を切らせて病院にやってきた。膝に手をつき、ネクタイを緩めている。
「いま、手術している」
景子は放心状態だった。手術室前のベンチには洋子と、久嗣の両親とが座っていた。窓のない廊下は、昼間だというのに暗く、気持ちが落ち込んでいくのがわかる。
「どうなの、大丈夫なの?」
景子の横に座った久嗣は額に汗をかいている。久嗣の母親が鞄からタオル生地のハンカチを取り出し、息子の手の中に落とした。
「わからない。何も聞かされていないし」
「腹膜炎だって?」
「腸ねん転」
無表情だった景子の眉間に皺が寄る。
「あ、腸ねん転か……」
「あってなに?」
景子は前を向いたままだ。
「まあまあ、久嗣さんも忙しいから、ねえ景子も落ち着いて」
洋子が口を挟む。
「落ち着いてるわよ。久嗣さんは小佑莉の苦しんでいる姿を見てないからね、呑気なのよ」
「仕事だったし……そんなに、苦しんだの小佑莉」
久嗣は両手で顔を覆ってうなだれていた。景子は一度うなずいた。
「痛い思いばかりさせて、生まれてからずっと痛いことばかり。小佑莉は、しあわせなのかな。注射と点滴と手術と入院と…身体だって、いまでもとても小さくて、華奢で太れなくて、食も細くて、病気がちで」
「何がいいたいの?」
久嗣は景子を見た。景子は無表情で泣いていた。
「疲れているのよね」
久嗣の母がいった。
「疲れているのよ。景子さんも、久嗣も」
「疲れてなんかないです」
景子は立ち上がり、手術室の扉の前に立った。すると偶然、扉が開いた。そして主治医と看護婦が出て来て、景子に一礼した。
「無事に終わりました。小佑莉ちゃん、良く頑張りましたよ。詳しい内容を説明しますので、別室にお越し頂けますか」
手術室から出て来た小佑莉は、顔に小さな傷があった。あの時は動転していて気付かなかったが、苦しみに喘いでいた小佑莉が、自分の顔を傷つけたのかも知れない。青白い顔はげっそりと痩せて、見るに堪えなかった。景子は立っていることもできない程、憔悴した。
腸ねん転の手術からひと月が過ぎた。少しづつだが、口から食事が取れる様になると、一時退院の許可が出た。
「暑いね」
病院を出て、最初にそう小佑莉はいった。
真夏の空を見上げると、低い雲の間から、熱く輝く太陽が地上を照らしていた。
「本当に暑いよね、早く車に乗ろうね。パパまだかな?」
一時退院の手続きを景子に任せた久嗣は、車を玄関に回すといって出て行ったきり、三十分も戻って来ない。
「小佑莉ちゃん大丈夫。具合、悪くない?」
景子はしゃがんで、小佑莉の麦わら帽子を上げて、ハンカチで汗を拭ってやった。景子の両親が選んだ、白いプリプリとしたドレスに身を纏った小佑莉は、暑さで頬を真赤にしている。
「うん、大丈夫だよ。プールに入りたい」
「プールか、そうだな。小さなプールでいい?」
「ううん、大きいプールに入りたい」
小佑莉ははそういって腕を大きく広げた。
「そっか、大きなプールね」
感染の危険があるからと、公共のプールは医者から止められている。そして、小佑莉のお腹、臍の上には横一文字の大きな傷がある。母親と同じ、ケロイド体質らしく、傷は赤く腫れていた。
「暑いもんねえ」
そう小佑莉はいい、病院前のロータリーに向かって大きく手を振った。
「パパ?」
小佑莉が手を振る先を見ると、久嗣が運転する車が入って来た。
「ごめんね遅れて。駐車場が混んでて、全然動けなかったんだ」
車を停めた久嗣は車から降り、小佑莉の顔を両手で挟んで揉んでから、荷物をトランクに乗せた。
「暑かったでしょう。車の中はクーラーが効いてるからね」
いいながら、久嗣は娘をチャイルドシートに乗せた。
「余り気温差があると、風邪をひいちゃうから」
小佑莉の隣に座った景子は、娘のお気に入りのダンボのブランケットを膝に掛けてやった。
「おうちに帰るね」
小佑莉は自分の頬に手をやり、ニコニコと微笑んでいる。
「そうだね、お家に帰るんだよー」
景子が娘のおでこに自分の額をひっつけて、目を見開き微笑んだ。すると、小佑莉は、ケラケラと声を出して笑った。この遊びは、小佑莉のお気に入りだ。
「そうだ!」
小佑莉は突然、大きな声を出した。
「どうしたの?」
あまり声を張り上げることのない娘が面白くなり、景子は笑った。
「きょうは、おじいちゃまのおうち?パパのおうち?」
「あー、そうね」
景子が話しだしたのを、久嗣は遮った。
「パパとママと小佑莉のおうちに帰るんだよ」
「そうね、そうよ。小佑莉のおうちに帰ろうね。だけど、おじいちゃまも、おばあちゃまも小佑莉に会いたがっているから、遊びに来るかもよー」
「わーい」
と無邪気に笑う娘の顔を、バックミラー越しに見ていた久嗣は戸惑いの表情だった。夫婦が暮らすマンションと、景子の実家は徒歩でニ十分程の場所にあった。小佑莉が産まれてからというもの、殆どの期間を、景子は駅から近いマンションではなく、実家で過ごしていた。大手ゼネコンに務める久嗣は、仕事が忙しく、家には寝に帰るだけといった具合だったので、病弱な娘を抱え不安の絶えない景子は実家の方が安心だった。久嗣も景子の親の手前、マンションには帰らず、妻の実家で暮らしていた。大きな手術を終えたばかりだが、小佑莉も三歳になる。この機会に実家を離れ、親子三人で暮らすことを久嗣は望み、景子も了承していた。
年が改まり、小佑莉は四歳の誕生日を迎えた。
この頃、医師の許可も得、小佑莉は幼稚園に通いだした。しかし他の園児から風邪を移されることも多く、休みがちだ。
「あしたは幼稚園にいける?」
きょうも微熱で園を休んでいる。
「そうね、明日になって、お熱が下がっていたら行けるかな」
居間に置いた小佑莉のベットの脇に座り、景子は娘の髪の毛を撫でていた。2LDKのマンションは、六波羅蜜寺家が持っていた物件をリフォームしたものだ。小佑莉の部屋もあったが、ベットで過ごすことの多い娘が寂しがらない様に、小さめの可動式ベッドをキッチンカウンターの前に置いたのだ。ここなら料理を作る時も食事をする時も一緒にいられる。
「早く、みんなと遊びたいな」
「うん、そうよね。元気になったら幼稚園に行こうね」
この会話を何十回、繰り返して来ただろう。その後も小佑莉の症状は改善せず、近所の病院ではなく、広尾の医療センターに行った。
「白血球が基準値よりも多い可能性があります。小佑莉ちゃんは、怪我をすると血が止まりにくい傾向があります。白血球や赤血球が減っているとも思われます」
そう担当医にいわれてもピンと来ない。
「それは、どういう?」
「検査をして白血球が多いと判断されれば、細菌感染、がん、白血病の疑いがあります」
「がん、白血病……」
目の前が真っ暗になる言葉だった。
「お母さん、未だ決まった訳ではありません。あくまでも可能性のことをいっているので、検査をしてみないとなんとも」
「検査ってどんな?」
「骨髄検査を行います」
「骨髄検査って、痛いですよね」
「痛いです。正直いって、大人でも激痛です。骨髄に針を刺して、骨髄液と細胞の一部を搾取しなければならないので」
「下半身麻酔?」
「はい、局所麻酔に」
「どうして……」
景子は泣き出してしまった。小佑莉が産まれた時からの、この担当医の前で、何度、泣いたかわからない。母親の不安を他所に、小佑莉は声を出して笑っている。隣の部屋で、顔なじみの看護婦が小佑莉と遊んでくれていた。
「考えさせて下さい」
「勿論です」
「病気ではない場合があるのですよね。ならば、わざわざ痛い想いはさせたくなくて。もうこれ以上、無理なんです」
帰宅してからも、景子は重い気持ちを抱えたままであった。久嗣に連絡したが、忙しそうだったので、内容はいわず電話を切った。時刻は午後九時。この時間に夫が帰宅することは、まずない。
「わたしの子供に生まれて、不幸な思いをさせたね」
病院から帰り、熱も下がった小佑莉は、ソファーでアンパンマンのビデオを観ながら寝てしまっていた。
「だいたい、そうよね。早産の原因って、わたし自身の身体にもあるけれど、あの日、渋谷駅であの男女に会い、破水し、入院していても、わたしは感染しないでひと月も耐えた。後から入院して来る患者さんは、一週間も持たないで感染して分娩していたのに。わたしは感染しなかった。あのまま行けば、せめて後、二週間、小佑莉はお腹の中にいられたかも知れないのに。婦長さんが、点滴を間違えたから、28週のわたしに、陣痛促進剤を注入した。あれさえなければ、小佑莉は、こんなに苦労しなかったかも知れない」
妊娠中のひと月の入院期間で、実は二度に渡って点滴ボトルを間違えられるという事故が起きていた。一度目は直前で景子が気づいたので良かったが、二度目は寝ていた時の差し替えだったので、わからなかった。陣痛を感じ、ナースコールを押してから一時間もしない頃、主治医と看護婦長が現れ、事実を告げられた。既に陣痛は進んでいたので、そのまま分娩となったのだが。景子も久嗣も、病院を訴えることはしなかった。入院期間を通じ、婦長とも顔見知りになっていたし、慢性の人手不足が原因で、看護婦たちの労働環境の厳しさも知っていたらだ。
検査の結果は陰性だった。小佑莉は血液の病ではなかったのだ。
「ごめんね小佑莉ちゃん」
術後の小佑莉は、とても弱って見えた。意識が朦朧として、息も浅い。青白い顔は目の下の肌が透けて見える程、青かった。お腹から背中にかけて、黄色い液体が塗られ、痛々しい。急激に薄くなってしまった身体を横にした格好で、小佑莉は必死に生きていた。
「嬉しいことなのに、癌じゃなかったのに、なんでこんなに悲しいの」
小佑莉のベッドに顔を突っ伏し、景子はいつの間にか寝てしまい、小佑莉に頭をいじられて目が覚めた。
「あっ、おきたの小佑莉、大丈夫?」
うん、と小佑莉はうなずいた。
「ママ寝てていいよ。おつかれだからね。小佑莉は大丈夫、いつも大丈夫」
彼女はまるで、自分が生かされている意味を理解しているかのように微笑んで、そういった。
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