お母さんではない(仮)


 Hさんは父子家庭で育った女性である。母親は物心つくまえに亡くなったそうだ。ただ、H家には母親らしき“ぬくもり”というか、雰囲気があったというのだ。

 

 例を挙げればキリがないが、

 干した洗濯物の残り香。

 風呂あがりや帰宅時に切り替わる部屋の空気・・・。

 そういった日常の何気ないところで鼻孔をくすぐる“ぬくもり”があったそうだ。


 そのなかでも極めつけは料理だったという。

 ときおり家に帰ると、食卓に料理が用意してあった。

 お父さんは仕事で帰ってきておらず、一人明かりのついていない玄関をあけると、ふわっ・・・と匂いが漂ってくる。着の身着のまま駆け上がると、暗くて寂しい食卓にできたての一皿が置かれている。思い返せば、手洗いもせず無我夢中で頬張っていたそうだ。


 そして食べるたびに「あぁ・・・お母さんの料理だ・・・」と安堵したという。

 

 これが表現しづらいもので、味も匂いも、自分がどう作っても再現できないものだったという。


 それが父親が亡くなったあとも、ときおり食卓に並ぶそうだ。




 暗い喫茶店の片隅で、そんな話を聞いた幼馴染のTさんは訳が分からなかった。

 無人の家。誰が用意したのか分からない料理。それを疑いもなく食べて安堵する?


 湧き上がる疑問をHさんに投げかけるも、にこやかな顔で「そういうもんじゃないの?」と答えるだけだった。




 後から知ったことなのだが、上記の話を聞いた当時、Hさんはすでに結婚していたという。


 現在、H家には顔の知らない夫のHさんと、その連れ子のHさんが住んでいる。

 母親はいまもいない。


 Hさんがいなくなった日、おそらく最後に出会って話を聞いたTさんの体験。

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