なんで裸なんですか?!3

ー大切にしてね…きっとあなたの支えになってくれるから…ずっと一緒にいてあげられなくてごめんね…ー


お、かあ、さん……?


行かないで…ひとりぼっちはいやよ…。




頬を伝う温かい感触に、アイヴィーはゆるやかに覚醒する。老婆が亡くなったときですら、アイヴィーはあまり泣かなかった。いろいろと手続きがあり、やらなければならないことに忙殺されて、そんな余裕がなかったからかもしれない。




ましてや夢を見て泣くなんて、ほとんどないことだった。




あの夢の人は本当にお母さんだったのかしら…。


でも、もし本当なら…。




母の記憶がないアイヴィーにとっては、今朝はなんだかふわふわして幸せだ。

手にも柔らかくて温かい感触がある。思わず頬を擦り寄せて微笑んだ。




そういえば、昔大切にしていたぬいぐるみがあったなあ…今は失くしてしまったけれど…。


…ところでいま私が触っているのはなんだろう。




「ん……」


もふもふもふ。


「…おい」


もふもふもふ……はっ!


「目が覚めたなら起きろ。そろそろ離せ」


するり、ともふもふふさふさがアイヴィーの手から擦り抜けた。




だ、誰っ?!




ぱちり、と目をひらくと、美しい獣の耳を持つ男が間近で覗き込んでいた。

猫のような目を驚きに見開く。


「きゃああああああ!」

「煩い」

「もがっ」




悲鳴を上げた口を大きな手のひらで塞がれる。


見開いた大きな目を一度ぱちりと瞬くと、男の手を振り払って急いで後退りすると急に身体が宙に浮く感触がした。




「うぎゃっ」


身体を床に打ち付けて悶えるアイヴィー。

どうやらアイヴィーは自室の寝台で寝ていて、たった今転げ落ちたようだ。




「阿呆なのか、お前は…少しは落ち着け」


え、誰…?ま、まさか、ご、強盗?!


「もう忘れたのか、俺の封印を解いたくせに」




はっと息を飲み、ようやくアイヴィーは顔をあげた。


裸の男ー先程カイ、と名乗っていたーが寝台に腰掛けて、腕組みをしながらこちらを見ている。


その煌めく白銀の髪には同じ色の狼耳がついており、美しく割れた腹の横からふさふさとした何かー尻尾であるーが覗いていた。




そうだ、私、こいつが急にブローチの石から出てきて、びっくりして気を失ったのね…。




「もしかして、私、さっきあなたの尻尾を触ってた…?」

「撫でまわしていたな」


は、恥ずかしい…。




っていうか。




「なんであなたがここにいるのよっ。女の子の部屋に勝手に入るなんて最低…!あと早く服を着て!」


アイヴィーは服をちゃんと着たままだったし、他にも言わなければならないことはたくさんある気はしたが、何となく毛布を胸元に引き寄せながら顔を真っ赤にして叫んだ。




ばさり、とシーツを男に投げつけ、ついでに枕も投げつける。




いくら美しい身体をしているからって、乙女は男性の裸を無闇矢鱈と見たいわけじゃない。




しかしカイは鬱陶しそうに投げつけられたシーツや枕を払うのみだ。


「言っただろう、俺はいにしえの大いなる獣だ。人間の服など着ない」




はあ?変態じゃない、露出狂。




「それにお前がいきなり倒れたからここへ運んでやっただけだ。礼があってもいいのではないか?」


おもむろに寝台からおりて、アイヴィーへ近づいてくる。全裸で。




「ひっ」




切れ長の瞳は意地悪そうに細められ、薄いくちびるは緩く弧を描き、ちらりと鋭い犬歯が覗いた。


アイヴィーの顎を長い指で掴み、凄みのある美しい顔を近づける。




「わ、悪かったわ…!運んでくれてあり、ありがとう…!」


お願いだから離れて…。

恥ずかしさでいっぱいになったアイヴィーは震えながら答えた。




「ふん、もう少し遊んでやろうと思ったんだがな」


勘弁して。




どさり、とカイはもう一度寝台に腰を下ろし、長い脚を組んだ。




アイヴィーはまだ床に座り込んだままだから、カイの引き締まった脚は目に入るが少女が見てはいけない男のモノは視界に入らない。


ようやく少し落ち着いたアイヴィーは問いかける。




「あなた、ずっとここで私が起きるのを待っていたの?」


窓の外を見やると、空が赤く染まっている。アイヴィーが倒れてから数刻経っているのは明らかだ。




心配してくれたのかしら。もしかしていい人…?いえ、耳と尻尾があるから、いい獣…?




「誤解するな。仕方なかっただけだ。…俺たちは、どうやら離れられないらしい」

「ど、どういうこと…?」




カイが言うには、封印は完全に解けたわけではないらしい。

アイヴィーのくちづけによって、覚醒し、石の外に出られるようになったものの、アイヴィーから一定以上の距離を離れることができないという。




「ブローチを持っているだろう。見せてみろ」


「ブローチ?」




そういえばどこにやったんだっけ、と考え込むように右手を口元によせると、その手に違和感を感じ、ゆっくりと手を開く。


そこにはアイヴィーの体温がうつって少し温かくなったブローチがあった。




私、ずっと握ってたんだ。気づかなかった。




手のひらにブローチを載せたまま、カイヘ差し出す。ゆっくりとカイの腕が伸びて、そっとブローチに触れ…るかと思いきや、バチンッと小さな稲妻がカイの手を弾いた。




「っつ…」

「きゃっ」




優美な眉を軽くひそめ、カイは嘆息しアイヴィーへ目を向けた。


「調べたいことがあったから触ろうとしたんだが、この通りだ。この石からはお前と似たちからを感じる」


「ちからって…?私、何もしてないわ。それに離れられないってどういうこと?ブローチに触れないのとは関係があるの?」


離れられないのは困る。


だってこの男はまだ裸だし、今アイヴィーは遺品整理をしていたときの少し埃っぽい服を着たままだ。

お腹も空いている。今から作る気分ではないから、今日は外食にでたい。

そのためには着替えたい。カイには部屋から出て行ってもらいたい。

そもそも会ったばかりの男性(耳と尻尾がついているとしても)が乙女の部屋にいるなんて。




「こういうことだ」




カイが寝台から立ち上がり、ゆっくりと後ずさる。アイヴィーは慌てて顔をそらし、床に手をついて立ち上がった。その間にも一歩ずつ、遠ざかっていく。三歩ほど離れたところで、アイヴィーは急に強いちからを身体に感じた。




「えっ」




カイの艶やかな胸板が目前に迫る。




ぼふっ。




アイヴィーはカイの胸に飛び込んでいた。硬い胸筋が、彼女を危なげなくしっかりと抱きとめる。


慌てて離れようとして、カイの胸を押すけれどびくとも動かない。それどころか彼は腕をアイヴィーの細い腰に回し、またも首筋に顔を埋めた。




「や、やめてよ…!」


まただ。アイヴィーの頭はもう沸騰直前だ。

緑の瞳に涙を滲ませながら弱々しく抗議するが、カイには届かない。




カイは空いている片方の手でアイヴィーの琥珀色の髪を弄びながら、すう、と匂いを嗅いだ。




「先程もだったが…。やはり、お前は干し草の匂いがするな。懐かしい気がする」

「…は?」


干し草?

ここは町のど真ん中で、牧場まではかなり距離がある。私はまったく干し草に触れていないんだけど。

それって、女の子に言うこと…?



羞恥で真っ赤になっていた顔は、一瞬真顔に戻り、それからだんだんもう一度真っ赤になっていった。


今度は、怒りによって。


身を捩りもがいてカイの腕の中から逃げ出し、目の前の失礼な男へ鋭い平手を繰り出した。



*****************************


『野良猫のトランペット亭』はアイヴィーの家(つまりは薬屋である、職住一体型なのだ)から通りを一つ挟んだ向かい側にある定食屋だ。

店主は無口だが気のいい大柄の男で、その妻も気さくな優しいおんなであったため、町に馴染んでいないアイヴィーでも入りやすく、たびたび利用している。


特に老婆がいなくなってからは、一人分の食事を作るのが億劫で利用頻度が増していた。




カランコロン、と入店を知らせる鐘の音とともに、扉を開ける。夕飯時のため、店内少し混み合っておりガヤガヤしていたが、新たな客の姿に水を打ったかのように静かになった。




「いらっしゃい」




新たな客ーアイヴィーと、大きなマントを頭から被った怪しい男の組み合わせは、店内に一瞬ピリリとした緊張を走らせたが、店主の野太い掛け声でいつもの様子を取り戻した。




「おい、いつまでこんなものを被らせるつもりだ。俺はいにしえの大いなる…むぐ」

「静かにしてっ。あなたから耳や尻尾が生えてるなんて、町の人に知られたら大変なことになるわ」




鬱陶しそうにマントのフードを脱ごうとしている手を素早く押さえつけ、カイの口を手で覆い小声で怒った。


奥から現れた店主の妻が、二人を席へ案内する。




「とにかくご飯にしましょう。本当に今日は疲れたわ…。何か元気の出るものを食べなきゃ!」


家を出るのに一苦労、外を歩くのなんて生まれたての子鹿よりも下手なくらいな状態だった。




家中をひっくり返して何とかカイの服らしきものを見繕った。


俺はいにしえの大いなる獣だからそんなボロ布を身に付けない、などと我儘を言うし、外へ出たら出たで大変。

ふらふらと興味の赴くままに歩くカイに強制的に引きずられ、おかしなちからに振り回された。




ブローチはもちろんアイヴィーが持っている。大切なものだから元々入れていた箱に仕舞っておこうかとも思ったけれど、何となく離れがたくて、少し加工してペンダントとして身につけた。




這う這うの体である。


あまりの疲労にお腹はぺこぺこだ。




アイヴィーはぐうぐうとなるお腹を押さえながらメニューを真剣に見つめる。

そこではた、とあることに気が付いた。




「あなた、お金は持っているの?」

「ない」

「……」


聞くまでもなかった。こいつ、裸で現れたんだもの。




アイヴィーはいろいろ検討事項が頭に浮かんでいることには気づいていたが、いったん晩ご飯を食べることに集中しよう、とまずは注文のためマスターを呼び、怒涛の勢いで選りすぐりのスタミナ肉料理を注文するのであった。




*****************************




パンをちぎりながら、アイヴィーはカイを質問攻めにした。


「あなたは何者なの?どうしてブローチの石の中にいたの?さっき言ってた『ちから』って?どうしたら私たち、元に戻れる?」


一息に言い切った。普段から引きこもり気味の彼女は軽く肩で息をしている。


カイはちらりと彼女を流し見て、悠然と食事を続けた。ナイフとフォークの使い方は意外にも丁寧で、ともすると貴族のようだ。




ぱくりと肉を一切れ口にいれ、咀嚼する。アイヴィーは焦ったく思いながらも辛抱強く待つ。


ごくりと嚥下すると、同時に喉仏が下へ動いた。




「俺はいにしえの大いなる獣だ。それだけだ。……それしか思い出せない」

「それって、記憶がないってこと…?」

「そうなんだろうな」


そう答えたカイの紫の瞳は少し揺らいでいた。




彼は記憶を失っているようだった。自分が何者であるかはわかっても、ブローチの石に封印される前のことはなにも思い出せないようだ。




カイも不安なんだわ。




そう気付いたアイヴィーは少しカイに同情した。


それでも先程の『匂い』発言と、『野良猫とトランペット亭』への道中で振り回されてまたもや抱き付く羽目になったことは許していないのだけど。




少し声を和らげて、カイへ問いかけた。


「何か少しでも思い出せることはない?封印が完全に解けるきっかけになるかも。そしたらきっとあなたの記憶も全部戻って、私たちも元通りになるわ」




カイはフォークを置いて一息つき、目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落としている。整った鼻筋に艶やかな肌、薄いくちびるから覗く鋭い犬歯。


アイヴィーはいま、初めてカイをゆっくりと見つめた。




「さあな」




カイの声にアイヴィーは我に返った。


いけない、私ったら、今カイに見惚れてた?




「何も覚えていない。…だが、やはりお前の」

「またおかしな『匂い』のことを言ったらビンタする」

「…お前のことは懐かしい、と感じた。どう封印に関係するのかは分からないが」

「私、あなたと会ったことはないと思うのだけれど」




こんな目立つ人、一度見たら忘れないと思う。

耳と尻尾がなくたって、ふたつとない美貌の持ち主なのだ。




二人の間に沈黙が落ち、黙々と食事を続けた。

食べ終わると、休憩もそこそこに店を出た。

この町の夜は冷え込む。吐いた息が白い。




アイヴィーは家へ足を向けた。もちろんカイも一緒だ。

今夜はどうやって過ごそうか、これからどうしたらいいのか。

耳と尻尾が付いているとはいえ紛うことなき男性であるカイと一つ屋根の下で過ごすのだ。


課題は山積みである。



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