第四章
暗黒の世界……。
光の暖かさは判るのだが何も見えない……それが志穂梨の今の世界……。
耳と手の感触と勘だけが頼りに生きて行かなければならない志穂梨の最初の試練と言うべきだろか…。
そうだとしたら16歳の夏、あの海の出会いが彼女の人生を変えてしまったと言うべきだろう……。
そうかと言って運命を呪いたくなかった志穂梨は、やはり淳と良太郎の二人を憎しみだけが残る…。
あの二人が自分の運命を変えてしまった張本人であるのは間違いなかったが、そのために淳は自分の犯した罪を志穂梨の父に何もかも話した。
自分がストーカーをしていたために早く家に帰れなかった理由だろうが、志穂梨の父、田原利之検事は検察官として真相がどうであれ真実だけがものを言うのだと先輩達に教えられてきた。
だから調べていたが、どうも志穂梨も美奈子と一緒ぐらいに部活をよくサボっていたのでクラブの先輩も後輩も良い印象はなかったらしい…。
そしてあの海での出来事も話したが、あの時はまさか兄貴達のメンバーと合流するとは思わなかったので、
「うん……全く君たちにとっては予想外だったが、あの時は女の子だけで行くと言ってなかったっけ。それなのに後で聞いたらボーイフレンドも一緒で、これも予想外だったの?」と聞いた。美奈子は頭の中であの時いた男友達の顔を思い出して『あのおしゃべり野郎……憶えとけ』と心の中で悪態を付いて、
「いったい誰がそんな事を話したの?お兄ちゃんの仲間達かなァ?それともあたしのBFかなァ?でもそんな事は当たり前じゃない?おじさんが考えているような事はしてないわよ。どっちにしてもバレたのならいいわ。そうよ。男女2組で行ったの。でもお兄ちゃん達が割り込んできたので何もなかった」
と言った。
そして美奈子はニッコリと笑顔を作って利之に、
「心配だったんでしょう……志穂梨は私みたいに大人びいてないからねェ……最近では珍しいぐらいの純粋でおねんねでひねくれていない子もいるんだから、驚いちゃう。でも淳も志穂梨みたいな子が好きだったなんて知らなかった。全く男って清純て言うか、単純と言うか、ああいう子が好みなんだから参っちゃうわ」
と言って本性を見せた。それを聞いていた利之は困った顔をして園田夫妻は娘の教育もなっていない事に気付き、共稼ぎの牲で子供は二人とも不良化してしまい、気が付いた時にはどうにも出来なくなっていたケースだろうと思った……。そう判断した利之は話を元に戻し、
「君には何の罪もないんだけれど、淳君やお兄ちゃんの良太郎君の事故について聞きたいんだ……。『つまり何故二人揃ってあの日は部活を休んだの?テニスをしていたらコートの中に居たはずだから、あの様な事故に遭う必要がなかったし、良太郎君も志穂梨の目を潰さなかったかもしれないじゃないのかなァ』とおじさんは思ったんだけど……」
と美菜子の目を見て言った……。そんな事言っても言えない事もある…。ことに女の体は男とは違うと聞いている中で、これ以上聞けば後でセクハラ罪に属するので問題になると思ったが、美奈子は断然見当違いなことをぽつりと言った……。
「あたしは家庭教師が家に待たせているから先に帰ったんだけど、志穂梨は確か…淳のストーカーを避けるために裏口から帰ったはずなんだけど気が変わったのね……」と……。
すると利之はこの彼女の何気なく思い出した証言に鸚鵡返しのように最後の言葉に疑問符をつけたように言って、彼女に、
「どういうこと?」と聞いた。
その事について美奈子も
「ああ、そうか……表より裏口の方が志穂梨の家に近かったんだ」
と言って首を捻ったが、利之もなんで裏門を通らず正門から出て来たのかと疑問に思っていた。というのは美奈子のいうとおり表より裏門の方が田原家の家に近かったのだ…。しかし美奈子は思い出したように、
「志穂梨は誰か他の友達と待ち合わせのために駅の方に行く予定だったんだ…」
と言った。そして彼女は、
「後は志穂梨に聞いて……。あたしはそれだけしか知らないわ」
と言って、
「もういい?あたし家庭教師を家に待たせてあるの」
と言って急いで帰った。
呆れた顔をして見送っていた利之だったが、自分の娘もおかしい行動を取っていたので美奈子の言う通りそのわけを聞く執拗があった。
その夜病院に来た利之は早速、まだ包帯が取れてない娘の顔を見ながら、
「何故黙っていたんだ?本当の事を言えば怒らないから言いなさい」
と言うと今まで何も知らなかった母親も心配して、
「そうよ。お父さんの言う通りよ。いったい誰と会っていたの?」と優しく聞いた。
志穂梨は仕方なしにうつむいたまま、
「好きな人に会いに……でもあたしの方が片想いかも知れないし、相手に迷惑かけるだけだからもういいの……。それにあたし…その人の名前さえ知らないの」
と母親の腕に抱きついて泣いた。
それには利之も満希子も答えようがなかったが、今は笑う事も出来ない。でも名前も知らない相手をこれからどうやって捜すのか、今まで目が見えて何不自由なく暮らしていた志穂梨にどこまでこの試練に絶えられるか、中途障害者にとって勇気もいる。それだからこそ父親は、
「初恋か……懐かしいなァ……名前ぐらいは聞いとけばよかったのに……。全く誰に似ているんだ、お前……」
と志穂梨の泣き顔を見て言った。
その時の利之の声はおどけた声だったので志穂梨にはうれしかったが反面、父は悲しんでいると感じ取った……。
娘にはそれが自然に伝わるのだから仕方ない。目さえ見えていたら決して話さなかったろう、
片思いの初恋に、志穂梨がこんな形で言うとは夢にも思わなかった。
やはり良太郎のした事はスクールゾーンになっているはずの道の片隅に花瓶代わりの牛乳瓶に花が備えてあるのを知らずに後ろの車輪でかすめて行ってしまうケースはよくある事だが、一歩間違えれば大惨事になって、今回のように検事の娘が視力を失うほどの怪我をしてしまうのだから親として情けない限りである。
何とか道路交通法違反にしてやろうとしたが志穂梨の話を聞いているうちに公訴を取り下げるより仕方なかった。というのは普通にクラブをしていれば事故に遭う必要性がほとんどと言ってなかったし、またクラブを休んでいたとしても、いつも通る道を帰っていれば失明するほどの大惨事は起こらなかったと思うのが、今の利之の正義感であった。
早速一晩考えた末、明くる日に公訴を取り下げに行った利之だが偶然にも良太郎の弁護を引き受けた園田法律事務所の若手弁護士で相澤光彦が来ていた……。その時はただ会釈だけで済んだが相澤弁護士も志穂梨の事を知っていて、
「お嬢さんの怪我の具合は相変わらずですか?一度担当弁護士としてお目に掛かりたいと思っているのですが、今日ではいけませんか?」と言って志穂梨の目の具合を聞いた。利之は、
「相変わらずだ。1度失明した目を元に戻るとは思えない。全く今回だけは運が悪いとしか言いようがない……。だから公訴を取り下げ話し合いで片付けようと思ってね…。」と言って相澤の反応を見た。相澤は信じられない顔をして、
「今なんて言いました?裁判をやめて話し合いで…?じゃあお嬢さんの方にも過失はあったのですね。しかし検事の娘でも人間ですからね……」と言った。
その言葉で『カチ~ン』と頭に来た利之は法律の先輩に向かっての口の利き方がなっていない弁護士に一度遣り止めてやりたい気もしたが、ここは娘の秘密も守りたいと思って『グッ』と堪えた……。
しかも、この時なぜか良太郎の顔が目に入ったので彼に近づいて彼にだけしか聞こえない声で、
「志穂梨に好きな彼がいるらしいんだが、君でない事だけは確かだ。君の仲間の松本淳でもない…。誰だと聞いても教えてくれない……。けれど君達の仲間でなくってよかったと思っている」とはっきり言った。
この言葉を聞く限りでは『お前の事など眼中にないからいい加減諦めろ』と言っているようにも聞こえた。しかし良太郎も、
「そうですか…。彼女が言いましたか…、いや~これで志穂梨さんを諦められる……けれど淳はこの話を知っているんでしょうね。それでなくてもあいつストーカーまがいな事をしていたんですからね。あいつの方が気になるのではないのですか。しかもあいつはあれで悪のくせにけっこう切れ者で法を犯す一歩手前、ボーダーラインで止めていたから、今まで表に出て来ない存在だったんです。いわば影の番長格……まあ、今は司法試験に合格して真面目に法律を犯した奴はどうのこうのと言っていますけどね」と田原利之検事に言って意味あり気にニヤッと笑って法務署を後にした。
それを聞いた利之は直ぐに良太郎の後を追いかけたが、
『あの良太郎のオートバイ仲間だった松本淳が難関の司法試験に一発で通っている?この私でさえ2~3回やってやっと通った司法試験を…?』と思い引き止めて、もう少し淳の事を聞いてやろうとして急いで外に飛び出し階段を駆け下りた。その時、丁度タクシーの奥の座席に乗り込もうとしている最中の良太郎を呼び止めたが、相澤弁護士が何故か胡散臭そうな顔をして検事の顔を宥めていたが、『ハア、ハア』と苦しそうな息を整えてから話した。愛娘の事とあれば例え火の中でも水の中でも行こうとするのが親である…。そう考えながら良太郎が言っていた同じ言葉を繰り返して、
「つまりあいつはお前より頭が良いという事か?驚たなァ」
と言って頭を掻き掻き大笑いした。
何故大笑いするのか解らなかった良太郎と相澤弁護士は恐る恐る聞こうとして笑いが治まるのを少し待っていたが、そこに止めてあったタクシードライバーに睨まれているような気がして、
「私たちには関係なさそうだからこれで帰らせてもらいます」
と言ってタクシーに乗り込み走り去ろうとしていた。
しかし良太郎はいくら志穂梨との婚約を解消したと言っても自分はまだ好きという気持ちは変らなかったのでその利之の笑いが気になって走り出したタクシーを直ぐに止めて出てきた。そして利之が居た方に走って来たが、もうそこには誰も居なかった。
きっと地検の事務官の連絡を受けて直ぐに事件現場までタクシーを拾って飛んで行ったのだろうと思って諦めたが、相澤を乗せたタクシーは走り去った後だった。トボトボとバス停まで歩くか、またタクシーをひらうかしなければならない。どうしようか迷っているとタクシーが自分の目の前で止まってくれて相澤が窓から顔を出した。そして、
「困るんだよ……。相手は検察官だけにまた冷や冷やと変な事を言うのではないかと思いましたよ。全く君は口が軽いと言うかなんと言うか、いやぁ詣りましたよ。でもこれで松本淳が一番の悪だと判っただけでも、君は助かる…。だってストーカー行為をしていたから志穂梨さんが学校から家に帰れなかった…、つまり志穂梨さんが『ストーカーがエスカレートさせている』松本淳を避けていつもと違う道を行ったのだと思います」
と言って後はあの検事が真相を調べ上げてくれるだろうと思っていた……。
ところがそうではなく実際には駅の方角に行く予定だった志穂梨の行動を調べて視る事にしていた利之は次の事に気がついた。というのは駅に行く日は決まって火曜日から金曜日で月曜日はクラブがない時に限りまっすぐ家に帰っていた…。
それからすると月曜日は相手が駅に来ない事になる。いったいどんな男か見てやろうと言う好奇心から利之は駅に行ってみたが駅員や客が行ったり来たりしてどの男か判らない…。
やれやれと思っていると松本淳が大学からの帰りなのか電車の中からホームに下りて来た…。
そして偶然にも利之と顔を合わせてしまった淳は知らない顔は出来ず、会釈だけして通り過ぎようとしたが、利之の方から独り言のように、
「志穂梨の相手がお前じゃなくて残念だったな」
と言うと『ニヤッ』と笑いかけた。すると淳も笑いながら、
「でも結局はあの事故の事で責任感じているのは僕と良太郎しかいないのだから、その責任をどう取るかが問題ではないでしょうか。その男性がもし志穂梨さんの事故の事や障害の事を知ったとしても付き合ってくれるかどうか判りませんよ。ただその男性にも障害者の兄弟か親戚がいるのだったら解りますが、そう言うのではなくいちなり『君の牲で娘の目が事故で見えなくなった。どうしてくれる?』なんて言っても迷惑になるかも知れませんし、そんな事をしたらあなたの検事としての立場がどういう事になるのかお分かりですか?そんなことよりか今の彼女には僕の兄貴みたいに本当に心を開いて話せる相手を見つけてあげた方がいいのではないでしょうか」
と言った。
そのものの言い方は非常に落ち着いて司法試験に通ったと言う自信にあふれていて丁寧な口の利き方をしていた。その淳の態度を見て利之は、
「君があの難関の司法試験を学生の身分で合格するなんて、しかもこの私でさえも2~3回してやっと受かったほどなのに『凄いなァ』と思ってね。それで将来は弁護士か……」
と聞いて何気なく笑った。それを言われると困ったような顔をして、
「ええ、知ってらっしゃったんですか……。でもまだ決めていませんよ。そんな将来の事なんか……。ただの気まぐれで試験会場に行ってやったら偶然にも僕の知っている法律ばかりだったので筆紙試験は通っただけでついていたんです」
とウソぶって言った。でも利之には分かっていたので、
「ウソをつくな…。一発で合格するために必死でやったくせに……まあ…その事は置いといて検察官にならないか?それなら私も君と志穂梨の将来のことを考えてもいいのだが……どうする?」と聞いた…。
淳はそう言われるとグラついた様に見えたが、しかし目を利之の方に向けたまま凛とした態度で、
「それはお断りします…。だって志穂梨さん、今は僕を憎んでいる様子だし、その憎しみが愛に変るとは僕にはとても思えないし、このままで行くと最悪の結末で終っていくかもしれないし……」と言って、それから、
「僕みたいなのが検察官になったら法律自体を変えなければ行けなくなるんではないでしょうか……。だって殺人事件や強盗事件の場合はどうしてもその事件の犯人の立場になって考えてしまう性質なので、やはり弁護士が一番安心ですよ」
と現役の検事の前で言った。
だが正義感の強く心の広い利之は怒る事はせず、むしろ志穂梨の相手としてはふさわしい相手だと思った…。
ただ問題は志穂梨の心の奥に隠された初恋の相手だったが、未だに現れなかった。
駅で誰に会うつもりだったのか全く解らない。顔も姿もどこで何をしている男かも解らない正体不明に近い男を捜していたのだ…。
だが志穂梨だけが駅で偶然知り合い恋をしてしまったXだったが、その日は終電まで駅のホームに居たが見つからなかった。
その日は淳を連れて田原家の自宅に帰ったが妻の満希子はあの事故の日からずっと病院にいるし、たまに帰って来ても洗濯しに帰って来るだけ。後は散らかし放題になっていた。とても家に客を呼べる状態ではなかったが、それでも利之は淳をもてなしてビールを乾杯した。
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