第三章
それから一ヶ月何事もなく過ぎて行ったが、それでも中高生の自殺をしたというテレビのマスコミ達が言ったり、また週刊誌や新聞で読んだりすると自分の娘は大丈夫だろうか、こうしている間も自殺を考えているのではないかと思ってしまう。母親は松本洋医師に相談したが彼も医師としてああいう事があった以上、今後も自殺をしないとは限らないと思っていた…。
洋も同じ気持ちになっていたのだが肝心の志穂梨の方はすっかり、自殺の事自体忘れて何事もなかったかのように見えていた。だが看護婦に聞けば
『最近は機嫌が良ければ音楽を聞きながらハミングしたりしているが、そうでなければ布団に潜り込んで寝ていることが多く、勉強は愚か散歩も行きたがらず母親の満希子が話しをしても何も答えてくれず私達も困っている…』
と主治医の洋に相談していた。洋はそれを聞いて仕方なく足を伸ばして志穂梨の病室まで毎日行くが目の診察では手術したあとの傷を消毒とガーゼを毎日取り替える事は欠かせない…。その時にいつも無表情な彼女を見て母親に尋ねたが、満希子も、
「淳君が来ても加納君が来ても最近はあのように心を閉ざしてしまって、つい最近までの笑顔を見せてくれなくなりました。あの笑顔は健康だから見れた笑顔なんだと私達は思っています」
と半ば諦めた言い方だった…。
しかし医学的に言えば欝状態で医者としては見逃す理由にはいかない。兎に角洋はこのまま引き下がれない……。何とかしなければ後一週間で退院してしまう……。と、言うのは目が見えないが傷の方が回復したから当然だ。だが心の傷がまだ癒されていない状態で退院したらどうなるか…。
それこそまた自殺未遂をしてこの病院か、彼女の家の近くにある大学病院に運び込まれるのに違いない。心療内科がこの病院にはないから当然だ。あれば自殺未遂を起こした段階で心理的な部分を診てもらう事が出来たのだが、ないために病状を返って悪化している可能性がある。
でも洋が診ている限り平常状態なのにどうして他の人の前では心を閉ざす事が多いのか、目が不自由になったら心まで変わるものなのか医学書を見て考えていた。
そして今まで診察して来た患者の一人に志穂梨と同じように事故で視力を失い苦しんでいたが好きな男性に愛の告白をされて悩んで悩んだ末に服毒自殺を図った、ある女の人を思い出していた。その女性も助かったのだが、助けた時に洋は、
『何故こんな良い話なのに自殺を図る必要があるの?事故をして責任を取らなければならないのは彼ではなく加害者のEさんなのに……』
と当時は言っていたのだが、その女性の言うのには、
『結婚したらあの人に迷惑が掛かるだけだから……だから自殺を図って誰も来られない所に逝こうとして薬を飲んだの』
と相手の男性に言っていた。
その当時は洋も結婚を気軽に考えていて女性の言葉に『何故……?』と思ったが、その女は結婚した後の事を考えていて、
「あたし何もあの人の足手纏になりたくないわ…。彼はただ同情して『愛している…』と言っているだけで、いつかはその愛も憎しみに変わって後悔を残ってしまうに違いないわ‼目が見えなくなった分、そういう事が解るのよ!」
と言い放していた。それを廊下のところで聞いて男は黙ってノックもしないで病室に入って来たが、やがて低い声で
「言いたい事はそれだけか?」と聞いて、そして近くに寄ってきて彼は彼女を優しく抱きしめた。そして、
「ならいい……。君に俺以外に好きな男がいるのかと思っていた…ああ良かった。」
と言って安心して更に強く抱きしめた。その後どうなったのか知らないが、きっと幸せになっていると思った洋は、その時の事と志穂梨と直樹の事を重ねて見ていた。
当時はまだ研修生だった彼は今、直樹が本心から志穂梨を愛してしまったのなら、その話を聞かせて応援してやりたいと思った……。
しかし当の志穂梨は直樹の事などなんとも思ってなく返って『あいつ、あいつ』とその兄の前で人を小ばかにした呼び方をしている。だがその女性は彼氏の事を志穂梨みたいに『アイツ』と言ってなかったような気がして、確か名前で呼んでいたような気がした。
でも思い出してみれば、その男女は結婚適齢期で志穂梨や直樹のように学生ではない。それだけにウマく事が運んだが、あの二人はそう簡単にはいかないのではないかと思った洋は何か善い手立てはないものかと考えていた。
やがて志穂梨のリハビリが始まり今まで目が見えていて何も気が付かなかったが道路には障害物が多い…。それをどうして避けて通るか、そして道路と歩道を間違わないようにするには点字ブロックをどう見つけたらいいのかが今後の課題で暫くは白い盲人用の杖で練習して行くしかないだろうと洋とリハビリ専門のY医師と相談をしていた。
しかしあの志穂梨がただで主治医の洋の言う事を聞いてくれるだろうか?また反発して『盲人用の白い杖を使うぐらいなら歩きたくない』と言うに違いない……。だが今の志穂梨には色どころか何も見えてなく何も言わなければ判らない。
しかし目が見えているときにテレビのドラマか何かで見て知っているかもしれないし、街のどこかで実際に見かけているのかもしれない。そして志穂梨も洋が朝の診察に来た時、
「歩く時は杖が必要になるんでしょう。盲導犬も……」となんだって知っているんだからと言わんばかりに聞いていた。洋はその時直ぐに
「ああ、そういう事になるよ……でも盲導犬はかわいいし、可愛がってやれば直ぐに懐くんだよ……。僕も淳も盲導犬になるような犬を育てているんだけど、君が欲しいと言うんだったら今度連れて来るよ」
と言って確かめた。志穂梨も猫が好きでいつか飼いたいと思っていたが、父の仕事の都合で飼えなかった思い出がある。しかし洋の言うには盲導犬は別だと言って、
「君が街に出て行く時、障害物のない所に連れて行ってくれたり、君の命を守ってくれたりするんだよ。障害によっては最近では介助犬とか聴覚犬もいるが皆大人しいし、今度一度僕の犬でよかったら連れてきて一緒に歩く?」
と聞いた……。すると志穂梨はこの病院に入ってから今まで見せた事がなかったあの最高の笑顔を洋の前でやっと見せたが、目の周りの包帯が邪魔をして口元だけしか洋には見えなかった……。
しかしちゃんと解っていた洋は少し『ほっ』として、
「じゃあ明日にでも連れてくるよ。僕の犬の名前はメグで淳の犬はドラえもんなんだが、ドラえもんの方が本当いうと大人しくてしつけもいいし淳にしてはうまく育てているんだけれど、メグは盲導犬としては今ひとつなんだ。でもメグは勘がいい犬なんだよな」と言って薬を塗り包帯を取り換えてそれが終ると、
「じゃあ明日……楽しみに」と言って出て行った。その志穂梨の話しをじっと聞いていた母親の満希子も志穂梨が洋と話している時の方が自然で一番安心しているのではないかと思っていたが、まさか志穂梨の彼になるとは夢にも思わなかった。
しかしこの時に気付いていても満希子はあの洋となら反対はせず安心してつき合えると思ったに違いない。唯ひとつ気になっていたのが年の差だったが、今の志穂梨を明るくしてくれるのは直樹ではなく洋だった。
そう思ってどんな男が来ても反対するのが当たり前だと言った父親の利之には黙っていたが、父親の前ではいつもの冷静な志穂梨に戻る。母親はそれを見て少しは安心したが、何故安堵をするのか自分でも解らない……。
きっと母親としては父親の前ではまだまだ子供である事を見せたかったのに違いないのだが、志穂梨もその辺の所は心得ていた。でも年相応の直樹に対しては相変らずで会うと母親に、
「全くあいつは大学生なのにまだ子供みたいな事をするんだから‼」
と言って今日、出会った時の事を話していた。満希子もその言葉を聞く限り『まだまだどっちも子供だ』と思っていたのだが、洋と会うと大人の志穂梨が見えた。
そう言う複雑な心の動きに、志穂梨は気がつかなかったが母親に言われて初めて気がついた。でも目の不自由な女の子に手を差し伸べて来る男は大抵、金目当てで寄って来るのが多いのだが、洋と直樹はそんな欲はなかった。
洋は医者として将来の事を心配していたし、淳は本心から志穂梨を好きになり、彼女の影で例えば病室からトイレに行く道に障害物がないかあるかを確かめて、あると皆片隅に退けていたが、それが原因で看護婦達も困っていた…。
というのは、当然そこにあるはずの椅子がなかったり、カートのような物が違う位置になっていたり、なかったりで慌てて捜す始末だった。
それを見て婦長や主任はこのМ総合病院の院長である松本隆典に何度となくこの事実を話したが淳のしている事も理解できる。淳に言われて自分も実際に目を閉じて何度となく病院の中を歩いてみたが危なかし過ぎてとてもどこにも行けない。トイレにさえ行けない状態である。
点字ブロックはあるのはあるのだが、その上にカートのようなものが置いてあったりして盲人用の杖を持っても慣れてなかったら歩けない。余程勘のいい人でないと一歩も歩けず躓く…。隆典は洋とこの事実を認識した上で淳に、
「確かにお前のしている事は御立派なボランティアなんだが、椅子とかカートは仕方ないにしてもソファまで動かすか?それと女性トイレの前をうろつくな。苦情も来ているし、第一痴漢に間違えられる。まあ、お前の彼女は確かに可愛いし、これ以上傷でもついたら検事の親父さんに何を言われるか解ったもんじゃあないか?ん、ん、違うのか?」
とそこまで聞いた…。確かにその通りだったので頷くしかなかったが、隆典は頭を掻きながらなんとも言えない顔をしていた。洋は親父の顔を見て思わず噴き出しそうになっていたし、彼は親父のお説教を啓き直して聞いていたが『痴漢』という言葉に淳は自分を弁護し始めた。
「痴漢……?この俺が……?まあ確かに女性用トイレの前をうろついていたのは認めますが、志穂梨ちゃんが『うまく入って行けるかなァ』って思って見つけるたびにこっそりと付いて行っただけだよ。それから志穂梨ちゃんが通り易い様に廊下を片付けて、安全な病院にしていたんだから、少しは感謝されてもいいじゃないかと思っているんだけれど、親父から御注意されるとは思ってなかったなァ…」
と言って院長室にあるソファにドカッと座った。そして兄の顔を冷たい目で見上げながら、
「まったく誰が喋ったのか推定はできるが、兄貴も志穂梨ちゃんを見る目の色がこの頃違ってきたぜ。医者として診てないよなァ…、あの目は…。少しは年の差を考えろよなァ…」
と言った。
それを聞いた隆典は初耳だったのか、
「どういう事だ。お前……患者に何をしたんだ」
と動揺して言った。
すると淳が面白がって何も言えない洋を見ながら、
「ただの恋愛感情……みっともなくって言えないよなァ、兄貴。それも赤の他人とかライバルの彼女ならまだしも、実の弟の彼女を横取りするんだからなァ。まったく呆れ返るよなァ……」
と言ったが洋は『その事か……』と思い反論した。
「淳だから言っておくがあの子、お前の事をボロ糞に言っていたよ。『あんなのと結婚するぐらいなら死んだ方がマシだ』と言ってなかったって……あの時の言葉を聞いていたら、お前は当の昔に振られているじゃないのかなァ。あれ俺の聞き間違いかなァ?」
と聞き返して淳の顔を見た。そう言われて見ればそうなので何を言ってもダメだと思った淳は怖い目で洋を睨み付けて院長室を何も言わずに出て行った。しかし隆典にして見れば途中から話が読めなくなって何の事か解らない顔をしていたが、洋もこの場は逃げ切るしかないと思って、
「その事は眼科の主任か看護婦に聞いて下さい」
と言って父親に言う無など言わせない速さで淳に続いて出て行った…。隆典にそう言って出て行った洋が向かったのはやはり田原志穂梨の病室だが、一足先に出て行った淳も志穂梨の病室の前まで行っていた。
だが、そこに入って行けずに『どうしようか』と迷っていたが、ついにドアが開き中から母親の満希子が出て来て、
「じゃあ志穂梨、お母さん一旦家に帰るけど、トイレに行く時は看護婦さんを呼びなさいね。ベッドの所にあるブザーを押して……ここにあるから……」と言う母親に娘は口元だけ微笑みながら、
「はい、はい…お母さん。心配し過ぎると、またどこにも出掛けられなくなっちゃうわよ」
と言ってどこか遠くの音を聞いているようなしぐさをしていた。
淳はすぐ側にあった角の所で身を隠れたが、その時同じ方向から洋もやって来ていた…。一方出掛ける事を今知った洋は、
「お出かけですか?」
と聞いて約束していた犬を2匹連れて来たんだけれどというような顔をしていた。メグとドラえもんだ。2匹とも白い犬だが大人しくまだ訓練中で志穂梨の前まで来ると膝まづいて『お座り』と言わないのに座った。母親は吃驚していたが、やがて犬だとわかるとしゃがみ込んで恐る恐る手で触って撫でてやっていた。
そしてクンクンと犬特有の匂いをかいでいたが、やがて一匹の犬のほうが淳の匂いを嗅ぎ分けて彼がいるはずの方に寄って来た。洋は、『やっぱリ淳がいるな』と思い、
「ちょっと、おいドラえもん、今日のお前の主人はこの俺様なのに、どうしてそっちに行くんだ」
と言って追いかけた。
志穂梨は洋の『俺様』という言葉に面白がって、
「何かの漫画みたいな言葉」
と言って爆笑していたが、母親もその笑いに次がれて
「ほんと」
と言って同じく大笑いしていた。そして洋自身も……。
その間に淳は消えてしまったが、どこに行ったか判らない。ドラえもんに何か言っていたんだろう。いつの間にやら洋のところにドラえもんが帰って来ていた。
母親は美容院に行かなければならないので出掛けが、洋も午後の診察時間なので、
「ああ、また眼科の主任に『先生、またお時間を忘れてデートですか?よろしいですわね~お若い人は…』って嫌味たっぷりにすごい目をして言われそうだ。あの主任に恋愛の美しさを判って堪るかって言いたいと、僕も含めて若い看護婦や医師はいつも言っているんだ。さぁおいで。メグ‼ドラえもん‼」と言いながら笑い、一人になる志穂梨に
「『淳には気をつけるように』と言っても、もう帰っているかもしれないからね。後で帰りに見に来るよ」と言ってドアを閉めて行ってしまうと開放感から『ホッ』として病室に入ると手探りでベッドの位置を確かめて、その上に寝転がっていた。その時ドアのノックに飛び起きて「な~に。犬の首輪か鎖を忘れて行ったの?」と言いながらドアを開けた……。
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