第22話

 日曜日になると、祐二はさっそく約束を破ることにした。


 松本喬一に会いに行こうと決めたのだ。


 出かける前に押入れの奥を探り、埃まみれになった例の原稿入りの封筒を久し振りに取り出した。


 喬一に見せて、いっしょに読んでもらおうと思ったからだ。


 一人では支えきれない重みの文章も、二人で読めば大丈夫だろうと考えたのだ。


 祐二は喬一の個性に傾倒しており、いっしょに読んでもらうなら彼しかいないとずいぶん前から決めていたのだった。


 映画を観に行くという名目で、朝の八時に家を出た。肩から下げたバッグの中に、喬一からの絵葉書と、矢萩玲子の遺稿が入っていた。


 半袖のシャツにリーバイスという軽装で、足元はあの夜と同じ白いバスケットシューズだった。


 しかし、あれは十一月の初冬で、今は初夏だった。


 夏休みも間近な高い空は、水彩絵の具を塗りたくったように真っ青で、さまざまな形をした白い雲が所々気持ちよさそうに漂っている。


 強い日差しがアスファルトに容赦なく照りつけ、舗道の表面はすっかり柔らかくなっていた。


 歩くと、時折うっすらと足跡すら残った。


 喬一の住む街は、祐二のところからもそう遠くはなく、電車で五つ目の駅だった。


 いきなり押しかけて驚かせてやろうという悪戯心から、アポをとらなかった。


 そのせいで、あるいは会えないかもしれないが、それならそれでかまわないと思った。


 とにかく、喬一の驚く顔が見たかった。




 織田祐二は電車を降り、改札口を出たところでひとまず立ち止まった。


 そして、鞄から葉書を取り出し、再度喬一の住所を確かめた。


 地図に類するものは何も書かれていないから、まずはその住所がどのあたりになるかを調べねばならない。


 駅前の街並みには、これといって変わったところもなかった。


 真正面にアーケードのついた古い商店街が軒を連ね、狭いロータリーはバスの発着所になっていた。


 わきにパチンコ屋があり、中から騒音じみた音楽が洩れ出ている。


 どこでも見る、ありふれたたたずまいだ。


 都合のいいことに、眼の前に交番があり、祐二は絵葉書を袋へ戻してロータリーを横切り、真っ直ぐそちらへ歩いて行った。


 ドア越しに覗いてみると、中年の巡査が一人、暇をもてあますかのように大あくびをしている。


 そして、外から見ている祐二の視線に気づくと、きまり悪そうに微笑んだ。


 祐二はドアを開けて中へ入り、松本喬一からの絵葉書をポケットから取り出して巡査に見せた。


 巡査は軽く一瞥しただけで、


「ちょっと待ってくれるかな」と優しく言って、衝立の奥へ姿を消した。


 そして、しばらくすると分厚い住宅地図を持って戻ってきた。


 彼は葉書の住所と、調べたその地図のページをつき合わせ、祐二の方へ開いて見せた。


「ここだね」と、巡査は地図の一点に印をつけて言った。「そんなに遠くないよ」


 地図の上の印がついたその住所と同じブロック内に結構大きな商店街が広がっており、それがさっきロータリーの向こうで見たアーケードつきの古い商店街に違いない。


 中年の巡査は祐二に一通りの道順を教えてから、これでは心もとないだろうと言って、地図のコピーをとってくれた。


 祐二は丁寧に礼を述べ、交番を出た。


 腕時計を見ると、早くも10時になろうとしている。


 強い日差しが執拗にくい込み、首筋がじっとりと汗ばんだ。


 祐二はハンカチでそれを拭いながら、交番で教えられたとおりの道を、地図のコピーを参考にしながら歩いた。


 そこそこ賑わう商店街を通り過ぎ、三分ほど歩くと、喬一のアパートはすんなり見つかった。


 築十年ほどと思われる木造二階建てのアパートで、どの部屋の窓も洗濯物でいっぱいだった。


 閑静な住宅街ではないが、商店街に近いせいで人通りが多く、訪れる者を不審がらせるような暗い雰囲気の建物ではなかった。

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