第20話
松本喬一が退学になってからというもの、祐二はどこか漠然としたむなしさを抱えたまま、平穏なその日暮らしを続けていた。
毎朝決まった時間に起き、決まった時間に学校へ出かけ、決まった時間に学校から帰り、気が向けば勉強をし、乗らない時は部屋で横になって、ゲームをしたり、読書をしたり、テレビを観たりしてすごした。
何をしても心から楽しめず、どこにいても憂鬱だった。
彼は時折喬一を想い、そのたびに彼と同じように何もかも投げ出して未知の世界へ羽ばたいてみたいという衝動にかられたが、実は祐二には学校や家庭を捨ててまで行かねばならないところなどどこにもないのだった。
彼は家族がとても好きだったし、勉強も苦痛になるほど嫌ではない。
祐二は平凡な企業戦士である父親に将来の姿を投影しながら、彼と似たような人生をそれなりに楽しく、それなりにむなしく歩いていくしかないのだと心に決めていた。
三年生になっても、祐二のクラスは持ち上がりで、担任も石毛義春のままだった。
彼を取り巻く環境は何一つ変わらず、喬一からも相変わらず音沙汰なく、彼がどこでどうしているのかいっこうにわからなかった。
そして梅雨のある日、突然矢萩玲子の死を告げられたのだった。
そんな知らせを聞くにふさわしいどしゃ降りの夕方、玲子の姉を名乗る小林亜美という女が、電話で知らせてきた。
「作家の伊集院綾香を御存知でしょう」
聞いたことのない声だった。
第一、自分に電話をかけてくるような物好きな女などまるで心当たりがなかった。
「はい」と、祐二は肯いた。「一度お会いしただけですが」
「私は姉の小林亜美といいます」
「そうなんですか。で、あの人がどうかしましたか?」
「死にました」
「は?」
間抜けな声が出た。
相手の言葉がうまく呑み込めない。
「死んだのです」と、小林亜美は重ねて言った。「自殺です。シャンティミエールのそばの灯台がある岬を御存知でしょう。あの絶壁から海へ飛び込んだの」
どうして、と訊ねかけたが言葉にならなかった。
信じられない話だ。
矢萩玲子とは半年ほど前のあの夜に別れたきり会っていないが、その後も新作を発表していたし、そもそも彼女のような有名人の死が何故世間の話題に上らないのだろう。
祐二の知っている彼女の不満といえば、ただ本心から書きたいものを書けないというだけだったし、そんなことのために他のすべてを捨て去って、あまつさえ生命まで投げ出してしまうなど、とうてい理解できなかった。
「私がこうしてあなたにお電話したのも、彼女からあなたに渡してほしいと頼まれたものがあるからなの」
「いったい何を」
「とにかく、一度お会いできないかしら。詳しいお話はまたその時に。雨の中悪いんだけど、できれば今からでも」
「わかりました」と、祐二は答えた。「どこへ行けばいいですか?」
「市役所のそばのデニーズを御存知ですか」
「はい」
「そこで6時に」
祐二は壁にかかっている時計を見た。
5時23分だった。
市役所までは、徒歩で十五分ほどの距離だ。
時間的には充分に余裕がある。
「わかりました。じゃあ6時に」
「では、その時また」
「さようなら」
祐二はそう言って電話を切った。
40分を少し回る頃、玄関でスニーカーの靴紐を結んでいると、妹がやってきて、
「出かけるの?」と訊いた。
「ちょっとな。母さんに晩メシはいらないって言っといてくれ」
祐二は傘立てから黒いコウモリ傘を一本引っ張り出した。
ドアを開けて外へ出ると、空は厚い雨雲に覆われ、激しい雨が路面を容赦なく叩き続けている。
雨脚は当分弱まりそうになかった。
たちまち出かけるのが億劫になったが、一瞬だった。
矢萩玲子はなぜ死んだのだろう。本当に死んだのだろうか。
次々とわきあがる疑問が胸のうちを席捲していたからだ。
彼には、なお玲子の死が受け容れられなかった。
傘をさして舗道を歩きながら、あの小林亜美という女に担がれているのかもしれないと思った。
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