第19話
松本喬一はたっぷり十分以上校舎を走り回った後、入ってきたのと同じ昇降口から校庭へ出、そのまま校門へ向かった。
出て行く直前、彼は校舎の方を振り返って何か叫んだが、生徒たちにも教師たちにも、そして織田祐二にも何を言ったか聞き取れなかった。
彼はこう叫んだのだった。
「さよなら、子羊たち!」
その日、祐二はすぐ松本喬一に電話をかけた。
なぜあんなことをしたのか理由を確かめたかったからだ。
ケータイは何度ダイヤルしてもつながらないので、仕方なく家の方へかけた。
学校に楯突いたって、何の得もないじゃないかと思った。
母親が出たので、喬一くんはいますかと訊ねると、彼女は暗い声で「留守です」と答えた。
「何時頃お帰りになりますか?」
祐二が重ねて訊くと、今度はムッとしたように黙り込む。
どこか様子がおかしい。
受話器を持ったまま待っていると、やがて彼女は決心したように打ち明けた。
「あの子は、三日前に家を飛び出したきり、帰ってこないんです」
耳を疑った。
しばし絶句したが、やっと何かあったんですかと訊ねた。
喬一の母親は、話すべきか躊躇したようだが、しばらくすると暗い声で語り始めた。
こんな話だった。
三日前の夕刻。
朝から隣町のモトクロス・コースへバイクを走らせに出かけていた喬一は、家に帰るとたまたま会社を休んでいた父親に玄関を入ったところで捕まった。
学校へも行かず毎日のようにオートバイを乗り回しているだけの息子の情けない姿に、堪忍袋の緒が切れたらしい。
喬一はついに来るべき時が来たのを知り、覚悟を決めて、進学の意思がないこと、これ以上の無駄を省くためにも退学したいと考えていることなどを熱心に説明した。
父親は呆れたように絶句してから、とんでもないことだと首を振った。
そして学歴の重要性を力説し、社会の待遇や他のいろいろな面でも大卒者の方が高校中退者よりいかに有利であるかを根気強く説き、とにかく進学しろと命じた。
家庭など顧みたことのない父親にしては、常に似ず長い説教だった。
コースを疾走してきたばかりのせいもあろうが、喬一は彼の言葉を聞くうちにだんだん不愉快になってきた。
父親の説はどれも理に適っているのだが、喬一には最も大切な点が抜け落ちている気がしてならない。
マシンに跨ってコースを突っ走る時に感じるあの風と一体になるような感覚、全身を駆け巡る充実感が父親の説教からはまるで感じられないのだ。
父親は言葉を機銃のように連射し、そのたびにいっそう塞ぎ込んでいった。
まるで、自分の言葉に腹を立てているようだ。
そのうち、彼はついに息子を叱りつけるだけでは満足できなくなり、キッチンで夕食の支度をしていた妻まで呼んで、こいつがこんな風になってしまったのはおまえの躾がなってないからだと文句を言った。
エプロンを外し、リビングへ歩いてきた妻はたちまち不機嫌な顔になって、自分のことを棚に上げて私ばかり責めないでよ、と反駁した。
いつものことだ。
喬一の両親は、息子の存在など眼中にないかのように、彼とは全然無関係な二人の間の問題で互いの欠点を指摘し、責め合った。
喬一はうんざりした。
こんな暮らしはたくさんだと心底思った。
「うっせーな」
「何だと」
父親が目を剥いた。
「うっせーんだよ」
「喬一!」と、父親は椅子を蹴って立ち上がり、大きな動作で喬一めがけて右腕を振った。
スッとよけたら、バランスを失った父親はテーブルに腹をついた。
喬一は立ち上がった。
「待てっ!」という父の怒鳴り声にも耳を貸さず、彼はリビングを出た。
しかし、部屋へ上がる階段の下で捕まった。
無理矢理襟首をつかまれ、四発殴られた。
振り切って階段を駆け上がり、部屋へ飛び込み、内側から鍵をかけた。
「開けんか、バカ者っ!」
叫んでドアを叩く父親を無視し、喬一は大きなカンヴァス地のバッグに荷物をまとめた。
バッグはすぐいっぱいになった。
父親が階下へ降りるのを待って部屋のドアを開け、重いバッグを担いで足音を立てないよう階段を下りた。
玄関で白いスニーカーを履いて家を出ると、外はもう真っ暗だった。
喬一はガレージでXR250にバッグをくくりつけ、押して出た。
そして、家からだいぶ離れてからエンジンをかけ、ヘルメットとゴーグルをつけて走り去った。
「あの子がどこでどうしているのか、私たちにもまるでわからないの」と、松本喬一の母親は暗い声で告げた。
「そうですか。どうも」
祐二はケータイを閉じた。
彼はいまや喬一の家族が完全にバラバラになってしまったのを知り、彼をつなぎとめていたあらゆる絆がことごとく断ち切られてしまったことを理解した。
今の喬一は波間を漂う木の葉か、風に押し流される風船みたいなものだと思った。
四日後、松本喬一は拍子抜けするほどあっさりと退学処分になった。
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