第15話
ジュースが来た。
「そういえば」と、乾杯してから伊集院綾香は言った。「まだ、あなたの名前も聞いていなかったわ」
あなたという彼女の言い方が、祐二にはとても心地よく響いた。
ちゃんと一人前の紳士として扱われているような気がして嬉しかった。
「織田祐二」
「凄いわ。俳優みたいな名前ね」
彼女は笑った。
「字が違うよ」と、祐二は答えた。「おれのはしめすへんに右だからね」
「織田祐二。祐二くんか」
彼女はほっそりした人差し指で、その名を何度かテーブルに書きつけた。
背筋がぞくぞくする。
「ねえ、祐二くん」
唐突に、彼女はうっとりした視線を祐二に向けた。
「その服、とっても素敵よ」
「お世辞はいいよ」と、祐二は苦笑した。「野暮な格好だってわかってる。こんな店に来ると知ってたら、別の服を着てきたよ」
「お世辞なんかじゃないわ」
伊集院綾香は真顔になった。
「なんていうか、とてもあなたらしい気がする。学生服よりずっと似合ってるわ」
「ありがとう」
さっきの給仕がやってきて、料理の注文をとった。
二人は主に生牡蠣や海老など魚介類の料理を頼んだが、伊集院綾香は祐二のために特
別にバターで蒸したムール貝を鍋にいっぱい注文した。
「ところで」と、祐二は彼が店内へ戻って行くと、伊集院綾香に訊ねた。「店に来た時、あの人はキミを矢萩さんと呼んでたね」
「あれが本名なのよ。矢萩玲子っていうの」
「素敵な名前だ。そんないい名前があるのに、何で伊集院綾香なんてAV女優みたいな名前で書いてるの?本名の方がずっといいよ」
「私もそう思うわ」と、矢萩玲子は肯いた。
「じゃあ、どうして?」
「あなたは自分の中に二人の違う人間が住んでいると感じたことはない?」
「考えたこともないな」
「私はあるわ。太陽みたいな中心になる自分が心の奥にいて、その周りをもう一人の自分が惑星のように巡っているの。以前何も書けなくなったことがあって、その時に気づいたのよ。太陽が何か書こうとすると、惑星は決まってその考えを嘲りながら回りだしたわ。『くだらないね』『無駄よ、おやめなさい』ってね。するとたちまち書けなくなってしまった。それで考えたの。いっそぐるぐる回っている自分に何か書かせてみたらどうかしらって。とたんに私の小説は嘘みたいに売れ出したわ。でも、それは太陽が書かせたものじゃなかった。わかるでしょ。矢萩玲子が書いたものではなかったのよ。私はそれらを書いた自分に対し、ふさわしい名前をつけなければならなかった……」
「で、ついた名前が伊集院綾香ってわけか」
「そう」
料理が運ばれてくると、玲子はまず生牡蠣をとり、祐二は蒸した伊勢海老をばらしてかじった。
「図書館で私の小説をつまらないと言ったでしょ」
「うん」
「あの時に、あなたとは話が合うんじゃないかと思ったの」
「どうだった?」
「その通りだったわ」と、彼女は微笑んだ。
二人は2時間近くかけてゆっくり食事を堪能し、それから店を出て砂浜の方へ下って行った。
(こんな素敵な夜は初めてだ)と、祐二は思った。
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