雪を溶く熱
雪の音を聞いたことがあるかと秋人は尋ねた。
雪に音などないでしょうと美冬は答えた。
しんしんと音のない夜。やけに静かだなと戸外を覗くと大抵雪が降っている。だから雪に音などない。
音がするとすればそう、雪の上を歩く時。雪を踏みしめる時の音。さくさく、ざくざく、きゅっきゅ、ぎゅっぎゅ。その時々の天気、履いている靴、持っている荷物の重さなどでもその音は変わる。
美冬がそう話すと、秋人はなるほど、と微笑んだ。雪を踏む音がしたから庭に顔を出してくれたのかいと。そうだと美冬が答えると、秋人は申し訳なさそうに目を伏せた。外からそっとお別れを告げ会わずに立ち去るつもりだったのに、と。
どうしてそんな薄情なことを。責め立てそうになり美冬はぐっとくちびるを噛んだ。
この優しい幼馴染にそんな決断をさせたのは自分。薄情なのは自分。今は動くこともやっとの彼が、こうして訪ねて来てくれた。感謝こそすれ責める理由があるだろうか。
でも君、わたしのことが気持ち悪いのじゃないのかい。子どもの頃に癇癪で口走った言葉を気にして、招き入れようとする美冬の手を拒む彼の表情に胸が軋んだ。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。気持ち悪くなんかない。氷のような彼の身体を抱きしめながら美冬は涙を流した。
どうしてもっと早く自分から彼を訪ねなかったのだろう。誤解を解いて、美冬が彼の力になっていたのならこんな事態にならなかったのかもしれないのに。
美冬の涙が彼の衣服を濡らすと、秋人はびくりとやせ細った肩を跳ね上げた。熱いよ、君の涙はとても熱い。
ごめんなさい、としゃくりあげる美冬の濡れた頬を指先でなぞり、秋人は微笑んだ。君の熱に溶けて消え去るのなら、その方がずっといいのに。
わたしは雪解けの音が好きなんだ。ぱきぱきと凍った木の枝から氷が剥がれ落ち、ぽたぽたと雫が落ちてくる。春が来る。また君に会えるって。
こっそりいつも君を見ていたよ。どんどん綺麗になっていく君にうっとりして、嬉しくて、君がいつか誰かのものになっても見守ろう、いつか子どもが生まれたならその子のことも見守ろう。
そうして君の末の末まで見守っていこうと思っていたのに。ごめんね、わたしは弱くて本当にごめん。
それは秋人のせいではないのに。秋人にはどうにもならないことなのに。なのに無理をして、どうしてこうして美冬を訪ねてくれたのか。
ごめんね。ごめんなさい。互いに謝罪の言葉を繰り返しながら何度も何度も確かめ合った。
彼に分け与えた熱を返る残滓で受け止めきった後、美冬はまた涙をこぼした。
ここに居ることがばれないうちに戻らなければ。身を起こした秋人を切なく見つめながら、最後の余韻すら剝ぎ取られ美冬は肌を震わせた。何か言わなくちゃ、そう思うのに、あまりの気怠さに頭を上げることもできない。
ごめんね。雨戸の隙間からまたそう微笑んで秋人は去っていった。
その隙間から漏れ入るのが星明りから朝日に代わる頃、戸外が賑やかになった。村に厄災をもたらしていた大蛇を退治した、と。これで安心だ、と。
凍り付いていくからだとは反対に燃えていく血潮を感じながら、美冬は静かに涙を流した。
美冬が誰とも知らぬ者の子どもを身ごもり大騒ぎになってから、十月十日ははるか十八か月を過ぎても子が生まれる気配はない。村人たちは顔色を変えて何の怪異かとざわめき始めた。
馬鹿な人たち。彼は何も悪くなかったのに。ただ見守ってくれていただけなのに。くだらない信仰を持ち込んで彼の力を削いでしまったのはあなたたちなのに、知りもしないで秋人を滅ぼした。許さない。絶対に許さない。絶対にこの子は無事に産んでみせる。
思慕は後悔に、悔恨は憎悪に、慈愛は妄執に。膨れた腹を撫でながら、美冬はただ子どもの誕生を願う。
村人たちの緊張と不安が頂点に達し、武器になるものを手に彼らが美冬を取り囲んだ時、美冬はただ嫣然と微笑んだ。
あの人のこともこうやって追い詰めたのね。弱った者の姿をこんな風にさらして追い詰めて、楽しいの? 何が怖いっていうの? いったい誰の子かって。もう分かっているでしょう。人間の子どもなわけないじゃない。思い知ればいい。あの人だって、きっと生きていたかったのに!
雪解けを迎え福寿草の花びらが鮮やかな黄色を覗かせている雪上に、鮮血がほとばしった。美冬の腹が割れ、赤い双眸が煌めく。
邪眼に見据えられ石のように固まる村人たちの前で、母体の腹を食い破って生まれ出た白い大蛇は天空に舞い上がり、かつて父蛇が棲んでいた山へと姿を消した。
その日から程なく、荒れ狂う白蛇の脅威にさらされ続けた村は壊滅。生き残った者たちは散り散りになって逃げていき、福寿草が咲く寒村に住まう者はいなくなった。
人の腹から生まれた白い大蛇は、やがて旅の行者に調伏されたと伝えられている――。
* * *
「ふーん。なるほどなるほど。おめでたいはずの福寿草が咲き乱れる村で起こった悲劇。皮肉なものですねえ」
「もう夏で福寿草は咲いてないがな」
「ええ、はい。残念です。見てみたかったですね。惨劇の現場に咲く雪割の福寿草」
さして残念でもなさそうな口調で趣味の悪いことを言う女性観光客に、男は口元を歪める。
「二代の大蛇と美冬の鎮魂のために建てられた祠があれ」
「なるほどなるほど」
申し訳程度に祠に近寄ってじろじろ眺めていた女は、でもあれですね、と案内役の男を振り返った。
「その秋人サンは、お別れを告げに、というより子種を残しに美冬サンの元を訪れたふうにも考えられませんか」
「は?」
「神力を持つ大蛇さんとはいえ、雄なら雌に自分の子どもを産んでもらわなきゃならないのですねえ。おもしろーい。あれ、蛇が産むのは卵でしたっけ? 卵で産めたなら美冬サンも無事だったでしょうに。御愁傷様です」
祠に向かって手を合わせる女を、男はぽかんと見下ろす。なんなんだ、この女は。
「その点、秋人サンが雌なら話は簡単だったかもしれないですよね。適当な男性とまぐわって精子をもらって代を繋げばよかったんだから」
「あんた、すごいこと言うんだな」
「そうですか?」
けろっと男を振り返り、女はその太い腕に白い手をのばした。
「本能ですよ、当然の」
男の腕に抱き着いて笑う。よく見ればキレイな女だ。スレンダーな腰つきなのにみっちりした肉の感触を服の上から感じる。シャツの襟元から覗く首筋も白くて艶めかしい。
「そうだな。当然だな」
好き者の顔つきになって笑いかける男を見上げる女の双眸が、一瞬赤く煌めいた。
筆致は物語を超えるか【雪を溶く熱】 https://kakuyomu.jp/user_events/1177354054897933479
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