明日の黒板
「午後、夏男くんに呼び出されたんだ」
国語科準備室で仕事をする俺の脇で、卒業証書が入った筒を握り締めた春子がぼそぼそ言っている。
「なんの用だろう?」
知るか。女って奴は分かり切ってることを、そらぞらしくとぼけやがる。まだ乳臭いガキでもそれは同じらしい。
「告白でもされるんじゃないか?」
めんどくさくてお望みどおり言ってやる。ここで「どうしよう?」とか結婚を急かすために追い詰める女みたいなことを春子が返してきたら、俺は間違いなく切れると思う。大人げなくたって構わない。こいつはついさっき卒業したんだ。もう俺の生徒じゃない。
「断るよ」
春子は予想に反してきっぱり告げた。
「私は先生が好きだもの」
俺は鼻白んで日誌を書く手を止めずに顔を上げないようにするのに苦労した。言うじゃないか。
「それに……」
海外に行くからか。そっちの方が断る理由としてウェイトが高いんじゃないか? と俺は意地悪く考える。
分かりやすく好意を表に出してくる夏男のことを、春子だって憎からず思っていたはずだ。もし夏男がぐずぐずせずに春子を口説いていたならとっくに靡いていたはずだ。ガキの恋愛なんかそんなもんだ。
「先生」
相変わらず俺の脇に佇んだまま、春子は呼びかけて来る。
「また会えるよね?」
ばーか。一卒業生のことを教師がいちいち覚えてるわけないだろう。四月にはまたぴーちくぱーちくうるさいガキどもを迎え入れなきゃならないんだ。そっちで手一杯なんだよ。教師の手は、いつでも新しい生徒のために空けておかなきゃならないんだ。女子生徒ひとりを特別扱いするわけないだろうが。
「昼飯食いに行くからもう出てけ」
そっけなく言い捨てると、春子が息を呑む気配。
「……はい。先生、さよなら」
声が震えていたのは、俺の気のせいだと思いたい。生徒との別れとして、俺もほんの少しは感傷的になっているんだ。
「…………」
春子が出て行ってから俺はようやく頭を上げる。自分でもよく分からないおかしな溜息が漏れた。
呼び出された時刻を聞いていたわけではないから、その場に居合わせてしまったことはただの偶然だ。断じて偶然である。
ふたりだけの教室で夏男が春子に恋心を告げている。春子は、海外に行くからごめんなさいと返事をしている。
やっぱりだな、春子。おまえも狡い女だよ。夏男に本心――俺を好きだといった言葉が本気だとして――を言わないのは、あわよくばずっと想っていてもらいたいっていう心の表れなんじゃないのか?
『離れてもずっと先生が好き』
そう言っていたおまえも、向こうへ行ってそれなりの好男子にアプローチされれば簡単に心変わりするに決まってる。女ってものは遠くの最愛の男より、身近で支えてくれる男を選ぶもんなんだ。俺は経験でそれを知っている。
しばらく春子に何やら言い募っていた夏男は、やがて顔を歪めて教室を飛び出した。俺は隣の教室の扉の陰から、走り去る夏男の足音を聞いていた。純情だなあ。良い奴なんだ、夏男は。
その後、春子の軽い足音も遠ざかって行く。俺は視線を向けたいのを堪えて、やっぱりただその足音だけを見送った。
翌日の朝出勤し、私物の片付けに教室に行った俺は、その書き込みを見つけてしまった。昨日の夜から朝方にかけて、忍び込んだバカがいたらしい。
『あきらめない!!』
大きく書かれたその一言に、普通の精神状態ならば俺は笑っていただろう。青いなあ、良いなあ、くらいには思ったことだろう。
だけどその時の俺が感じたのは、夏男のまっすぐな青さに対する怒りのようなもの、だった。カッとなって咄嗟に黒板消しを手に取ってしまったほどだ。
でもなあ、夏男だって俺の生徒だったんだ。かわいい俺の生徒だったんだ。
『先生のことが好きなんです』
春子だってそうだ。かわいい生徒に純真な瞳で告げられて気持ちが浮き立たないわけはない。冗談かそうじゃないかくらいは分かる。そして教師だって男だ。男は単純なんだ。気にならないわけがない。
春子は良い子だ。そんな春子を一途に想う夏男も良い奴だ。普通だったらふたりが上手くいけばいいと思ったことだろう。
だけど俺は思ってしまったんだ。高校時代に春子に出会えていたら。俺はきっと夏男みたいに好意を示すことができただろう。こんなに捩じれてしまう前の俺ならば。
はあっと、また俺は自分でもよく分からない溜息を吐き出してチョークを持った。
『見返してみやがれ』
愛とか恋とか青臭いことを言うのなら、それなりの男になってみやがれ。覚悟があるなら応援してやる。そんな気持ちだった。
昼飯をコンビニで買って戻って来ると、校門を入ったところで校舎の上空を横切って行く飛行機を見かけた。上空は冷えているのか、エンジン音がやけに響いて聞こえるし、飛行機雲もくっきりしている。春子も今頃空の上、だろうか。
他の教師がいる場所には行く気になれなくて、また教室に足をむける。すると。
「……」
今度は自然とふき出してしまった。
なんだ夏男の奴。またここに来たのか、ヒマなのか。もしかしたら夏男もさっきの飛行機を見ていたりしたのだろうか。
『今に見てろよ!』
ヤンキーの捨て台詞か。笑って俺は適当な机にレジ袋を置き、黒板に歩み寄って丁寧にそのメッセージたちを消し始めた。
※自主企画「筆致は物語を超えるか【明日の黒板】」参加作品です。
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