自主企画
今日もまた
自宅を目の前にして気が付いた。今日はいつもより格段に帰りが早い。会社を出る前にラインなり電話なりしておくべきだった。
そうは言っても愛する我が家はもう眼の前だ。アキオは頭を掻きながら玄関のベルを鳴らす。
いつもだったらすぐに扉が開くのに今日は少し待たされた。そうっとドアが開いて妻が顔を覗かせる。
「おかえりなさい。早かったね」
「ごめんね、連絡すれば良かった」
ミカは首を横に振ってアキオを迎え入れる。
「お夕飯の準備がまだなの。先にお風呂にする?」
「それなら何か軽いものでかまわないよ。そんなにお腹すいてないから」
「そう? じゃあ少し待ってね」
パタパタとミカは台所に駆け込んでいく。微笑んだ妻の表情にアキオは安堵する。よかった、今日は顔色もいい。
緊張が解けて仕事の疲れもどっと出てくる。情けない、愛する妻の元に帰るのに一日でいちばん気を遣うだなんて。
ワイシャツのボタンをいくつかはずしながらリビングに入ってテーブルにつく。そこにはまっさらな便箋が何枚か用意されていた。
「手紙?」
「ああ、うん……」
カチャカチャと食器の音の合間にミカの声が聞こえてくる。
「自分にね、書いてみようと思って」
一瞬アキオは言葉に詰まる。
「うん……いいんじゃないかな。心の整理になるっていうもんな」
「そうなの」
そうだ、なんだっていい。彼女が前向きな気持ちになっているのなら。
アキオは自分も気持ちを楽にしようと言ってみる。
「俺も書いてみようかな」
「まあ、ふふふ……」
お盆に白米とだし汁といろいろな薬味を乗せて、ミカは食卓に持ってきた。
「残り物ばかりでごめんなさい。お好みで好きに食べてみて」
「はは、好きだよね。こういうの」
「おもしろいでしょう」
「うん。さて、どうしようかな」
ひじきは箸休めにすることにして、アジのひらきのほぐし身や揚げ玉をご飯の上に乗せる。ミカが熱いだし汁を注いでくれる。外は暑くても、冷房が効いた室内で汗の引いた体にアツアツの食べ物が身に染みた。
「おいしい」
「よかった」
にこにこと微笑む妻の笑顔が心に染みて、アキオは幸せだと思う。そう、今のままで十分自分は幸せなのだ。
満ち足りた笑顔でお代わりをねだる夫に二杯目のご飯をよそって来てから、ミカはそっと便箋を片付ける。
自分への手紙だなんて嘘だ。本当は、今日こそこの家を出て行こうと思い、置手紙を書こうとしていたところだった。そこに彼が帰ってきてしまった。
優しい人。夫に対して不満などない。真面目に仕事をこなし、こうして毎日まっすぐ真面目に帰ってきてくれる。
ほんの二週間前、待望の第一子をミカが早期流産した時も、彼はまっすぐ真面目に慰め励ましてくれた。
大丈夫、子供はまた授かるから。これは自分たち夫婦に与えられた試練なのだと。一緒に乗り越えようと。
けれど自分はうまく気持ちを切り替えられなくて、自分を責めて泣いてばかりで、彼をたくさんたくさん困らせた。彼の顔を見るのが苦痛と思えるほどに。
もう出て行こうと思って荷物をまとめたとき、とても気持ちが穏やかになった。出ていくだけならいつでもできる。もう少し頑張ってみよう。優しい夫のために。
そう思って一日一日を乗り越えてきた。荷物をまとめた鞄は今も小屋裏にそのまま置いてある。産まれてくる子供のために買い集めたおもちゃや肌着の隣に。
今日もまたこうして一日を乗り切れた。お茶漬けをかきこむ夫をミカは愛しい思いで見つめる。
ありがとう、早く帰ってきてくれて。
弱い自分はまた逃げ出したくなってしまうだろうけれど、あなたがいれば、こうしてきっと乗り越えていける。
ありがとう、ありがとう。
こうして幸せな一日がまた終わる。明日も幸せでありますように。
※「夏だよ 一つのプロットで文体見せ合いっこ!」に参加しました。
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