琴葉の懸念通り、宗太は蝉を殴り、琴葉を引き留めに来た。琴葉の落籍が決まったその日の午後だった。

 表の戸を破壊せんばかりの勢いで開けた宗太は、小脇にぐったりした蝉を抱えていた。蝉の右の頬は赤く腫れていて、唇からは血が細く顎まで伝っていた。

 驚いたのはマリたち売春婦たちである。

 「なに、どうしたの!?」

 半ば悲鳴のように問うたのは、宗太の手持ちの娼婦の中で一番年かさの女だった。彼女はおそらく、蝉がどこかで誰かに暴行され、それを宗太が助けて長屋にまで連れて来たのだと思い込んでいた。それは、わらわらと部屋から出てきたその他の娼婦たちも同様に。

派手なパーマネントのその娼婦に、宗太は蝉を押し付けた。女は蝉の体重を支えきれずにたたらを踏み、しりもちをついた。

 マリは唖然としてその光景を眺めていたのだが、宗太がのしのしと大股で向かう先が琴葉の部屋だと気が付き、咄嗟に後を追っていた。

 「琴葉!」

 宗太の声は腹の奥にまで響く激しい怒声だった。

 琴葉は鏡台の前に座り、見えない目を宗太に向けていた。こうなるのは分かっていたとでも言いたげな、静かな表情をしていた。

 マリは宗太に続いて琴葉の部屋に飛び込み、後ろ手に襖を閉め、やじ馬の視線を阻んだ。

 「琴葉、お前、嫁に行く気か!?」

 またしても、激しい怒声。

 しかし琴葉はまるで動じなかった。

 「お嫁にではなくて、お妾にですけれど。」

 彼女の痩せて色あせたような肩を、宗太が抱いた。全身で琴葉を抑え込むように、強く強く抱きしめたのだ。

 マリは襖に手をかけたまま、事の成り行きを呆然と見守っていた。

 「行くな。」

 宗太の要求は単純だった。ただ、その一言を、絞り出すみたいに。

 そして琴葉の答えは、静かに流れる笹舟のように清かだった。

 「行きます。」

 どうして、と、宗太が呻いた。

 どうしても、と、琴葉が答えた。

 「お兄ちゃん。私、お兄ちゃんの側から離れてやっていきたい。」

 「琴葉。そんなことをする必要なんてないだろう。」

 「あるの。私には、あるの。」

 そして琴葉は全身の力を使って、しがみつく男を身から引きはがした。

 「一緒にいすぎたわ。分かって。」

 それが琴葉が宗太にかけた最後の台詞だった。彼女は長い黒髪を翻し、静かに長屋を出て行った。マリは、畳に突っ伏すような形で固まっている宗太を、怯えたように眺めていた。

 私がいるじゃない。嫁にも妾にもいかず、ここにいるじゃない。

 そんな台詞を口にするには、宗太の背中から立ち上る絶望が深すぎた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る