「たとえば一人の傷痍軍人がいる。怪我がもとで下半身は役に立たない男だ。その男が恋に落ちる。うつくしいお女郎さんとだ。男はお女郎さんを愛しているけれど、抱くことはできない。お女郎さんも男を愛しているけれど、二人分の食い扶持を稼ぐために見知らぬ男に抱かれねばならない。」

 男の酷く指が長い両手は、力強く動いて空中に幾つのも形を生み出す。

 マリは男の言葉よりはむしろ、その手に見入っていた。その手を見ていると、ああ、この人は生きていて、私に向かって語りかけてくれているのだ、と強く実感ができた。

 「やがて暮らしに耐えきれなくなったお女郎さんは自殺を図る。気が付いた傷痍軍人は、お女郎さんを殺して自分も死ぬんだ。そういうのが、極北の愛だよ。分かるかい。」

 問われたマリは、曖昧に首を傾げた。

 「身体の関係があると、極北の愛にはならないってことですか。」

 問い返すと、男は嬉しそうに顔を輝かせた後、ふいに顔を曇らせた。そしてその次には、ごくやわらかく微笑をした。

 よく表情を変える人、と、マリは思う。スラム街に住む大人たちは、誰もが疲れ切り絶望しきり、灰色の顔に灰色の目をしているだけだから、マリにとって男のくるくると変わる表情は物珍しかったのだ。

 「どうだろうね。僕の想像力が陳腐だから、そう考えているだけかもしれないね。」

 そう答えた男は、マリの肩に手を伸ばし、引き寄せた。

 「試してみようか。」

 引き寄せられるままに男の峰に身を預けたマリは、身体を硬くしたまま辛うじて笑った。

 「極北の愛を?」

 うん、と、男が頷く。冗談を言っている口調ではなかった。

 そして男はマリを抱いた。

 「怖がらなくてもいいよ。大したことではないんだ。ただ、そうだね、目を閉じてじっとしていればいいよ。はじめのうちはそれで、お客の方もうぶな子を抱いたって満足する。」

 するすると、男の器用で表情豊かな指が、マリの借り物のワンピースを脱がせていく。

 「しばらくしたら、自然となにをしたらいいかは分かって来るよ。もともと誰に教わるわけでもない行為なんだから、当たり前だ。そうだろう?」

 男に組み敷かれながら、マリはその胸に額を埋めるように頷いた。

 「困ったことがあれば蝉に訊けばいいし、他の女の子たちがどうやっているのか知りたければ、私が教えてあげるから。」

 だから安心していいんだよ。

 男の声を聞きながら、マリはぎゅっと強く目を閉じていた。


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