19.零番目の記憶
虹を、見た。
***
何かが壊される音を聞いた。
久しぶりに、目を開く。
「なんだ!?」
建物全体が揺れて、パラパラと砂埃が落ちてくる。
とても長い時間をここで
周りも何が起こっているのか分かっていないようで、ただ、慌てていた。
断続的に響いてくるその轟音はゆっくりと近づいて来ていた。
何かが、起ころうとしている。
耳を
瞬間、鉄の扉が紙のように切り裂かれて、誰かがこの部屋に侵入してくる。
「クソがッ! 何者だキサマァッ!!」
赤い髪の女が叫んだ。
相手の姿が土煙でよく見えないが、体格からして男だということだけは分かった。
「やれっ! 決して0番に傷を付けるなッ!」
白い男たちが妙な武器を手に持ち、侵入者に向かって武器の先を向ける。
だが、白い男たちよりも早く、侵入者は剣の一閃を振るった。
「──!」
瞬きの間に、剣閃に沿った人体は、消えていった。
比喩でもなんでもなく、跡形もなく、どこかに消えた。
まるで、最初からその場にいなかったかのようだった。
先ほどまでの慌ただしさから一変、静寂が場を支配する。
そして、唯一残っていた赤い髪の女が前に出た。
「……貴様、
「──」
女が問い詰めたが、侵入者は何も答えない。
「はン! 余裕決め込んでるところ悪いが、残念だったなァ! 私も同じ
そう叫ぶと同時に赤い髪の女が炎に包まれた。
火柱が立ち上り、辺り一面が真っ赤に染まる。
熱で視界がぐにゃりと歪んでいく。
やがて炎が人の形を取り、悪魔のような怪物が現れた。
これが、あの赤い髪の女の正体なのか。
なんて地獄にふさわしい姿なんだ。……現実感のない光景を見ながら、そう思った。
「お前がどの
侵入者が剣を振るって、それで終わった。
あっけないほどの幕切れだった。
さっきと全く同じだ。
剣閃に吸い込まれるように炎の悪魔は消えて、静寂だけが残った。
「ぁ……」
磔られた身体を無理やり起こして、その姿を目に移す。
見窄らしい、黒い外套を着た男だった。
黒髪、黒い瞳。
顔の下半分を覆う布切れのせいで、表情は窺えないが、その目からは、強い意思を感じる。
手に持っていたのは、何の変哲もなさそうな、鉄の剣。
あれで、分厚い鉄の壁を切り裂いたり、敵を一片も残さず消したりできるものなのか。
そして、男が近づいてくる。
──よかった。これでもう終わる。
目を瞑る。
俺も同じように消される。
やっと、地獄から解放される。
足音が近づいてくる。
早く来てほしい。
この心臓目掛けて、致命的な一撃を振り下ろしてほしい。
早く、早く、終わらせてほしい。
「──もう大丈夫だ」
「……え?」
ふと、そんな声が聞こえてきた。
何故かひどく安心する優しい声音だった。
目を開けて、その人を間近で、見た。
「痛むところはないか?」
その人は、俺に付けられていた管やベルトを手当たり次第に剣で壊していた。
やがて固定が解かれて、ふらついた俺を、その人は抱きとめてくれた。
何を、しているんだ。
早く俺を──、
「少し伏せててくれ」
「っ!?」
直後、振るわれた剣閃が頭上を通過して、天井にぶち当たった。
同時に何かが崩れ落ちるような大きな音がして、パラパラと細かい砂埃が落ちてくる。
「ここは空気が悪い。さっさとここから出よう」
「え……? え……!?」
「オジサンにしっかり掴まっててくれ!」
自分の事をオジサンと呼ぶその人に手を取られ、思い切り引っ張られる。
そして──、
「わ、ああぁっ!?」
「舌を噛むぞー! 気を付けてなー」
空を、飛んでいた──!
俺を抱えた男が、驚くべき跳躍力で、建物の天井に空いた穴を飛び越えてしまった。
──外に、出た。
目を、見開いた。
広い青空。眩しい陽光。澄んだ空気。心地よい風の感触。
……何年ぶりの外の景色なのだろう。
何もかも忘れていたもの。
あの地獄の中では見られなかったもの。
「っ!」
そして、何よりも、目を引かれたのは──空に架かる、七彩の弧線。
虹だ。
七色に輝く、
あの地獄の中で、血の赤黒しか映すことのなかった視覚が、七彩の光を浴びる。
色彩で目が焼かれてしまうのではないかという程に、暴力的で、鮮烈だった。
「着地するぞー」
「!」
慣性に従って、勢いよく地面に落ちていく。
俺は必死で背中に掴まって、振り落とされないように耐え忍ぶ。
「よ、っと!」
予想していた衝撃よりもずいぶんと軽いそれが収まり、危なげなく着地に成功した。
思わず、息をついてしまう。
「よし、ここならゆっくり話ができるな」
男の言葉に返事ができない。
言葉を忘れてしまったように、喉から声が出なかった。
とん、と地面に下ろされて、久しぶりに自分の力で地面に立った。
脚にあまり力が入らず、ふら付いてしまう。
とても普通なことなのに、ひどく不思議な感覚だった。
「大丈夫か? まだどこか痛むか?」
そんな呆けた俺を心配したのか、男が問いかけてきたけど、上手く応えられない。
ただ、震えながら小さく首を横に振るだけしかできなかった。
……体はもうずっと痛み続けているのだから、痛いと答えたところでどうにもならない。
「いつからあそこにいた? ……ずっと捕まっていたのか?」
首を縦に振った。
どれくらいあそこに閉じ込められていたのか、日にちも時間も確認する術が無かったので分からない。
ずっと、ずっと、あの地獄の中にいた。
「そうか……。ごめんな、すぐに助けてあげられなくて」
そう言われて、この人は俺を助けてくれたのだと、やっと気付いた。
不意に目頭が熱くなる。涙なんてとっくに出尽くしたと思っていたのに。
一度ひくりと感情が揺れてしまうと、もう、嗚咽が止まらくなってしまった。
「オジサンを恨んでくれていい。何かのせいにしないと、辛い時もある」
俺の手を取り、祈るように胸に抱えてくれた。
この人は、どうしてそこまで言ってくれるのだろう。
何の責任もないし、何の関係もないのに。
……まるで、おとぎ話に出てくる英雄のような人だと思った。
悪を斬り、弱者を助け出し、正義を貫く。
そんな物語が、昔好きだったことを、ふと思いだした。
触れた手から、暖かな人の熱を感じる。
それは、ひどく懐かしかった。
***
「竜の心臓に、肉体を竜として変えられてしまった人々か……」
いつの間にか、夜になっていた。
月の無い夜。闇の龍が支配する夜。
辺りを照らすのは焚火の灯だけ。
火がちりちりと音を立てる以外は何も聞こえない静寂があった。
あの後、俺とオジサンはお互いの知っていることについて話し合った。
俺は……あの地獄を思い出すだけでも、体が震えて、頭痛がして、吐き気が込み上げてくるほどだったけれど、ここであったことが自分以外の誰も知らないまま終わってしまうのは嫌だ、という気持ちがあった。
これが怒りなのか、悔しいのか、悲しいのか、どういう感情なのか自分でもよく分からない。
ただ、あの場所での出来事を、自分の口から吐き出してしまいたかった。
「君の身体を治すのは恐らく帝国にしかできないだろう。もしかしたら不可逆の類のものかもしれない」
そこについては、もうどうでもいい。
そもそもこの身体が元に戻せるものだとは思ってない。
実験として弄られたものなのだから、元に戻すことなんて考えてないだろう。
「帝国の技術はこの
未来の技術……。そう言われてもピンと来ない。
俺の身体に入れられた竜の心臓は、それほどまでに凄い技術によるものなのだろうか。
もう、どうでもいいことだけど。
「知っているか? この帝国の地は、わずか10年程前までは鍛冶技術で有名な小さな国だったんだ。そこから何かがあり、未来の技術を手にし、この
この人は、遠く離れたリュグネシア王国からやってきた冒険者だと名乗っていた。
単独でこの帝国に侵入して、帝国に関する調査をしているらしい。
「……帝国軍は人の心を忘れてしまったのか、絶句してしまうほどの所業を平然と行ってしまっている。あの地獄絵図をまるで当然かのように、簡単に作り出してしまう」
苦々しげな表情で零した言葉には、深い憤りを感じられた。
あの中で起こっていた地獄と似たような光景を、何度も見てきたのだろう。
「……よし、できた。食べてくれ。お腹が空いているだろう」
そう言ってオジサンは、焚火に掛けていた鍋からよそったスープを俺に差し出してくれた。
正直言って、お腹は空いていなかった。
多分俺は食事を取らなくても生きれるような状態になっているんだと思う。
けれど、せっかく作ってくれたものなので、食べないという選択肢はない。
受け取って、湯気が立つそれを掬い、口に含んだ。
「……」
──やっぱり、味がしない。
熱いのかも冷たいのかも曖昧だ。
あの地獄の中で、俺の身体は取り返しの付かないほどに壊れてしまっていた。
ふと視線を感じて、オジサンの方を振り返ると、悲痛な顔をしていた。
せっかく作ってくれたものなのに、悪いことをしてしまったなと感じてしまう。
「美味しい、です。ありがとうございます」
何の味もしないそれを一息に平らげて、礼を言った。
目の前にいるオジサンは「そうか……」と小さく呟くだけだった。
それから、俺もオジサンも何も言わなかった。
しばらくして、意を決した様子でオジサンが口を開いた。
「単刀直入に聞く。……君にはまだ生きる意思が残っているか?」
一瞬何を聞かれているか分からなかったが、言いたいことはすぐに理解ができた。
それは、俺はこの後どうするのか、ということだ。
俺は、ゆっくりと首を横に振った。
折角助けてくれた命だけど、もうこの世界に存在していたくない。生きていたいと思えない。
だって、生きている理由が、意味が無い。
生きていてほしかった人たちは、ぼろきれのようにあっけなく処分されて、俺を待ってくれている人は誰もいない。
俺にはもう、何もない。
そして、生きている限り、この心臓は永遠に苦痛を与えてくる。
何の目的も無く生きるには辛すぎる。
「今の自分に何も無いと言うのなら、新しい自分になればいい。新しい生きる理由を作り出せばいい。俺が手伝おう」
……新しい、自分?
新しい生きる理由って、一体何?
「色々あるさ。誰かの助けをしたい。誰かを守りたい。誰かの特別になりたい。色々だ。……色々あるが、それは君自身が見つけるべきものだ。人に言われて決められるものじゃない」
なら、ダメだ。もうそんな悠長なことしていられない。
見つけられるかも分からないもののために、これ以上苦しみたくない。
「それじゃあ君はあまりにも救われない。君は救われるべきだ。幸せになるべきだ。……例え、生く先が苦痛と隣り合わせなのだとしても、君にはそれだけの苦痛に見合った何かが与えられないとおかしい」
オジサンが俺の目を見て、力強く訴えかけてくる。
その言葉はまるで、この人が自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
そうならなければいけない、そうあって欲しいという切望を強く感じる。
けれど、俺はその言葉に感じ入るものは無かった。
オジサンの言う、幸せになるというイメージが何も持てなかったからだ。
例えそれを手に入れたとしても、またあっさりと奪われてしまうかもしれない。
それを考えてしまうと、怖くて堪らない。
また失ってしまうくらいなら、いっそ何も持たないまま死んでしまいたい。
俺の言葉を、オジサンは何も言わず、ただ目を閉じて黙っていた。
やがて目を開くと、「……そうか」と小さく零した。
それから少しの間、沈黙が続く。
パチパチと焚火の燃える音だけが静かに響いていた。
「君に生きていてほしいと思うのは、俺のエゴだ。だから、俺は俺のために、君を救おう」
「え……?」
そう言うと、オジサンは右手を握りしめて、手の甲を俺に見せるように持ち上げた。
その手の甲には、黒い紋様のような痣があった。
形は違うけど、あの赤い髪の女も同じ痣をもっていたはずだ。
「君は、虹の龍の話を知っているかい?」
急に、オジサンからそんなことを尋ねられた。
──虹の龍。もちろん知っている。
その名の通り、空を飛んだ跡に虹を架ける龍だ。
虹は幸運の象徴と言われているし、その姿を見たものはとてつもない幸運を授けられるとか。
俺はさっき見た虹が、生まれて初めて見たものだった。
「まぁ、それだけではないんだが……私たち人間からすると、あの
「虹の龍の……力?」
「あぁ。見ててごらん」
オジサンが右手を空に掲げると、真っ黒な夜空に光の弧線が引かれていく。
その線に沿って現れたのは、七彩の極光。
──虹だ。
「すごい……!」
月の無い黒一色の夜に、圧倒的な光を放つ虹が架かる。
まるで、オジサンの意思で生み出されたかのようだった。
あの建物から助け出されたときに見た虹も、オジサンの力だったのかもしれない。
美しく輝くそれを、俺はただ呆然として眺めていた。
「オジサンはね、
夜空は輝きを増していく。
光の弧線が一つ、また一つと現れていき、それらは絡み合うように、一つの巨大な虹の帯を作り出した。
その光景はとても神秘的で、思わず息をするのすら忘れてしまっていた。
鮮烈な極彩の輝きを放つそれは、地獄を希望で照らすかのような、そんな絶対的な何かを感じさせた。
「虹は吉兆や凶事の前触れという言い伝えがあるが……それは本当だ。吉凶の巡りを虹の龍は操る。虹を媒介に、
目の前の光景があまりにも現実離れしていて、オジサンの言葉があまり頭に入ってこない。
ただ、この光景は、オジサンの力で作り出したんだということだけは分かった。
「虹の龍の
目を見つめられて、はっきりとそう告げられた。
──この人は、俺に生きてくれと、そう言っている。
胸に火が灯る。
冷え切った心に熱い血が通う。
自分の意思で、命が脈動を打つ。
けれど、怖い。
もし、生きた先に何もなかったら。
ただ、この先に苦痛だけが待つのだったとしたら。
「そんなことはない。必ず何かが──誰かが君を待っている。他の誰でもない、君をだ」
俺を、待っている人。そんな人が本当に……?
「ああ、きっといる。君だけの
……もし、その誰かが、また奪われてしまうのだとしたら。
「奪われないように、君が強くなるしかない。その恐れは君だけではなく、誰しもが持っているものだ」
…………俺は、もうあまり長く生きられない。
あの女が言っていた。人間の身体が竜の心臓の力に耐えられずに、10年もしない内に人間の部分が壊れるって。
それでも、生きる意味は……価値はあるんだろうか?
「なら、猶更だ」
力強く、断言された。
「君は生きる意味を知らなければいけない。例え命数が短かろうが、幸せになってはいけない理由にはならない。……人は、幸福になるために生きるのだから」
その言葉は、心の芯に突き刺さった。
俺は、差し出された手を──ゆっくりと握り返した。
***
これが、新しい俺が生まれた日の記憶。
──そして、新しい生きる理由が生まれるのは、もう少し後の話。
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