第四章 事件

「やるなあぁ・・・」

「ひゅうひゅう・・・」


昼食から戻ると、オフィス入口そばの掲示板の前に数人の人だかりがあった。

里美と恵理子は顔を見合わせると、近づいていった。


「えーと、なになにぃ・・・・?」

積算部の武川が面白そうな表情で声を出している。


40歳前で遠藤と同年代なのだが、10歳は老けて見える。

大きな腹と脂ぎった顔は当然、女子社員には人気がない。


外見通りのデリカシーの無さで、大きな声で読み上げていく。


「里美ファンクラブ規定・・・」

第一声に、取り囲んでいた数人がドッと笑い声をあげた。


「ええっ・・・?」

里美は大きな瞳を更に広げてしまった。


「ひとつ、会員は山下登と橋本雄介の二名のみとする・・・」

当人が傍にいることに気づかない男は、無神経に読み続けていった。


「ひとつ、期限はどちらかが里美と結婚するまでとする・・・」

「おおっー・・・」


無責任なヤジと反応に嬉しそうに続けていく。


「ひとつ、里美を泣かすようなことがあったら即座に譲ること・・・」


里美の顔が見る見るうちに赤く染まっていく。

恵理子はどうしたらいいか、オロオロするしかなかった。


「ひとつ、抜け駆けは禁止。デートに誘ったら必ず報告すること・・・」

恵理子がたまらず止めようとした時、凄い形相で橋本が走ってきた。


「ち、ちょっと待ったぁっ・・・」

武川を押しのけるように掲示板に貼られた紙の前に立った。


少し遅れて、山下も徹夜明けの無精ひげの口元を広げ荒い息で追いついた。

二人とも鬼のような表情で廻りを睨みつけている。


「だ、誰がこれを・・・?」

山下が聞くと、武川が楽しそうに答えた。


「吉田が嬉しそうに貼り付けていたぜ・・・コピー機に残ってたみたいだってさ」

橋本が大きな声で叫んだ。


「だから、お前にまかせるとダメなんだ。別に色付きの紙にコピーする必要なんかなかったんだよっ・・・」

「で、でも・・・正式な会規定だからカッコ良くしようって・・・」


どうやら、綺麗なカラー用紙にコピーした原紙をトレイに置き忘れたようだった。

見つけたのが運悪く吉田だったため、朝の仕返しに掲示板に貼られたみたいだ。


里美は顔を真っ赤にしてうつむいている。

覗かせた両目から涙が滲んでいるのが見えた。


「そんなことより、お前たち・・・」

遠藤の声がして恵理子はホッとした。


「一番、被害を受けている鈴木さんに謝るのが先だろう?」

廻りの全員が初めて里美の存在に気づいた。


面白がっていた武川もさすがに悪く思ったのか、すごすごと自席のブースに戻っていく。

掲示板の前には二人の若者を合わせ、五人だけになっていた。


遠藤が改めて二人を睨みつけ、里美の方に視線を向けた。

橋本と山下は気を付けの姿勢になり、里美に向かって頭を下げた。


【すみませんでしたっ・・・!】

揃えた声は大きくオフィスに響き、なにごとかとブースから覗かせる顔があちこちで見られた。


「し、知らないっ・・・ば、ばっかじゃないのっ・・・」

精一杯の声を絞り出し、里美はオフィスを出ていった。


「里美ちゃんっ・・・」

恵理子が慌てて後を追った。


天使を泣かせた罪に二人の若者は肩を落とし、うなだれていた。

遠藤もフォローしようもなく、呆れた表情で肩をすくめると自席のブースに向かっていった。


3月初めのオフィスで起こった「事件」は社内に小さなセンセーショナルを起こした。

これから暫らくの間、三人のゴシップは面白可笑しく語られるのであった。


トイレに駆け込んだ里美は慰める恵理子の胸に顔を埋め、泣き続けていた。

ひとしきり泣いた後、自席のブースに戻った里美は窓から見える春の青空に、口元を綻ばせた。


「本当・・・ばか・・・なんだから・・・」

ポツリと呟いた言葉は、二人の若者には届いてはいなかった。


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