第二章 二つの紙コップ

「はぁ・・・あぁ・・・」

薄闇の中、山下は目を覚ました。


広いオフィスは大きな窓から朝日が差し込んでいるが、模型室は奥にあり、明るくなるほどではなかった。


「最悪だぁ・・・・」

誰もいない部屋で呻くように声を出した。


ブルブルと頭を振って何とか悪夢を振り払おうとしている。

腕時計を見ると7時になろうとしていた。


「何で、遠藤さんなんだよぉ・・・」


自分の見た夢の中とはいえ、愛する天使が選択した男がよりによって自分の上司とは。

しかも、遠藤は妻帯者なのに。


「もっと、良い夢をみさせてくれよぉ・・・」

ガリガリと頭をかいていると、天井の照明が一斉にともった。


「うっ・・・・・」

急に部屋が明るくなり目を閉じた後、視界に最も見たくない男が写った。


「よう・・・おはよう」

ニヤついた口元が何だか、ムカついた。


「お、おはようございます・・・」

それでも挨拶は返した。


「徹夜したのか・・・?」

コツコツと靴音を響かせ、近づいてくる。


いつもの早朝出勤で、遠藤はほとんどオフィスに一番乗りで出社する。

まだ白衣に着替えていなく、スーツ姿だ。


「ええ・・・まあ・・・」

山下はあくびをかみ殺しながら、あいまいに答えた。


遠藤は残業を嫌う。

まして徹夜などという非効率的な作業は「百害あって一利無し」といつも言っている。


「夜のとばりが貴方を巨匠にする」と言うのが自論だ。

「真夜中のラブレター」と同じで興奮し、自分に酔うだけで朝になって冷静になると良いと思った作品も陳腐なものになるということだ。


徹夜したなんて他の上司なら褒めてくれることでも、遠藤には軽蔑されるくらいの低俗な作業なのだから答えにくかった。


「まあ、初めてチーフとして設計をまかされたんだから仕方ないか・・・」


だが、いつもと違い遠藤は優しい口調で言った。

山下が徹夜で作った模型が大きなテーブルに他のドローイングスケッチと共に置いてあるのを楽しそうに眺めている。


「いいじゃないか・・・これ、カッコいいぜ」

「ほ、本当っすか・・・?」


山下は心底、嬉しい気持ちで声を出した。

遠藤が手放しで褒めるのは滅多にないことだった。


普段から優しい批評はしてくれるのだが、お世辞のようなことは言わない。

適格なコメントはありがたいが、何か物足りない気はしていたのだ。


まあ、社内の最優秀賞を何度も受賞しているトップデザイナーだから無理もない。

その上司の下で働ける歓びはいつも感じてはいたのだが。


吉田さんなんかの下になったら大変だ。

変更ばかりで毎晩、遅くまで残業させられるからだ。


「このシンプルな配置がいいなぁ・・・」

模型に近づき、舐めるようにみている。


「独身寮のメインの個室は整然と真四角に二棟、採光とプライバシーを考慮してあるな、よしよし・・・」

山下は真剣な表情で聞いていた。


「二つの棟を繋ぐ通路を大きくしてそこにエントランスとラウンジを絡ませたのか、いいじゃない・・・?」

遠藤の批評は適格で具体的なので、聞き漏らさないようにしている。


「大浴場のバランスもいい・・・だけど・・・」

「えっ・・・・な、何すか・・・?」


少しでも作品を良くしたい一心で、山下は必死の形相だった。

徹夜明けなのに少しも疲れておらず、むしろ興奮していた。


「しょ、しょれはぁ・・・」

出た!いつものふざけた表情を見ると、山下は鼻を膨らませた。


「真面目に聞いてるんすよっ・・・」

「フフッ・・・」


大きな声を出そうとした途端、可愛い笑いが耳をくすぐった。

顔を向けた山下の口元が半開きになっている。


「里美ちゃ・・・す、鈴木さん・・・」

「里美で、いいですよ・・・山下さん」


天使が立っていた。


まだ早朝の誰もいないオフィスに舞い降りた、可憐な少女のような彼女は両手に紙コップを二つ持ち、微笑んでいる。

微かな湯気と共にコーヒーの香ばしい匂いが心地良く漂っていた。


「徹夜なんですって・・・大丈夫?」

背の低い里美は山下を見上げるようにしてテーブルに一つ置いた。


「はいっ・・・遠藤さんにも早朝サービスです」

そして残った紙コップを遠藤に渡した。


「あ、ありが・・・」

「ありがとうっ・・・鈴木さん、俺ももらっていいの?」


言葉をさえぎられた山下は不服そうな顔で遠藤を睨んでいる。

折角、大好きな里美と話せるチャンスを奪う中年男は上司といえども許せないと思った。


「もちろんですよ・・・相変わらず早いんですね?」

「ああ・・・俺は朝型だし、満員電車が苦手だから・・・それより鈴木さんこそ、こんなに早くにどうしたの?」


天使の名前を苗字で呼ぶ遠藤に、山下は少し怒りのゲージを下げた。

吉田さんだったら、きっと「里美ちゃん」などとセクハラっぽく呼んでいるだろうから。


「今日中が締め切りの急ぎの仕事があって、時間に追われるのも嫌だから・・・」

大きな瞳が遠藤から山下の方に向くと、顔を赤らめたのを隠すようにコーヒーを飲んだ。


「うまい・・・」

温かいコーヒーが徹夜明けの疲れた身体に染み込んでいくようで、山下は口元を綻ばせた。


「でも、凄いなぁ・・・これ、山下さんが一人で作ったの?」

あどけない表情が若者の興奮をかきたてる。


「ああ・・・ま、まあ・・・・」

照れを超えて、うろたえるように声を出している。


「スタイロフォーム(発布スチロールのようなもの)・・・というの?

あの大きな四角い固まりがこんなに繊細な形になるなんて、感動しちゃう・・・」


「まっ・・・俺の指導のおかげだよな?」


遠藤の余計な一言にムッとした山下だったが、肝心なことを思い出した。


「それより、さっきの言いかけたこと・・・」

真剣な問いかけに遠藤は嬉しくなった。


入社3年目の若者は最近、メキメキと腕を上げていた。

建築業界特有の年配が幅を利かす世界にようやく慣れてきたのか、自分の意見を上手に通すようになった。


デザインも最初はうけることばかり狙って無理な形状や平面配置が多かったが、遠藤の影響もあるのだろうか、ベースの配置はシンプルで機能的だった。

遠藤の自論でもあるが、デザインで重要なのは「端っこ」なのが最近、理解できるようになった気がしていた。


建物の90%は構造的に安定した「四角い箱」の中におさめ、それらの「端っこ」を丸い形やエッジのきいたデザインにすると印象的なものになる。

この独身寮の設計も、その概念に基づいていた。


だから、遠藤の批評は嬉しく自信にもなったのだが。

後の足りないものを早く聞きたかったのだ。


「この二つの棟を繋いでいる広い渡り廊下のアイデアはいいんだけど、ラウンジが狭いと思わないか・・・?」


言われてみると、自分でも気にしていたことだった。

二つの棟を繋ぐ廊下は広めにしたといっても、ラウンジが配置できるほどではない。


それは、ずっと悩んでいたことだった。

でも、無理に入れると歪な形になるのが嫌だった。


「無理に入れると、形が歪むと思ってるだろう・・・?」

図星をつかれて山下は口ごもった。


「鈴木さんは、どう思う?」

いたずらな目で男は聞いた。


「えっ・・・わたし?」

急に話を振られて里美は声を詰まらせた。


それでも何かひらめいたのか、模型に近づいていく。

大きな瞳がキラキラしたように見えるのは錯覚だろうか。


「えーとぉ・・・素人のわたしだから、変かもしれないけど・・・」

二人の男を交互にみながら、ゆっくりした口調で話し出した。


「他がカッコいいから少しくらい、はみ出してもいんじゃないですか・・・ゴメンナサイ、全然、変でしょう?」


小さな右手をブンブン振って、恥ずかしそうにしている。

そんな仕草が山下には「ドストライク」なことを彼女は気づいていない。


「ピンポーン!」

遠藤が嬉しそうに声を出した。


「正解、大正解・・・鈴木さん、センスいいねぇ・・・デザイン部にくる?」

大仰に言う遠藤に照れながらも、里美はジンとくるものを感じていた。


お茶くみとワープロ等の雑用だけの毎日で、雑談とはいえ設計に関することを話せた興奮に胸をときめかせていたのだ。

建築って、いいなと思う里美だった。


「はみ出して、いいんだよ・・・かえってアクセントになるし」

「じゃあ、こうしてピアノみたいな形はどうですか?」


山下は広げていた平面図の中央に赤鉛筆でラウンジを書いてみた。

すると、ゆったりとしたスペースが中庭に向かって配置された。


「良いんじゃないっ・・・凄く、気持ちよさそうなラウンジだわ」

里美も興奮気味で声を出している。


「それと・・・ラウンジ用のキッチンをだな・・・」

今度は遠藤が青鉛筆で斜めの四角い箱を継ぎ足した。


縦横90度に交差した2棟と廊下に30度の箱が突き刺さり、その横にピアノのような曲線のラウンジが繋がった。

里美はまるで魔法を見ているようで、感動を覚えるのだった。


「いいっ・・・凄く、カッコいい・・・」

タメ息のように漏らす声に、山下は叫びたいほどの歓びを感じていた。


「ありがとうっ・・すずき・・里美さんっ・・君のおかげだよ」

山下は無意識に日ごろの遠藤の技を応用してしまったことに少し後悔しながらも、天使の笑顔を作らせたことに満足だった。


「そんな・・・でも、嬉しい・・・」

はにかむように白い歯をこぼす里美は、嬉しそうにうつむいた。


(やれやれ・・・)

二人だけの空気が流れだして、遠藤は苦笑いしながら模型室を出ていった。


オフィスは少しずつ出社する人数が増えていた。

その中に水野と恵理子のカップルを見つけると、笑顔で手を振った。


二人がつき合い始めたというニュースは瞬く間に社内に広がり、敗れたハートマークの山を築いていた。

3月の初め、桜にはまだ早い肌寒さが残る春の日差しが、オフィスに差し込んでいる。


模型室の方を振り返ると、窓越しに里美と山下の姿が見えた。

心の中で応援のエールを送る遠藤であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る