肺を覆う砂嵐

「アルバイト?」

 フードコートで注文したコーラの蓋にストローを差しながら目の前に座っている少し癖毛のある茶髪の友人に聞き返す。

 この日はいつも一緒にいる友人達と帰りに学校がある街から数駅離れた所のショッピングセンターにあるフードコートに寄っていた。「高校に入ったらアルバイトをしてみたかった」とか「やるとしたら何処で働いてみるか」とかスマホで求人情報を見ながら盛り上がっていた記憶があるが、今再びその話が茶髪の友人――櫻森和泉さくらもりいずみから切り出された。櫻森は好奇心旺盛で楽しいことに全力を尽くす男だ。色んな人脈があるようで話題のネタに困らず、トレンドや情報収集するのに丁度良い。


「そうそう、お前らもうバイト決めた? まだ決まってないなら人助けだと思ってオレを手伝ってくれよ。姉ちゃんが人手欲しいんだって」

「あーお前の家飲食店やってるもんな」

 手を合わせて懸命に頼み事をしてくる友人の言葉に思い出そうと思考を巡らす。櫻森の家は飲食店を開いていて、年が離れた姉もようやく自分の店を持ちオープンしたばかりだ。未だに行った事はないが、櫻森の話によると自家製のシロップを使ったパンケーキを売りにしていて、それが目当てで来る女性客も多い。SNSに写真が載せられてバズった事がきっかけで客が増えて手が回らないようで、夏休みになると更に学生客や家族連れも増えるだろうと想定しての頼みらしい。既に予約席も満席で埋まっていた。

「こないだ忙しいってのに二人辞めちまったらしくて、オレまで手伝わされるのがもう確定してんだよ。飲食店じゃなくて違うバイトしてみたかったのに」

「はは、悲惨」

 天を見上げて嘆く櫻森に自分と同じく話を聞いていたもう一人の友人の伏見優唯ふしみゆいが目を細めて気持ちが入ってない棒読みの声色で笑う。髪を染めずに真面目さが垣間見えるであろう後ろに一つ結びした長い黒髪が小さく揺れている。

「そんな他人事みたいにさあ……頼む! 姉ちゃんが高校生からでもいいって言うぐらい切羽詰まってんだよ。接客なら出来るだろ」

 丁度夏休みの間に集中して慣れておくのも悪くはないだろう。今後の為に少しでも増やせる選択肢は一つでも増やしておく。それに飲食店となれば、色々な人達の声が聞こえる。思いがけない情報や不幸話も聞けるのかもしれない。


「……しょうがないな。その前に親に話してみるから大丈夫そうだったら」

「マジ? 助かるわ。優唯は?」

「俺もいーよ。つかどーせ俺が許可取ろうとしなくても意味もなく遊ぶよりバイトして色んな人を見極めて社会経験積んどけって怒るから丁度よかった」

「優唯の親マジ厳しすぎよな~圧が強い」

 伏見の両親はどうやら世間体や人間関係を気にするらしく、人様に迷惑かけたりかけられないようにと出会った人の顔と名前からスマホの連絡先まで徹底的にチェックしてくる。一度伏見の父親に会った事があるけれど、確かにきちんとしたスーツの着こなしと厳しそうな顔立ちをしていた。

 櫻森と一緒になって作戦を考えて愛想を良くしたのが功を奏したのか、一応伏見の友人でいるには許されたらしい。

「ムカつくのはこっちの方だけど。俺がどこで誰と遊んでようが自由なのに」

「オレの家じゃちゃんと勉強しろって注意されるけどみんな緩いから想像できねえ~央はどう? 圧強かったりすんの?」

 そう言ってこちらを見る無邪気な櫻森の目と「そういや灰咲の家どうだっけ」とぽつりと興味深げに呟いた伏見の目に苦笑する。仲良くなって日数もそこそこ経つが、いつも他人の話を聞くだけで家族の話をしていなかった。あえて避けるように意識はしてきたが、流石に此処で隠すと下手な印象を植え付けられるかもしれない。


「……俺の所はそんなに圧強くないな。親揃って口うるさくもないし、多分俺がバイトしたいって言っておいたら秒でいいよって言ってくれそうなぐらいには大丈夫」

「いいよなー央しっかりしてるしモテるし。近衛に告白されたのにフッたとかありえねえじゃん」

「おい、今そんな話するのか?」

「優唯だってすげー気になるだろ。近衛といえば綺麗で美人だから狙ってる男が何人もいるぐらいだぜ? もったいねえ。何で?」

 触れられると面倒だから近衛に告白された話を進んでしていなかったのに、何処から漏れたのか知らないが情報が早い。恐らくは女子達の雑談が男子に聞こえたか、近衛自身が話したかのどちらかだろう。あの場に少しだけいた律紀にも詳細を話していなかったが、この広まり方を考えると近衛からの呼び出しの理由を知っていてもおかしくないかと溜息をついてしまう。

「近衛は友達だと思ってたから……彼女っていうとなんか違うだろ。それなら近衛を狙ってる奴の方がきっと大事にしてくれるだろうし。恋愛より高校と勉強に慣れる方が先じゃないか?」


 今でも近衛が告白してきたあの瞬間を思い出すと同時にこうも思う。

 あの時、律紀に言われたなら良かったのにと。


「そりゃごもっともだな。学生の本分」

 納得した伏見が注文したポテトに手を伸ばす最中、釈然としない櫻森が首を傾げて後押しする様にとんとんと軽く人差し指でテーブルを叩いた音がフードコートの喧騒に紛れて消えた。

「えー自覚ないかもだけどお前も狙われてるんだからな。ぶっちゃけて言うとオレも優唯もよくこっそり女子に央のこと聞かれてるから!」

「え、知らなかった。何?」

 様々な話を聞いてきたが自分がいない所で自分に関わる内緒話が櫻森達にあるとは思わず訊ねると、二人は顔を見合わせてから再び櫻森が答えた。

「央に彼女いるのか、サプライズで差し入れしたいから好きな食べ物教えてとかー」

「それ言ったらサプライズじゃなくなる。あと時々杏って子と二人で一緒にいるの見かけるけど何か知らないかとか。近衛達にも同じことを聞かれたな……杏は確か灰咲の幼馴染だろ?」

「そうだけど」

 長年続いてきた幼馴染という関係はこれからも続くだろうし、手放すつもりはなかった。けれどあの日律紀が言った「お兄ちゃんが好きだから」の真意が気にかかって、今でも聞き出せずにいる。

 いっそ二人に律紀から好きな子がいないか聞き出してもらえないかと考えたがそもそも兄がいたという話もしてないし、流石に元を辿れば自分が関わってると推測されそうで止めた。それにこの二人と律紀が話すのも何だか気に入らなかった。

「幼馴染の女子と仲良いのも学校生活の優先するのも央の良い所だけどさ~高校に慣れたいからって理由で告白断るのもだんだんむずくなってくるんじゃね?」

「女子達が下手に希望持って面倒くさそう。灰咲に好きな子がいるならそれを理由に断って諦めさせるとか」

「そうすりゃいいじゃん。てかいんの? 好きな子? やっぱ杏とか?」

「またしょうもないこと灰咲に聞く。早く食べろ、冷めるだろ」

「あ、優唯! それオレの分!!」

 好き放題言って掛け合いをする二人をよそにスマートフォンに目を向ける。律紀の体調不良によって行こうと誘っていた水族館はこないだ延期になった。それ自体はまた改めて日にちを変えるのでどうでもいいが、この暑い時期に夏風邪を引いていたら大変だ。折角の長い夏休みなのだから体調を治す為に休養を取ってほしい。頻繁にメッセージを送ってスマホを触らせるのも悪いので控えめにしておく。


 最初体調悪いとメッセージを読んだ時、律紀が不憫な目に遭っている事が密かに嬉しくなった。本当ならば悪化して自分に弱音を吐いて欲しいが、そうなるといつまでも一緒に遊びに行けなくなってしまう。だから『大丈夫? 具合が悪いなら無理しなくていいよ。律紀の体調が良くなったらでいいからまた今度行こうか』と返信を送っておいて気遣った。

 騒がしい友人達の会話を聞きながらこいつらは好きな子に不幸になってほしいなんて思わない優しい奴らなんだろうなと、ストローに口をつける。

「しっかし鈴も一緒に遊べればよかったよなー」

 此処にはいないが櫻森達と一緒にいる友人の一人、木屋鈴こやすずは病弱体質の妹が学校で倒れたとの報せを受けて慌てて病院に向かった為、遊びには行けなかった。木屋は家族を優先する事が多く四人で少し遠出して遊ぶ機会もそこまで多くはない。

「まあ家族に何かあったらしょうがないよ。この後どうする? 木屋に何か買う?」

「いいね。ゲーセン寄ってまたお菓子狙ったら鈴も喜ばないかなー」

「木屋に取り過ぎって呆れられてたじゃん」

「喜んでたからいいじゃんよ」

 ――そういえば律紀も前にあげた菓子食べてくれたな。またチョコ菓子があれば、ついでに手伝ってもいいかもしれない。

 こんな下らない会話も暇潰しには丁度いい時間だった。決して意味を成さないけれど、家やこれからの進路とか考えずに済む。

 そうやって騒いでいる頃に、スマホの画面には何処かの県でトンネル事故が発生して多数の怪我人がいるとの速報が表示されていた。



「今度オレの家で集合な! じゃあな~」

 電車から降りると座席に座ったまま手を振ってくる櫻森に手を振り返す。伏見はその最寄りの駅にある店に用事があるらしく先に降りて帰った。

 改札機を通して一人になる。まだ家に帰るには少し早いだろうともう少し寄り道をしていこうと決めて、夕飯の買い出しをさっと済ませてから駅から出た。じりじりとした暑さが体に張り付いて蝕んでいく。

 スマホを開いてチェックし損ねたニュースを片っ端から読んでいると速報が出たトンネル事故、火災事故……まだ犯人が捕まっていない殺人事件の記事までずらりと並ぶ。トンネル事故の新たな記事をクリックすると死亡者が何人か出てしまったと書かれていた。他にも心肺停止と判断された怪我人がまだ転がっているらしい。この分だと恐らくもっと死人は出るだろう。

 これから増えるであろう喪失への悲しみ、怒り、絶望。それらを誰かが抱えていく不幸を思うと胸が満たされていく。

 他人の不幸は蜜の味とは誰が上手いこと言い出したのだろう。


 違うバイトしたかったって嘆く櫻森の間の悪さも、両親に友人を選別されてうんざりして愚痴る伏見の境遇も、病弱体質で度々倒れる妹を持つ木屋の大変さも、体調不良になって予定を変更しなければならなかった律紀の不憫さも、自分を楽しませてくれる快楽の種でしかない。

 もしも不幸が本当に蜜になったなら、トーストにでも塗って胃に収めるのに。

 記事に載せられた動画に指先を合わせようとした矢先に声が飛んできた。


「やっぱなかだ、こんな所で会うの珍しいじゃん」

 そう言って意外そうな顔で見つめてくるのはもう一人の幼馴染、杏円璃からももまどりだった。律紀と双子みたいな外見だがリボンはつけていなく、性格も違ってさっぱりとした物言いをするので見分けがつきやすい。

 円璃だけは別の高校に通っていて、習い事や部活を掛け持ちしているからか忙しそうな印象を受ける。高校で出来た友達との時間もあるのに、それでも遊びに誘う時は予定を調整してくれるものだから優しい奴だとは思う。恐らく年上ならではの気遣いだろう。面倒見が良かった兄と同じように。

 そっとニュースを閉じながらスマホをポケットに入れて、いつも見かけるようで久しぶりに会う顔に微笑みかける。

「久しぶり。そっちこそ珍しいね」

「部活が早帰りだったの。そっちは? 学校の帰りにしては随分遅いけど」

「ああ、友達と遊んでた」

「めっちゃ遊んでる。じゃあ今から帰るんだ」

「そんなところかな。夕飯も早めに作っておかなきゃいけないし」

 今日も両親は夜遅くまで帰らない。昨日は普通に料理をしたがまだレパートリーが少なく、大体似たような物しか作れないからそろそろ飽きてきた。今日ぐらいは適当に済ませるのもいいかもしれないとついでに弁当も買っておいてたのは言わないでおく。

「なかがご飯作るの? ちょっと想像つかない」

 円璃からいかにも信じられないと言いたげに苦笑いを向けられる。一体どんな想像ならつくのか。

「え、何で? 俺だって作るよ。親も忙しいから色々やれることやっとかないといけなくて」

「だって小学校を卒業する時まで包丁の持ち方すら怪しかったでしょ。確かキャンプの時とかさ」

「うわ、いつの話してるの。結構練習したし上達してるつもりだから」

 小学校時代の話を持ち出されて少しだけ懐かしくなってしまう。そういえばあの頃、家庭科の教科書に載ってたレシピの読み方も分からなくて困ってたから、律紀に手伝って貰ってた。今ではわざわざ本屋でレシピ本を買って読み込むぐらいには慣れたのだから、これもある意味成長というだろう。

 そうなったのも確か実が死んだ頃。母が悲しみに沈んで何もかも放り出した頃からだった。でもおかげで出来なかった事が出来たのは結果的には自分の為にもなった。きっと、これからの道を考える為にも。円璃も、律紀も、そんなこと知らないだろうけれど。


「上達してるならなかの料理気になるし食べてみたいかも」

「ジャッジ厳しくするだろ。嫌だよ」

「こういうのはちゃんとしないと困るのはなかでしょ」

 お互いの環境が変わっても変わらない幼馴染の振る舞いに苦笑いする。遠くで雷の音が聞こえて、空を見上げるといつの間にか曇天になって雨が降り始めた。だんだん強くなっていく雨の音に円璃は文句を含んだ溜息をついた。

「やばい。傘持ってくればよかった」

「円璃折り畳み傘持ってないの?」

「持ってない」

 此処最近は天気が不安定で予報も全然あてにならない日がちらほらあったのに、晴れが続いたので落ち着いたと思い込んで自分もうっかり予備の折り畳み傘を持っていなかった。この雨の強さでは恐らく傘があっても、服から買い物袋まで満遍なく濡れるだろう。

 駅から歩いて大分離れてしまったので近くにある小さな土産屋の軒先に移動して一時的に雨宿りさせて貰って雨が弱まるのを待つか思いついたが、弱まるどころか土砂降りだ。同じように傘を持っていなかったのか、何人か急いで走っていくのをぼんやりと眺めながら、着ていた白衣を脱いで円璃の頭を庇う様に被せた。

「この雨じゃ帰るの大変だから俺の家寄って行こう。此処から近いし傘貸すよ」

「えっでも、悪いよ」

「いいから。ほら行こう」

 円璃には悪いが、駆け足でなるべく転ばないように気を付けて家まで急ぐ。風も吹いてきて雨に濡れていく服が一層鬱陶しくて仕方なかった。



 家まで辿り着いても雨は強まるばかりだった。少ししたら小雨に落ち着く事を願って玄関前の扉を開けて、円璃を招き入れる。二人とも雨に濡れていた為家の中に入る前にタオルで拭いて、その後円璃はドライヤーを借りて雨で濡れた不快感がない程度に服を乾かしていた。ずぶ濡れになった白衣を気にしていたらしいが、丁度洗濯したかったから良かったと言っておいた。

 白衣は四十度の湯と中性洗剤で浸けて置いてからネットで保護して洗濯機に入れるといいんだってと教えると、円璃は豆知識を知ったみたいに「意外と手間かかってるんだ」と目を丸くした。

「お茶入れるか。その間に雨も弱まるだろうし、一息つけたら傘持っていきなよ。返す時は律紀に渡してくれたらいいし」

「うん」

 そう頷きつつ円璃は廊下の奥にある部屋に目を向けていた。そこには実の仏壇がある。来客用の部屋なので横に広く、ディスプレイ棚の横にひっそりと佇んでいる。

「兄さんに線香あげるか?」

「……いや、いいかな。突然だったし雨に濡れたままじゃあれじゃん」

「それもそっか。俺の部屋で適当に本でも読んでて。お茶入れたら持っていくから」

「分かった」

 そう返事しつつ二階への階段へ足を進める円璃の後ろ姿を見てから、キッチンで電気ケトルに水を入れてスイッチを押す。湯が沸くまでの間にスマホで天気予報を確認する。今日の天気は晴天だったはずが、今の時間以降雨マークが続いている。明日の天気を確認しようとした途端に、櫻森からグループトークの通知が届いた。

『雨やっっば! お前らは無事ウチに帰れた!? オレはぼっちで雨宿りしてダッシュでびしょ濡れ!』

 そういえば最後に電車に残ったのは櫻森だったなとふとホームでの時間が脳内で呼び起こされた。櫻森の発言に続いて伏見からも『説明が雑すぎ。折り畳み傘入れっぱだったから助かった』と返事が画面に浮かび上がる。

 伏見は面倒くさがりだから、鞄の中身に入れた物が必要以上に多かったのが運を寄せたのだろう。一つだけ既読がついてないのはまだ病院で妹の見舞い中であろう木屋の物で違いない。

『家に帰る途中で降って濡れた。風邪引かないようにな』

 一言、二言を打ち終えて送信すると電気ケトルの湯が沸いた音が聞こえた。丁度キリがいいかと画面の中の友人達よりも幼馴染を優先しようと、箱から緑茶のティーバッグを取り出す。


 律紀とは事故現場に行った時に実の思い出話をしたが、一番年上だった実に近い位置にいた円璃は話がしづらいのかもしれない。

 まあいいか、と緑茶の入ったマグカップを持って階段を上った。二階に入ってすぐ左にある扉が自室だ。向かって斜めにある部屋の扉には名前のない灰青色の小さなネームプレートがかけられていて、それが実の部屋だと分かりやすく判断出来る。

 実の部屋には勉強に集中して貰えるようにと両親が配慮して実が高校に入った時に防音仕様にしていた。今は施錠されていて父と自分が持ってる鍵がないと入れない。

 もう誰もいない部屋を横目に見て、自室の扉に手をかけて引っ張ると本棚の前で何かを見ている円璃の姿が視界に映る。昔から部屋に来る度に律紀と共に自由に寛いでいたから一瞬違和感なかったが、手に持っている物がちらりと見えてしまった。

「円璃?」

 声をかけると円璃が弾かれたように驚いた表情で振り返った。その手には写真が握られている。頭の中の隅に追いやっていた昔の記憶が一瞬で駆け回って、今まで忘れていた事を思い出した。

「あのさ、これ……」


 その写真は小学校の時に旅行先で撮った家族写真だった。両親と実と自分。それだけなら仲のいい家族が旅行を楽しんでいる写真に見えるだろう。

 実の顔が黒く塗り潰されてた事を除けば。


「……何処で見たの?」

 マグカップを机の上に置いて訊ねる。なるべく怖がらせないように苦笑いして自然に聞こうとするはずが声が一段と低くなってしまう。よりによって見られるなんて。

「下の段の本見ようと思ってて……そしたら本棚の裏に落ちてたから」

 一番上の段にはいくつものアルバムが並んでいる。本棚に入りきらなくて上に重ねて置いてた時もあったから、アルバムを片付けていたその時に裏に隠れて落ちてしまったかもしれない。

「ああ、そっか。ごめんね、びっくりさせちゃって。それ返して」

 手を伸ばすと円璃は戸惑いつつも写真を一瞥してから返してくれた。指先に何の温度も持たない写真一枚の感触が伝わる。あれだけ強かった雨の音が今は小さく聞こえてくる。

 改めて見返せば、古びてきた写真に思わず懐かしく感じた。よく思い出を記念として形に残しておくと言うけれど、記憶を繋ぎ止めておく為の手段でもあるのかもしれない。

「ね、この写真のこと誰にも内緒にして貰えるかな。律紀にもさ」

「え?」

「あまりこういうの人に話すような事でもないだろ。もう過ぎた昔の話だから恥ずかしいし。お願い」

 緩やかな、ただ真面目な声色を少しだけ乗せる。実際は恥ずかしいとかそういう感情はないが、円璃はたまに鋭い時があるのでこれ以上この話を続けたくない。

 律紀が知ったらどういう反応をするかは何となく予想がつく。だから、何も知らないままでいい。俺が誰かの不幸を楽しんでる事も分からないまま、隣にいてくれれば良い。円璃も気付かなければいい。

「多分雨弱まってると思うよ。また酷くならないとも限らないから今の内に出た方がいいかも」

 実際窓の向こうの様子を確認したら、まだ薄暗く不安定な天気だがパラパラと雨が降る程度に変わっていった。

「……なかはみのの事どう思ってた?」 

「……完璧で優しい兄さんだったよ。いなくなってしまったけど、これからも変わらないんじゃないかな」

 その言葉に何も変わらない調子で笑い返す。変な事聞くんだなと、何処か遠くの思い出を振り返るフリをしながら。 



 灰咲実は優秀で気取らない人間だった。両親からも幼馴染からも好かれていて、多分誰一人彼を悪く言う人はいなかった。

 決して人前では後ろ向きな発言はしなかったし、頼まれた事を嫌な顔一つせずやり遂げてきた事だって珍しくはなく純粋無垢を纏ったような白衣を着ていて、堂々としていた。それだけだ。


 ――優秀だからこそ、出来すぎていた。

 そんな完璧な兄が嫌いで、いっそ憎かったなんて言わないけれど。 

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