溜息と鍵

 まだあと少しだけ帰れそうにないな、とぼんやり考えながら遠ざかっていく小さな背中を見送った。

「一体どうしたの、近衛。場所変えるか?」

「あ~大丈夫。二人だけで話したくて。此処でいーよ」

 なるべく自分の代わりに鍵を職員室に返しに行ってくれた律紀を待たせたくはないが、何よりも自分を呼び出した目の前の女子の話が気になった。近衛はクラスの女子の中でも特に背が高くて、いつも一緒にいる友人達からもスタイルが良くて人形みたいに綺麗な美人と評価されている。

 自然に男子の輪にも入ってきて親しげに話しかけられる事も多くて、よく一緒になってゲーセンやカラオケに行く程集まって遊ぶくらいの関係だが、自分にだけ話したいと言う程悩みがあるようには見えない。

 律紀の前では言いづらい、という事は少なくとも第三者が聞いてもいい内容ではないのだろうと、送られてきたであろうメールを確認しようと既読を付けた。

「やっべえ、ごめん」

「あはは。それでさー聞いて貰っていい?」

 スマホをポケットに仕舞い直して「いいよ」と話の続きを促した。安心したのか、笑って間を空けたりいつもサバサバしている彼女らしくなく、言いづらそうにしていたが急かさなかった。こういう時は何も言わずにいつもの様に微笑んで、相手に話しやすい空気を作ってあげた方がいい。相談事ならいつものように優しく聞いてあげられるし、同情出来る。

 ただ何処か違和感がある。悩み事を打ち明けようとする雰囲気には感じられない。

 思考を巡らせている内にようやく覚悟を決めたのか、彼女は思いがけない言葉を発した。


「あたし灰咲のこと好きなんだよね。付き合ってくれる?」


 耳を疑うような一言に、一瞬息が詰まる。後になって考えればさっきの彼女の深刻そうな表情は、色んな映画で散々演出されてきた女子が意を決して想いを告げようとする顔によく似ていた。

「……えっと、何?」

「びっくりさせちゃってごめん。でもずっと前から好きなんだー。気付いてなかったでしょ」

 そう言って照れを誤魔化すように笑った茶髪が風に揺れた。人形のように綺麗で美人だと可愛いだと言われる彼女の姿に、つい幼馴染を重ねてしまう。


 これがもし律紀だったら――


「……ありがとう。ごめん。付き合えない」

 相手を気遣う風に苦笑いを見せて彼女の気持ちを受け止めて、断りを入れた。彼女はあくまでもよく話しかけてくれる友人というだけで恋愛的な感情は持っていなかった。

 別に嫌いではない。寧ろ、自分にそういった感情を向けてくれるのは嬉しい。だが普段、頼まれ事を承諾する時とは訳が違う。今回は流石にそういう訳にもいかなかった。

 すると、悲しそうな顔を見せる訳でもなく不機嫌そうに口を尖らせていた。明らかに落ち込んだ顔を見せてくれたら楽しいのにと内心残念に思ったが、こういう所が強かな彼女らしい。

「それってさ~さっきの子がいるから?」

「え?」

「灰咲よく一緒にあの子と帰ったりする日があるじゃん。女の子であの子だけ名前で呼んでるよね」

「……ああ、律紀とは幼馴染だから」

 成程、と合点がいく。律紀が教室を去る前に居心地悪そうな顔になっていたのは、律紀がいると都合が悪かったからなのかと。

 昔から女子達に律紀との関係を聞かれる事が何度かあった。その時は今みたいに個人にでなく大勢に囲まれていたから、その度に仲が良い幼馴染だと答えて後は勝手に自己完結したらしい向こうから自分の幼馴染の話をしてくれて盛り上がったりしていたものだけれども。

「親同士が仲良くてさ、ずっと小さい頃から遊んだりしてて名前で呼んでるのもその延長線なだけ」

「それならいいけど。灰咲って、好きな子いるの?」

 そう聞かれて少しだけ答えに詰まってしまった。不自然にならないように考える仕草をしてから悪戯っぽく笑いかける。

「いるかもなぁ、俺だって男子高生だし。当ててみるか?」

「え~今あたしフられたばっかなのに灰咲の意地悪~!」

「はは。でもまだ高校に慣れ始めたばかりで恋愛は考えられないんだ」

「ふーん、じゃあ彼女いないんだ。まだチャンスある? フリでも付き合うのも駄目? なーんて」

 彼女の言葉と同時に、誰かの声が重なった。

 呆れながら、自分を追い詰めるように、咎める声。


『フリでもいいから、人前では仲良くしなきゃ。ね、央? お前も馬鹿じゃないんだからさ』


「……何言ってるんだよ」

 そう返した時には無意識に語尾を強めてしまっていた事に気付く。今度は彼女が困ったようにおかしそうに笑い返していた。いつもの調子のいい会話の延長だと思っていたのだろうか、特に気に留める様子も見られなかった。

「ごめんごめん、冗談だって。灰咲優しいもんね~でもほら、誰かとか幼馴染と仲良くてもさ、あたしみたいに勘違いする子割と多いからね?」

 女子には女子なりの関係で事情があるのかもしれない。それを異性の自分が詳しく聞くのも野暮だろうと苦笑して首を傾げてみせた。幼馴染だけではなく友人や知り合いとも親しくしているのは誰でも同じ事だろうなのに。


 鍵をかけられた教室で、着実に針を刻む時計が視界に入った。これ以上長引いては律紀に迷惑をかけてしまう。本来の用事は大体済ませてくれただろうと踏んで、肩からずり落ちそうな通学鞄の紐を握り直した。

「そろそろ待たせてるから帰るよ。本当に気持ちは嬉しかったから。……冗談でもそんな風に自分を大事にしない言葉を口にしたら駄目だよ」

 最後にもう一声、優しくしようと気遣う言葉に念を込めて伝える。別に知らない所でなら、何処でどんな風に自分自身を粗末に扱おうが構わないけれども。

 廊下から階段へと向かおうとして歩き出す。ふいに背後から「あたし、諦めた訳じゃないから。また明日ね」と彼女が投げかけた強気な声に足を止めた。

 どうしたって恋人になるなんて――俺を知る事なんて出来やしないんだから、諦めてくれればいいのに。ただ自分の願いが叶わない現実を見て悲しんでいてくれたら、それが俺を喜ばせる方法なんだって、口には出さない代わりに振り返って穏やかに笑顔を向けた。

「……そう。じゃあ、また明日」


 階段を下りながら頭の中で先程の会話を反芻する。告白、恋愛、好きな子。明日近衛に告白されたと友人達に話したら悔しがるだろう。多分そんな、何処にでもありふれている出来事を体験した。

 さっき何を考えたのか? あれが律紀からだったら――何だった?

 分からないけれど確かにあの時あの瞬間、心の奥底からまるで思い出したかのように忘れかけていた感情が胸の中で芽生えてきていた。


 どれだけ周りが律紀の外見を人形のように可愛く仕立てて褒めていようと、真剣に本を読み進めている姿やこっちを見て話を聞いてくれる目が一番可愛いと思っていた。誰よりも俺の隣にいて欲しかったし、律紀の母親と円璃には悪いが律紀がずっと俺の家にだけいればいいと昔は思っていたかもしれない。よくある小さい子特有の駄々をこねる気持ちだったから周りを、両親を困らせないように隠していた。時を重ねていく内に幼馴染だけの世界ではなくなってきて「それ」も落ち着いてきた。

 だけど、そうだ。今はあいつがいない。隣には律紀がいるんだからそれでいい。

 俺の好きな子は初めから――




 律紀には先程の出来事は話さなかった。聞かれなければ話す必要はないし、何より今まで恋バナというモノをした事がなかったと気付く。そういえば律紀は律紀の友達とそういう話もしてるんだろうか。 

 何となく知らないままでいいか、とこれからの話をした。小テストの話、夏休みの話と何でもないような話題を持ち掛ける。律紀が水族館がいいと呟いていたから来月行こうかと誘う。確か来月にはイルカショーの外に小さなイベントもやるらしいと聞いた事がある。

 だけどたまには行ったことのない、今までと違う水族館に行くのもいいのかもしれない。そう提案しようとして先に律紀の言葉が飛んできた。


「お兄ちゃんみたい」

「――え?」

 普段気遣うように話す度に「お姉ちゃんみたい」だとか揶揄されてきてはいた。ただ何故今、よりによってそんなことを言ったのか。

「……あ、違うの。見間違ったとかじゃなくて。ええと、さっきの話考えてたんだけど。来週、行こう?」

 それを聞いて思わず息を吐いて安堵する。来週の話も承諾してくれた事で、どうやら自分の目的も達成されそうだ。

 律紀に不幸を振り返って貰うには本人もその場に来てくれないと意味がない。事故とは無縁の場所で話をしても痛みを伴わないだろうから。

 とはいえ誘ったのは自分だ。念の為に本人の意思確認をしておく。万が一今が駄目でも時間薬に任せる。そうしていつかまた同じ様に誘えばいいだけ。

「本当に嫌じゃない? 俺が誘ったからって無理していない?」

 無理矢理連れていく事だけは避けたいと心配するように声をかけてやる。すると緊張していたのか律紀の表情がほんの少しだけいつもの調子に戻ったように見えた。

「ううん。私、お兄ちゃんが好きだから……大丈夫だよ」

 律紀の言葉と共に凍り付くように目を丸くする。なんて事なかったかもしれない言葉がやけに鋭く胸を貫いたみたいだった。

「……そう」

 じわりと広がっていく戸惑いを、律紀に気付かれない様に優しく微笑みかけた。

 本当に今日は朝から、偶々そういう日で、何でもないような時間だったに違いないと言い聞かせるようにして。

 日差しが夜に向けて揺らいだように見えた。



 ――その時は実にしては珍しいな、と呑気に思っていた。

 足りない材料を買う為に出かけた実は「夕飯に間に合わせるから待ってて」と自転車で急いで向かっていった。だから夕食の時間を過ぎる程、遅くなる訳がない。間に合わせると言えば必ず時間通りに間に合わせてくる筈だけど、もしかしたら家に帰る途中で困ってた人に遭遇して助けて遅くなってるんだろうか。そういうこともあるなとぼんやりしつつ、リビングでミステリー小説を読んでいた。

 父さんも帰ってくる時間になり心配した母さんが実の携帯に着信をかけたが応答はなく、数時間ほどして返ってきたのは実自身ではなく病院からだった。


 あの日の夜を、今も、鮮明に覚えている。



 日曜日の昼、予め決めておいた時間より早めに待ち合わせていた場所に近づけば、律紀も別方向からやってきたようだった。自分の服装を見てきょとんと首を傾げている。

「央くん、今日はいつもの白衣なんだね」

「だってあそこに行くだろ。たまにはいいかなって」

「そっか」

 普段休日はロングジャケットを羽織って着ていたけれど、今日は特別だった。そもそもこの白衣は生前の実が着ていた物だったからだ。最初着た時にはサイズが合わなかったが、今では実の身長を追い越してしっくりきていた。来年には時が止まってしまった兄の年齢を超えていくだろう。自分も、律紀も。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

 緊張させないように笑顔を向けると小さく頷いてくれた。車道側に立って歩き始めると自分についてくれる律紀を一瞥しながらあの言葉について思考を巡らせてしまう。実を好きだと言うあの言葉。


 どういう意味だったのか。

 今までの人間関係で一番に好きなのは実だという意味なら、まだ解る。あいつは誰にでも優しかった。ただ。

 ――ただ、あの時は告白を受けたばかりで勝手に結び付けているだけかもしれないけれど。でも、もしそうだとしたら。

「……あそこに行ったらさ、帰りにカフェに寄ろう。丁度夏限定のドリンクが発売されてるんだって」

 律紀に真意を聞こうとして止めた。代わりに違う言葉が、ありふれた話が喉から自然に出てくる。

 今はまだその時ではない。


 事故現場となった十字路に辿り着く。そこには誰かのいつも通りの日常が流れていた。

 電柱には話に聞いていた通り、色とりどりの仏花とコーヒー缶とカードが供えられている。事故が多い場所だからか花と共に手紙やメッセージカードなど、故人宛だとわかりやすいように置かれていた。いつかのニュースで見た、別の県で起きた殺人事件現場でオレンジジュースの入ったペットボトルと手紙がぽつんと映されていた映像が頭を過った。確か小学生が死んだ事件だった。あれは、今は回収されたんだろうか。

 通行人の邪魔にならないように道端に移動する。通り過ぎていく車を眺めながら密かに律紀に視線を移した。自分と同じくありふれた光景を変わらない表情で見つめているのか、思う所があるのかまでは読めない。でも確実に思い巡らせてはいるのだろう――そう、それでいい。その姿が見たかったのだから。

「……律紀、大丈夫?」

 声をかけると、律紀は気を取られたのか間を空けてからこちらに目線を向けた。

「……うん、大丈夫だよ。お兄ちゃんの花ってこれかな」

「多分そうだね。たまに花変えたりしてるって。このコーヒーも兄さんがよく飲んでたし間違いないかも」

 軽く手を合わせてカードを手に取る。寄せ書きされた文字の中心に「灰咲へ」という字が目に入った。内容を見るにやはり実の友人からだった。

『元気にしてる?』『灰咲がいないと寂しいよ』『今度劇やるから見守っててくれ』……どれも故人に親し気に話しかけるような文面。

 死んだ人はこのメッセージを読めないけれど、これらを書いた人達は実の死を今でも悲しんで胸を痛めているだろう。


「この"劇"って何?」

「兄さん、ほんの少しだけ演劇部の裏方やってたんだ。高校に入ってずっと部活決めに苦戦してて、友達に頼まれたから仮入部してたらしい」

「そうなんだ」

 でも結局、本人が死んでしまったから部活には入らなかった。きっと生きている間に手伝った劇は見れなかったに違いない。

「お兄ちゃん優しかったね。よく勉強教えてくれたし、本も貸して貰ってたな」

「……ああ、そんなことあったね。律紀に優しかったから」

 そうして思い出すように、四人で遊んだ記憶を確認し合うように話をしていた。死んだ人の思い出話をすることで供養にもなるとか、心の中で生きているだとか誰が最初に言い出したのか。誰にも教えられた訳でもないのに、それが当たり前であるかのように、映画や本の中でもありふれた台詞となって広がっていく。

 本当にそれが残された人達の心を守ってくれるかは分からないけれど。

「お兄ちゃん、何処に連れてってくれてたのかな」

「何処に?」

「えっと……ほら、お兄ちゃんと央くんとお姉ちゃんと私で遊ぶ約束してたよね。あの時お兄ちゃんが行き先を決めておくから、楽しみにしててって」

 そっと右手を顎に添えた律紀に言われて、はっきりと思い出した。そういえばそんなことがあったかもしれない。あの頃、四人で何処かに行くにも実が自ら進んで真っ先にスケジュール調整をしたり予定を組み立てていた覚えがある。

 自分も困った風に笑って首を傾げた。

「ああ……どうだろう。楽しい所には違いなかったんだろうけど」

 円璃や律紀をつまらない場所に連れて行く訳がない。だからもしも実が生きていればきっと、その場所に連れて二人にとって良い思い出の一つを与えていたかもしれない。多分、今でも実が色々な場所に連れて行ってくれてただろう。


 でも、灰咲実はこの場所で死を迎えたのだから、此処にいるのは俺と律紀だ。

 こんなもしも話なんか、無くていい。


「……ねえ、律紀」

 無防備な律紀の掌にそっと上から触れて、出来るだけ強くなりすぎないようにと軽く握りしめる。その状況を上手く掴めていないかの様な彼女の表情を気にせずに、続きの言葉を発した。

「ありがとう。あれから随分経ってるのに、此処に来てくれて」

「……ううん、大丈夫だよ。お兄ちゃんの話も出来て、ちょっと懐かしかった」

「俺も久しぶりかも。……まだ母さんは完全に立ち直れてはいないから、母さんには兄さんの思い出話をしたら駄目だけど、俺になら今日みたいに話していいから。だから、これからも頼っていいよ」

 実際母は実の話になると、今でも傷ついた顔をする。それでも以前よりはマシになってきた方だった。あの時は、酷かった。

 律紀が悲しみを過去に出来ているなら、今でもそういった「事実」に痛めてくれたなら充分だ。もしもまだ引きずっているのなら、こうして話を聞いてあげればいいだけ。

 夏らしい暑さがじわりと体を蝕むようだった。感謝を伝える為に握っていた手がほんの少しだけ熱を持ってそっと離してやる。

「暑いね。そろそろ花を片付けて涼しい所に――」

「あ、見つけた」

 カフェに移動しようと持ちかけた所で別の声が飛んできて、こちらに近付く足音が聞こえた。何事かと声がした方向を見ると花を抱えた黒髪の男性が笑いかけてきた。この人の顔に見覚えがある。確か実の先輩だったはずだ。


「久しぶり、弟くん。葬式以来だっけ。えっと、そちらの子は……」

「あ……こんにちは」

 黒髪の男は挨拶をしつつ律紀に視線を変えると、律紀も気付いたのか控えめに挨拶を返した。

 その様子を見ながらなるべく手短に済ませようと声をかける。だんだん暑さも強くなって早く律紀を涼しい場所へ連れて行きたかったが、実を知る関係者なら邪険にする訳にはいかない。

「お久しぶりです。こいつは幼馴染でよく兄とも一緒に遊んだりしてたんです」

「あ、そうなんだ? 前に灰咲からも聞いてたけどやっぱり話に聞いてた通り可愛いね」

 可愛いと言葉が出た途端に、律紀が首を傾げてた気がする。あまり触れないようにわざと苦笑いをして律紀から話題を逸らそうとした。

「あの……兄から聞いてたって?」

「ああ。灰咲が話してたんだよ。休みの日何してるか聞いたことあったんだけど、幼馴染とよく遊んだり勉強教えてるって。可愛くて物分かりが良いって」

「お兄ちゃんが……」

「あいつ本当に誰にでも優しすぎるくらい、いい後輩だったなあ。残念だよ」

 そう言って悲しそうに空を見上げた男の言葉を聞きながら、何て返そうかと俯きがちになる反面で、内心嘲った。

「……それで、その花は」

「灰咲にと思って。でも供えるよりも弟くんに預けた方が良さそうだ。貰ってくれないか?」

「勿論です。あと兄に花と一緒にメッセージカードくれた人達と知り合いでしたら、代わりにお礼を伝えて下さい」

「うん、よく一緒にいるから伝えておくよ。邪魔して悪かった。俺はこれで……」

 そう話しながらじっと自分を見ている様子に気付いて、不思議そうに首を傾げる。

「……どうしました?」

「……いや、弟くん灰咲にそっくりだなって。兄弟だからそりゃ似るよな。じゃあ、また」

 からからと笑って手を振る男に、言葉を返さずただ笑顔で手を振った。遠ざかる姿を見送りながら、今度こそ律紀にカフェに寄って涼しんでから帰ろうと誘う。

 想いが込められた様々な花とメッセージカードの入ったビニール袋がやけに重たく感じて、事故現場を一瞥しながら歩き出した。



 あれだけ暑かった温度とは一転して涼しい空間で一息つくことが出来て、夏の季節でしか売っていない果物系のジュースと組み合わせたアイスティーにストローを差した。律紀も同じくストローを差して掻き回しているようだった。

「お兄ちゃん今でもあそこに来てくれる人達がいるんだね」

 さっきの先輩やメッセージカードを見ての発言だろう。知らない兄の一部分を改めて知ったかのようにぽつりと呟いていた。

「あれだけ人望あったらそうだろうね」

 死んでからも実は色んな人に好かれていた。それは間違いようのない事実で、誰かにとっても優しくて完璧な人間だった事を示してくれる。あのメッセージからも、あの先輩からも、悲しくて仕方ないといった感情を抱えているのが目に見えて、馬鹿だなぁと思わず笑いそうになった。


 ――何も知らないくせに、悲しんでくれて当たり前の日常に戻っている。


「……央くん?」

 いつの間にか窓の向こうを眺めながらぼんやりしていたようで、律紀がジュースを飲みながらこちらを見ていた。誤魔化すように苦笑を向ける。

「あ、ごめん。……兄さんもきっとびっくりしてるんじゃないかな。分かんないけどね」

 穏やかな声色で呟き返して、新たに何か頼もうとメニュー表を手に取る。

 学校で噂になっていたアイスティーは冷たくすっきりしていて、夏を感じさせる味がしていた。



 また明日、と律紀と別れて家に入る。しんとした明かりのない静寂が安堵させる様に迎えてくれた。リビングのテーブルに残された夕飯用のお金と書き置きの紙に目もくれず、二階に上がって自分の部屋に入った。

 母は実が死んだ現実を避けるみたいに、表向きは自分の趣味を仕事にしたいからという名目で夕飯の時間を過ぎても仕事で忙しくするようになった。幸い父もそんな母に無理強いはせず、父にも仕事があるのに自分に出来得る限りの事をこなせる人物で、家事分担という形でお互い母を支えていた。元々そういう仕組みで、父も多分母の気持ちが分かっているのだろう。少しでもいつも通りに生活を続ける事を選んだ。そういえば今年の盆はどうするつもりだろうか。

 あの事故以来、母は家事も料理も何もかも手に付かず、一日中泣いていた頃に比べたら変化はあるのかもしれない。それでも実を買い出しに行かせた自分を責め続けていて、今も実がいた部屋に入れない程だ。

 だから仕方ない。そんな愚かな人達の姿を内心で笑ってやっていた。


 何一つも本当の事を知ろうともしない。別にどうだっていい。

 不幸になってくれれば、あとはどうなろうが構わない。

 何も知らない馬鹿でいろ。

 俺の隣には律紀がいればいいのだから、誰にも求めない。

 ずっとそう思っていたはずなのに。


 机の引き出しを開けて無機質さを感じさせる一つの白い封筒を手に取る。中身は開けずにただ眺めては、興味を失くしたように元の場所に戻して、ベッドに座りスマートフォンの画面を起動した。

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