夕焼けに永遠を

 見覚えのある景色が視界に映り込んだ。

 昔はよく行っていたけれど今は一人では行かなくなった公園からの帰り道。

 そこに本来いるはずのない兄が目の前に立っている。

 そうだ、此処は兄と一緒に家に向かって歩いていた道だ。だからこれは、きっと過去の思い出。

「     」

 何かを言っているようだったけれど、聞こえない。その代わりにいつも笑顔を浮かべていた彼の顔は無表情で、冷め切ったような目をしていた。



 目覚まし時計のアラームが自室に響く。はっきり言って目覚めはあまり良くない。

 久しぶりに兄の夢を見てしまった気がすると、溜息をつきながらハンガーにかけられた白衣を眺めながら頭の中で覚えている限りの夢を再現した。あれは確かに過去だ。

 最近見なくなったと思えば、決して忘れるなというばかりに現れて来る。


 兄――灰咲実はいさきみのるは優秀で気取らない人間だった、と思う。

 両親からも幼馴染からも好かれていて、多分誰一人彼を悪く言う人はいなかった。

 それはそうだろう。決して人前では後ろ向きな発言はしなかったし、頼まれた事を嫌な顔一つせずやり遂げてきた事だって珍しくはなく純粋無垢を纏ったような白衣を着ていて、堂々としていた。

 唯一目に見える欠点があるとするなら、猫には好かれるのに犬には吠えられるほど動物とは相性が悪いこともあるぐらいだろうか。大声で散歩中の犬に威嚇されたその時の実の表情はいつも浮かべる柔らかな笑顔ではなく、困惑に近い無表情だった。

 あれは「何で央には懐いて俺だけ?」と本当にどうしていいか困ってるみたいでちょっとだけ面白かったのは、今でも自分だけの秘密にしておいている。それぐらい、灰咲実は完璧な人間だった。きっと、これから先もそうだろうと。


 そんな人でも、二年前に母親に頼まれた買い物に行く途中に事故でトラックに衝突されて死んだ。

 律紀達と四人で遊ぶ約束を取り付けたばかりの出来事だった。


「…………」

 律紀が実に懐いていたのも知っていたし、実も律紀を甘やしていたのもよく覚えている。楽しい思い出もあるが、それだけじゃない思い出も同時に甦ってくる。

 そういえばあいつ、あの時何か言ってたんだっけ。俺が適当に聞き流したから覚えていないだけかもしれない。

 ――どうでもいいか。当の本人にはもう聞けないのだから。

 最後に家を出て行った実の後姿が、やけに頭から離れなかった。



 大声で楽しそうに騒ぐ生徒達の声、忙しそうに夏休みに向けて書類を持って廊下を歩く教師の姿。いつもと変わらない風景を今は知らないフリをしていたい気分だった。

 教室の窓から見える校庭には、校門に向かって下校する生徒の人影がいくつもちらついている。それが何だか葬列のようで、意図せずに実の葬式を思い出してしまう。


 葬式では色んな人が来て悲しんでいた。両親に、親族に、幼馴染達に、実の友人らしい人やクラスメイトの姿も多く見かけた。そして、棺の中の実に触れて泣き崩れる母親に寄りそう父親の姿。

 どう振る舞えばいいのか分からなくて、思うように動けなかった。そんな不自然でしかない自分の様子は誰かの泣き声や悲しみが渦巻く場では自然だったらしく誰かが「可哀想に」と呟いていた事だけが頭の中にこびり付いている。

 可哀想って、何だろうか。

 だけど一番印象に残っていたのは葬式ではなくて、霊安室で冷たく横たわる実の死体と度々テレビのニュースで流れていた実の事故現場の映像だった。

 死亡事故の被害者としてテレビで読み上げられ、新聞の記事にひっそりと載る実の名前。家中に響く母親の泣き叫ぶ声を聞きながら、日常から非日常へと変わっていく感覚。それらを眺めながら母親の悲しみに寄り添おうとする自分が高揚感を覚え始めていた事に自覚したのもそう時間はかからなかった。

 

――多分、あの日から全部変わったかもしれない。灰咲実が死んだ日から、ずっと。



「央くん? 日直終わった?」

 聞き慣れた声に思わず我に返り、振り返る。通学鞄を持った律紀がドアの前で首を傾げて不思議そうにこちらを見つめていた。いつの間にかクラスメイトは誰もいなくなって教室には自分と律紀だけが取り残されたように立っていた。

「あれ、もう誰もいないの?」

「うん。みんなもう帰ったよ。央くんは何見てたの?」

「ああ、ちょっと校庭を見てたんだ。息抜きみたいなものかな」

 これは嘘ではない。考え事をしていた事を除けば実際日直の仕事で残っていたのは事実で、記録をつければ後は鍵をかけて帰るだけだった。

 ふと今朝見た夢の実の冷めた目を思い出す。今日は偶々そういう日なんだろう。そういえば夏休みだけではなく、盆も近かった。

 亡くなった人が一年に一度だけ自宅に帰って来れる時期だというけれど、実際どうなのだろうか。そんな事全く信じていないけれども。

 意を決したかの様に律紀に改めて声を投げかけた。

「あのさ、律紀。来週の日曜日空いてる? 今度兄さんの所に行こうと思ってるんだけど良かったら一緒に行かない?」

「お兄ちゃんの墓? それだったら……」

「墓じゃないんだ」

 律紀が首を傾げた所に、ゆっくりと大事な話をする物言いでその先の言葉を紡ぐ。

「現場……兄さんが死んだ場所だよ」

 つまり、実が死んだ交通事故の現場に行く――そう聞いて律紀は微かに目を大きくした。

 驚いたのかもしれない、あるいはそういう話を切り出した事に意外性を感じたかもしれない。「実個人」の話はしていても、「実の事故」について話題にするような事は中々なかったのだから。

「それって、あの十字路を通るってこと?」

「そう。兄さんの友達とか知人があそこに花を供えてくれてるって聞いてちょっと様子を見てみようかなって。盆の時期も近いから多分そろそろ新しい花に変わってるんじゃないかな……勿論無理にとは言わないよ。ただ墓地に行くよりも身近な所に行こうって思っただけだから」

 話を終えて自分でも何言ってるのだろうと困ったように苦笑いする表情を見せる――フリをした。実際、両親でさえあの日以降実が死んでしまった現場を通ろうとしないし、あえて別ルートを使って遠回りしているぐらいだ。ましてや幼馴染の死亡事故現場なんてものは、普通ならば気分のいいものじゃないだろう。きっと気にしないのは自分ぐらいかもしれない。


 ただ、思い出した。

 律紀が実に甘えていた事を。


 だからかもしれないが、律紀に不幸を振り返って欲しくなった。時の流れで緩やかに劣化していく思い出の匂いと共に確かに在ったいつかの不幸に胸を痛めて欲しくて、あえて兄の死を使って誘った。そんなこと考えていたなんて律紀には絶対に言わないけれど。

 この目が見える所で、この手が届く範囲内で不幸になってほしい。そうしたら、きっと俺は。

 

「帰ろうか。鍵、職員室に戻さなきゃな」

 カーテンの隙間から漏れた夕方の光がきょとんとした表情の律紀を照らしていた。ほんの少しだけ目を細めて普段と変わらずに何も知らない幼馴染に微笑みかける。



 もしも天国があるとするならば、きっと誰もが灰咲実は天国にいると信じ切ってくれるだろう。

 だけど、実は――あいつはきっと地獄行きだろうから。

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