第五話    衣 食 (いしょく) Ⅱ

「君はアシュヴァルで……自分は——」


「だから、それはもういいって言ってんだろ。今は忘れろ。食って寝て、そんで二、三日もすりゃ思い出すだろ。思い出せねえってなったら……ま、そんときはそんときだ!」


 再び項垂れそうになる少年に対し、アシュヴァルは機先を制するように言った。


「……うん」


 答えて自身の手元に視線を落とす。


「アシュヴァル、これ……食べるもの。その——ありがとう」


「ん? ああ、構やしねえって」


 空になった皿を示しながら礼を言えば、アシュヴァルは恩に着せるでもなく、何事もなかったかのように答える。


「あ——」


 ふと何かを思い出す。

 自身が何者であるかも、どこから来たのかもわからないが、この状況で取るべき行動が漠然と頭の中に浮かんでいた。


「その、持って——ないんだ」


「あ? なんのことだ?」


「丸だったり四角だったりして——値打ちがあって……」


 身ぶり手ぶりを交えて説明を試みる少年に対し、アシュヴァルもまたその言わんとするところを読み取ろうと前のめりになる。


「それでいろんなものと交換して、自分のものにできる——」


「んん——? あ……」


 アシュヴァルはその言葉の示すものの正体に感づいた様子で、あぜんとして目を見張りながら言った。


「……お前、ひょっとして金のこと言ってんのか?」


「かね——」


 その言葉の持つ響きを確認するように呟いたのち、噛み締めるようにうなずく。


「——そうだ、お金」


「お前……飯の食い方も覚えてねえのに金のことは覚えてんのか。本当、訳わかんねえ奴だな。それによ、金持ってねえことくらいひと目見たらわかるって。はなから素っ裸の奴に期待するほうがどうかしてるぜ」


 苦笑交じりに言って、アシュヴァルは肩をすくめてみせる。


「は——裸……」


 少年は自身の身体を改めて見下ろし、身を包んでいるのが布一枚であることを再確認する。

 目の前のアシュヴァルや店の二人、往来を行く人々も当然のように衣服を身に着けている。

 身体を覆う衣服も被毛も持たない自身に急に居たたまれなさを覚え、恥じ入るようにうつむいてしまった。


「恥ずかしいって感覚はあるんだな」


 そんなしぐさを目にし、アシュヴァルはおかしげに言って立ち上がる。


「——飯の次は服だ。いろんな奴がいるっつってもよ、さすがにいつまでも素っ裸で人前歩かせるわけにはいかねえからな」


 主人と給仕に向かって軽く手を掲げて店を出るアシュヴァルに倣い、少年も二人に手を上げてその後に続いた。


「どうだ、歩けそうか?」


 尋ねるアシュヴァルに、繰り返しのうなずきを返す。

 満足に歩くこともできなかった状態から、彼の施してくれた十分な食事を得て着実に身体が回復しているのがわかる。

 自身の身体の示すあまりに正直過ぎる反応に、いくばくかの羞恥を覚えずにはいられない。

 だがアシュヴァルはそんな少年の様子など意に介するそぶりも見せず、満足そうにうなずいて先へと歩き出す。

 頭からかぶった麻布を胸元で引き合わせると、少年は置いていかれてしまわないよう速足で彼の後に続いた。


 アシュヴァルに連れられて向かった先は、多くの店舗が立ち並ぶ大通りから一本外れた路地にある小さな店だった。

 狭苦しい店内の壁に造り付けられた背の高い棚には無数の布が収められ、店の奥にはさまざまな道具に埋もれた店主らしき人物の姿がある。


「今日はもう看板だよ」


 来客の気配を感じたのか、店主は作業台に目を落としたまま面倒そうに告げる。

 その言葉を聞いてアシュヴァルを見上げたが、彼は腕を組んだまま一切動くそぶりを見せなかった。

 立ち去ろうとしない二人を視界に捉えたのだろう、店主は作業の手をいったん止めて顔を上げる。


「なんだ、お前さんか。用事なら手短に頼むよ」


 店主はアシュヴァルを見上げながら言うと、すぐに視線を落として作業を再開した。


「忙しいとこすまねえな、爺さん。こいつに一着見繕ってやってほしいんだ」


 アシュヴァルの言葉を受け、店主は再び手を止めて立ち上がる。

 少年の間近まで歩み寄った彼は巻き付けられた麻布を剥ぎ取ると、手足に触れたり巻き尺を当てたりしながら、身体つきを手早く採寸し始める。

 納得したようにうなずいた店主は店の奥へと引っ込み、わずかな間を置いて色と意匠の異なる数着の衣服を手にして戻ってきた。


「子供用で悪いが、お前さんに合うのはそれぐらいだ。気に入ったのがあれば持っていくといい。決まったら丈も直してやるよ」


 店主は一方的に言って手にしたそれらを押し付け、再び作業に戻ってしまう。


「これがいいんじゃねえか」


 受け取った数着の衣服の中からどれを選んでいいかわからず頭をひねる少年に代わり、生成り色の衣服を選んでくれたのはアシュヴァルだった。


 前開きの上着と下半身に身に着ける段袋だんぶくろに加え、上下用の肌着をそろいで用立ててもらう。

 さらに店主が追加で見立ててくれたのは、藁を編んで作った草鞋わらじだった。

 聞くとその履き物も衣服同様に足裏の皮膚の柔らかい子供の履く品らしい。

 少年の身体では素足で外を歩くのは難しいのではないかというのが、店主の見立てだった。


 用意してもらったぬれ手拭いで汚れた顔や身体を拭きながら、丈直しの作業が終わるのを待つ。

 手の届かないところはアシュヴァルが拭いてくれたが、その荒々しい手つきに小さな悲鳴を上げるたび、彼は「悪い悪い」と何度も謝罪の言葉を口にした。


 裾上げの終わった衣服を手渡され、恐る恐るそれに袖を通す。

 少年が尾を出すために開けられた穴を前にして段袋をはくと、アシュヴァルは腹がよじれんばかりに笑い転げていた。

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