百从(ひゃくじゅう)のエデン
葦田野 佑(あしたの たすく)
第一章 彪 人(とらびと) 篇
序節 荒れ野に目覚め
第一話 邂 逅 (かいこう) Ⅰ
日の光の届かない暗闇の底に、槌打つ音だけが響いていた。
明かりといえば岩壁に間隔を置いて据え付けられた壁灯と、地中深くに潜る者たちが腰からつるしている角燈だけだ。
満足に周りの見通せない環境の中で、誰もが黙々と岩壁に向かって鎚や
屈強な坑夫たちに交じり、少年は今日も早朝から数時間にわたってひたすらに壁を打ち続けていた。
「よし——! やった……!」
掘り出した自身の拳ほどの大きさの鉱石には、わずかな明かりの中でも鈍く輝く金色が含まれているのが見て取れる。
喜びに表情をほころばせて呟くも、周囲をうかがえば他の坑夫たちは同じ時間で三倍かそれ以上の成果を上げていた。
土と泥にまみれた手で頬を張って気を引き締め直すと、十字鍬を握り締めて再び目の前の岩壁に向き合った。
少年がこの地に流れ着いた日から、二月ほどの時が経っていた。
見渡す限りの砂礫の荒野を歩き続け、この鉱山の麓で気を失って倒れ込んだ日のことは今でも昨日のように思い出せる。
その後は幾つかの曲折を経て、少年は鉱山で採掘作業に従事する坑夫を当座の身過ぎとする。
生きていくために選ばざるを得なかった、といったほうが正確かもしれない。
土埃と粉塵の舞う坑道の中で、どこに眠るとも知れない金鉱石を手探りで掘り当てるのが、この鉱山で働く坑夫たちの——そしてその一員である少年の仕事だった。
坑夫たちがこもるのは天然の洞窟ではない。
発破を用いて掘削された本坑からは、四方八方に枝分かれするように副坑が延びている。
これだけ掘り進めるのにいったいどれほどの時間と労力を要したのだろうと働き始めた当初は想像を巡らせたものだったが、周りの坑夫たちの仕事ぶりを見てすぐに得心させられる。
そこで働いているのは、少年とは大きくかけ離れた姿形を有した者たちだった。
鉱山の責任者は、黒褐色の縮れた被毛に身を包み、湾曲した角を頭部の左右に頂く巨漢であり、彼以外の坑夫も皆文字通り毛色の異なる被毛をまとった力自慢たちだ。
「
鉱山で働き始めてから今日に至るまで、少年は自身のように貧相な身体の持ち主に出会ったことがなかった。
全身が分厚い被毛の層で覆われている他の獣人たちと比べ、毛は頭から申し訳程度に生えるのみだ。
頭部以外はもろく傷つきやすい皮膚がむき出しになっている始末であり、働くたびにそこかしこに傷を負い、青あざを作って帰るのがお決まりになっていた。
「皆ご苦労だった!! 今日はこのあたりにしておこう!!」
鉱山の責任者である黒褐色の被毛の男の号令により終業が告げられる。
一日の仕事を終えて坑道を後にする他の坑夫たちの列に並び、少年も責任者の手からその日の給金を受け取った。
その後は泥と汗で汚れた身体をすすぐため、近くを流れる川で水浴びをするのが毎日の日課だった。
川の水はお世辞にも澄んでいるとはいえなかったが、泥まみれの身体でいるよりは幾分かましだ。
次々と飛び込んでいく坑夫たちに交じって着衣のまま川に身を沈めると、頭の先まで水に潜って汚れを洗い流した。
水浴びを終えた坑夫たちの関心は、すでに仕事上がりの遊興のひとときに傾いている。
鎚や十字鍬の振るい方だけでなく、共に働く人々のことも少しずつわかり始めてきた。
一攫千金を夢見てやって来た者や、故郷を離れて家族のために働く者。
借金返済のために労働を余儀なくされている者に、複雑な事情があって他に行く当てのない者など、境遇は違えど誰もが皆何かしらの事情を抱えている。
過酷な環境下で働く抗夫たちにとって、仕事終わりの食事と酒、そして密やかに催されている賭け事の場は息抜きや憂さ晴らしにひと役買っているようだった。
中には本来の目的を見失い、賭け事で作った借金を返すために泣く泣く仕事を増やす破目に陥る者たちもいるらしいが、大多数の抗夫たちは自分自身でうまく折り合いを付けながら毎日の仕事に勤しんでいる。
くせ者ぞろいで一筋縄ではいかない者たちばかりの鉱山では、当然抗夫同士のいさかいも日常茶飯事だ。
顔を突き合わせての言い争いを始める二人の抗夫と、数人が手を打ってはやし立てる様を遠目に眺めながら、少年は濡れた衣服を川辺にたかれた火に当てて乾かしていた。
「——おう、待たせちまったな」
声を掛けて少年の元に歩み寄るのは、黄と白の地色に黒の縞模様の刻まれた被毛の大柄な男だ。
がっしりとした身体の中でも特に肩回りが発達しており、前傾気味の姿勢も相まって背中の筋肉は表皮を押し上げるように盛り上がっていた。
踝まで届く赤色の腰布以外は何も身に着けてはいないものの、色鮮やかな被毛はどんな衣服よりも目を引いた。
「アシュヴァル! も、もうちょっとだけ待ってて——!」
頬を緩め、近づいてくる男の名を呼ぶ。
乾かし終えた衣服に急ぎ袖を通す少年を横目に眺め、アシュヴァルと呼ばれた男は川辺の岩に腰を下ろす。
辺りに夕闇が落ち始める頃、二人は連れ立って山を下りる。
「今日もうまくできなかったよ……」
「——ん? そんな焦んなって。嫌でもそのうち慣れるんだからよ」
一日の仕事の成果を思い返して落胆する少年に対し、後頭部で手を組んだアシュヴァルが歩きながら言う。
「……うん」
呟くように答え、さらに深く肩を落とす。
アシュヴァルはその様を横目で見下ろすと、何も言わずに少年の頭部をくしゃくしゃとなで回した。
少年にとって、アシュヴァルは命の恩人でありたった一人の友人だ。
行き倒れ寸前だったところを拾ってもらった上に、食事と衣服と寝床まで与えてもらっている。
加えて鉱山の仕事を紹介してくれたのも他でもない彼だった。
アシュヴァルは獣人の中でも「
坑夫ではない彼だが、その腕っ節の強さから鉱山とその麓の町で知らぬ者はいない。
現にこうして二人で歩いていても、往来を行く人々の多くは彼を目にするや自ら進んで道を譲った。
当のアシュヴァルは周囲の思惑など知ってか知らずか、泰然自若とした態度を崩さなかった。
鉱山から麓の町へと続く長い勾配を下り、掘っ立て小屋のような商店が軒を連ねる大通りを進む。
その中でも一層貧相な外観をさらす、ひいき目に見ても繁盛しているとは言い難い店構えの建物が、少年とアシュヴァルの通うなじみの酒場だった。
無口な主人と常に気だるげな給仕の二人で営む酒場は十五人ほども客が入れば満席の手狭な店だが、少年が自身とアシュヴァル以外の客の姿を見たのは数える程度だった。
二人は普段通りに奥の卓に着く。
給仕の女が物憂そうな足取りで注文を聞きにくると、アシュヴァルは品書きに目を通すことなく二本指を立ててみせる。
給仕が厨房に注文を通せば、調理を担う店の主人も慣れた手つきで鍋を振るう。
何も変わらない、いつも通りの流れだった。
アシュヴァルは給仕によって運ばれてきた料理を口いっぱいに詰め込みつつ、向かい合って座る少年の手を無遠慮に取る。
掌に視線を落としながら口の中身を一気にのみ下すと、眉間に皺を寄せた彼は気遣うような口ぶりで言った。
「なんべんも言ってるけどよ、あんまり無理すんじゃねえぞ。お前一人ぐらい俺が面倒見てやるって」
「うん、ありがとう。でも……世話になってばかりじゃいられないから」
「ご立派なことで」
あきれ気味に言って握っていた手を放り出し、アシュヴァルは再び料理を口に運び始める。
少年は自分自身を奮い立たせるように、負傷と治癒を繰り返すことで硬くなった掌を強く握り締めた。
「あ、そうだ——」
思い立ったように衣服を探ると、
「——これ、今日の分だよ。いつもありがとう」
「おう、預かっとく」
アシュヴァルは差し出された銅貨を受け取り、腰布にくくられた麻袋の中へ雑な手つきで突っ込んだ。
「今より、もっともらえるように頑張るよ——!」
「ほどほどにな」
意気込む少年に対し、アシュヴァルは食事を進めながら言い聞かせるように言った。
出来高払いの鉱山の仕事において、少年の一日の給金は他の坑夫たちに遠く及ばない。
一定量以上の金を掘り出した者に与えられる報償金を得られたことも過去一度としてない。
それでも鉱山において不当な扱いを受けていると感じたことはなく、相応以上の待遇をもって働かせてもらっているのも、アシュヴァルの口利きのおかげだと理解している。
一刻も早く一人前になりたい。
他の抗夫たちに負けない給金を得られるようになって、拾ってくれたことに対する恩返しがしたい。
それが少年の偽らざる本心だった。
食事を終え、いつも通り支払いを付けにしてもらって帰途に就く。
故郷を離れて鉱山に労働にやってくる坑夫たちのため、有り合わせの木材を使って建てられた細長い建物のひと部屋が二人の住まいだった。
長屋の裏手にある井戸で改めて水を浴び、一つしかない寝台で背中合わせになって眠る。
そうして一日は終わり、翌朝目覚めれば待っているのは鉱山の仕事だ。
明日は今日よりも良い結果が出せるように——そんな願いを抱きながら眠りに就く。
◇
鉱山で働き始めて三月ほどが経ったその日も、仕事を終えた少年はいつも通りアシュヴァルと共になじみの酒場で食事を取っていた。
繰り返される日常の中で普段と変わったことがあるとすれば、いつになく上機嫌のアシュヴァルが限界を超える量の酒を飲んだことだ。
その結果、彼は真っすぐ立つことができないほどに酩酊していた。
肩を貸して歩こうにも、少年とアシュヴァルでは体格差からして大きな開きがある。
それでもなんとか倒れ込まずにその身体を支えられているのは、三月にわたる鉱山での労働が身体を鍛えてくれていたからなのかもしれない。
だがそれも、あくまで支えるという点に限っての話だ。
小柄な少年の力では、崩れ落ちる彼の身体を押しとどめることはできなかった。
「うわあっ!! ア、アシュヴァル!!」
均衡を崩した彼の身体が往来の中央に転がり出るのと、何かが近づいてくる地鳴りのような音に気づくのはほぼ同時だった。
音のする方向を振り返って見たのは、木製の車輪をきしませて迫る一台の荷車だった。
夜半前とはいえ、往来にはまだ多くの人々が行き交っている。
それにもかかわらず荷車はまったく速度を落とす様子を見せない。
「んんっ——!!」
自ら後方に倒れ込むようにして、アシュヴァルの腕を思い切り引き寄せる。
紙一重のところで輪禍を免れはしたが、当の荷車は何事もなかったかのように走り去っていった。
道端に倒れ込んだ体勢のまま、遠ざかる荷車に恨みがましい視線を投げ付ける。
見ると後方の荷台を覆う幌が風を受けて大きく翻っており、積まれた幾つかの荷物が姿をさらしていた。
大部分は商品を収めた木箱なのだろうが、一つだけ形状の違うものがある。
それは格子状に組まれた金属の棒からなる檻だった。
視線と意識が、何か強い力に引き寄せられでもするかのように檻へと向く。
そしてその内に一人の少女の姿を捉えていた。
被毛のない皮膚と骨の浮いた薄い身体に、
散切りにされた頭部の毛の隙間からのぞく瞳は、通りの脇にたかれた篝火の明かりを受けて仄赤く輝いて見える。
ひと目見た瞬間、少年は檻の中の少女が自分と同じだと確信していた。
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