第二話    邂 逅 (かいこう) Ⅱ


 始めにしたのは息を吸うことだった。


 不意に覚えた息苦しさに慌てて息を吸おうとを試みるが、むせるようにせき込んでしまう。

 勢いよく空気を吸い込み過ぎたせいだろう。

 乱れた気息を整えるように吸ったり吐いたりを繰り返すうち、胸の詰まりは少しずつ解消されていった。

 仕上げとばかりにひときわ大きな深呼吸をして胸の中を空気で満たすと、少年は閉じられていたまぶたを静かに開ける。

 目に映ったのは、雲の低く垂れ込める薄暗い空だった。


 天を仰ぎ見ているとわかるのは、背面に何かが触れている感覚があるからだ。

 背中に伝わる鈍い痛みに、自身が大地に横たわっていることを知る。

 身をよじってみるが、四肢は自由に動いてくれない。

 苦心の末に眼前に持ち上げたそれが左右の手だと把握するのに、少なからずの時間を要した。

 慣らすように手指を動かしているうち、徐々に身体の隅々にも意識が伝わっていく。

 肘を折り、前腕を支えにして上半身を起こすと、次は頭部を左右に動かして辺りを見回した。

 そこでようやく、自らの置かれている環境に気付く。


 目に映るのは茫洋と広がる一面の岩と砂、荒涼とした景色は遠く大地と空の境界を区切る地平線まで続いている。

 しばらくはぼうぜんと周囲の風景を眺めていたが、この場にとどまっていても事態が好転する見込みはないことに思い至る。


 両手で身体を支えながら、両脚に力を込めて立ち上がる。

 直後は頼りなく泳いでいた二本の脚だったが、二度三度と転んだ後は思いに応えるように身体を持ち上げてくれた。

 背中と臀部の柔らかい皮膚に食い込んだ砂礫を手を使って払い落とすと、口の中にたまった砂はどうしていいかわからず、思い切って唾液と一緒に飲み下した。


 今一度ぐるりと周囲を見渡し、進むべき方向を見定める。

 これといった目印の見当たらない中で行く先として選んだのは、はるか遠方に見える岩山だった。

 四方に広がる磽确不毛の荒野にあって、その岩山だけがただ一つ自身に存在を訴え掛けているような気がしたからだ。

 おぼつかない足取りをもって、最初の一歩を踏み出した。



 歩みを進めつつ、少年は自らのことについて思いを凝らした。

 自分自身が何者であるのか、ここがどこなのか、なぜこのような場所にいるのか。


 どれだけ思考を巡らせてみても思い出せることは何一つなく、その段になって目を覚ますまでの一切の記憶が失われていることに気付く。

 眠りに就いた記憶のない状態での意識の覚醒を目覚めと呼んでいいのかは疑問だったが、置かれた状況を表す言葉を他に知らなかった。


 幸いだったのは息をすることや歩くこと、考えることまでは忘れていないという点だ。

 いささかぎこちなくはあったが、身体も生きるために力を発揮してくれているような気がした。

 見る、聞く、触れる。

 頭部に配された感覚器を含め、身体の各部の持つ役割も次第にのみ込めてくる。

 身に宿る機能の一つ一つを確認しながら、はるか遠方に望む岩山の方角を目指して進んだ。



 乾いた風が砂を巻き込んで吹きすさぶ。

 目鼻に入らぬよう手で顔を覆って歩くが、常にそうしていては進むべき方向を見誤りかねない。

 時折薄目を開けては目指すべき岩山を確認し、広漠とした大地を一心不乱に進み続ける。

 そうしてどのくらい歩いただろうか、不意に足裏に激しい痛みを感じてうずくまった。

 尖った小石を踏んで傷ついただけでなく、荒れた地面を踏み締めたことで足裏の皮膚が所々擦りむけている。

 足先を抱え上げるようにして小石を抜き、再び立ち上がって歩き始めた。


 足裏の傷以上に少年を苦しめたのは、喉の奥に感じる焼け付くような痛みだった。

 身体が訴える兆候が渇きであると直感的に理解したのちは、乾いた大地に水を求めてさまよった。


 運よく岩場の陰に水たまりを見つけ、泥臭くよどんだ水を両手ですくい上げては夢中ですする。

 渇きが解消されると、続いて襲ってくるのは強烈な飢えだ。

 だが不毛の荒野のどこを見渡してみても空腹を満たす手段は見当たらず、腹のうなりを耐え忍びつつ歩き続けた。


 そうして歩くに従って、辺りは刻々と闇に包まれていく。

 立ち止まってなどいられなかったが、あいにく少年は闇の中で遠方の岩山を見通す目を持ち合わせていなかった。

 大地に煌々とした輝きを投げていた光と入れ替わりに現れたもう一つの光を見上げながら、岩陰に身を寄せ、膝を抱えて夜明けを待つ。

 むき出しの肌を焼く昼間の暑さから急転して襲いくる猛烈な冷え込みには、身体を丸くしてこらえるより他なかった。



 日の出を待って、再び歩き出す。

 極度の疲労感と身体のあちこちを苛む痛みに耐えながら無理を押して進むうち、岩山は間近にまで迫っていた。


 地上に落ちる影を目に留め、はたと頭上を仰ぎ見る。

 逆光の中で姿形を正確に捉えることはできなかったが、雲間を切り裂いて飛ぶ何かの姿が見て取れた。

 その飛び去る先を視線で追った少年は、岩山の上に動く幾つかの物影を認めていた。

 何かがあるという確信の下にこの場所を目指したわけではなかったが、そこに自身以外の他者の気配を感じ取る。

 そう考えてみれば目の前の岩々も、なんらかの意図を持って積み上げられているように見えてくる。


 全身を駆け巡る安堵感に気を弛めたそのとき、頭上から飛んでくる何者かの声を聞いた。



「——危ねえぞ! そんなとこで何やってんだ!!」



 注意を喚起するように放たれた声に、立ち止まって頭上を見上げる。

 目に飛び込んできたのは、切り立った断崖から転がり落ちる巨大な岩の塊だった。

 崖下に積み上がった岩々の上を跳ねるように転がり、地響きにも似た轟音を上げて地上に落下した塊は、少年の脇すれすれを通り過ぎて動きを止める。


 頭上からの声に足を止めていなければ、転がる岩に押しつぶされていたかもしれない。

 遅れてやって来る恐怖感に全身の力を奪われ、虚脱状態に陥った少年はその場にへたり込んでしまった。

 それをきっかけに張り詰めていた緊張の糸は切れ、視界が傾くようなひどい目まいに襲われる。

 ほんの一瞬意識が飛んだかと思うと、うつぶせの姿勢で地面に顔を擦り付けていた。


 取り囲まれているのだろうか、辺りに他者の気配を感じる。

 倒れ伏しているため視認はできないが、ぼそぼそとささやき合うような声も聞こえてくる。

 立ち上がろうにも力の抜けた身体はなかなか言うことを聞いてくれない。

 それでも残された気力をどうにか振り絞り、肘を立てて上体を起こしたところで、取り巻くように立ち並んだ者たちが慌ただしく左右に分かれる光景が目に飛び込んでくる。


 かすむ視界に映ったのは、人垣を割って現れた一人の男の姿だった。


 黄色と白色の地に走る黒色の罅裂かれつ

 その特異な風貌は、目が覚めるほどの鮮烈さを放っていた。


 うつぶせの少年の元まで音もなく歩み寄ると、男は腰を落として口を開く。


「——おい、大丈夫か?」


 まずは言葉を聞き取ることができたという事実に胸をなで下ろし、次いでその内容が自身を労わるものであったことに安堵する。

 口調は素っ気なかったが声音に聞き覚えがあるのは、男が先ほどの注意を促すように発せられた声の主だからだろう。


 言葉は通じるものと解釈し、少年も自らの置かれた状況を説明しようと口を開く。

 だが喋り方を忘れてしまっているのか、乾き切った口からはかすれた息が漏れるだけで一向に声が出ない。


「あん、どうした?」


 必死に何かを伝えようとしていることに気付いたのだろう、男は口元に顔を寄せてくれる。

 変わらず声を発することのできない少年は、半ば無意識に身を乗り出し、男の顔に手を伸ばしていた。


「お、おい——」


 突然顔に触れられて驚きの声を上げる男の反応など気に留めることなく、その顔を触り続ける。

 顔にも身体と同じ縞模様が刻まれているのがわかる。

 頬から伸びる白い被毛はそこだけ長く、頭上に位置する二つの耳は丸い。

 頬からやや湿り気のある尖った鼻先、厚みのある口元へと手を滑らせ、唇をまくり上げるようにして鋭い牙に触れた。

 意表を突かれてされるがままだった男も、少年の手が口周りから生える洞毛ひげに伸びたところではじかれたように飛びすさる。


「お、お前! な、なんなんだよ……!?」


 後方に倒れ込んだ男は、尻もちをついた状態のまま驚愕の叫びを上げた。


 男の言う通りだ。

 いったいなんなのだろう。


 男の放った疑問を、少年は自らの胸の内で繰り返した。

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