第30話


 次の日の夕暮れ、三人はやっと鉱山の麓にある街にたどり着いた。途中の小さな街で、役人に襲撃してきた男達の事を話し、宿屋に向かうよう指示していたので余計に時間がかかったのだ。


 この土地には、以前王族が使っていた屋敷がある。使用人も最低限の数はいて、普段はフランクがこの屋敷と公爵邸を行き来していた。


 三人は着いてすぐに湯浴みをした。昨日は風呂に入っていないし、ナディアについては返り血まで浴びている。そのあと食事を摂り、イーサンは溜まっている書類に目を通しに執務室へと向かった。


 執務室にある大きな机には書類が山積みになっていた。フランクが訪れているとはいえ、常駐しているわけではないのでやはり書類は溜まる。


 採掘された鉄の量、働いている鉱山夫の数、それに支払われている賃金。賃金についてはイーサンが領主となってから五割増しした。それでも仕事の厳しさから考えれば多すぎることはない。以前が少なすぎたのだ。


 とりあえず優先順位の高い書類に目を通し終わった頃、部屋をノックする音がした。返事をするとナディアがワインを持って入って来た。


「少し飲みませんか? 侍女が用意してくれました」


 ナディアがちょっと眉を下げ、困ったような笑顔を浮かべなからワインとグラスを見せる。どうやら当主が婚約者を連れてきたので、侍女が余計な気を回したらしい。そう分かっていても、イーサンの頬は思わず緩んだ。


 執務室の壁際にあるソファーに二人で並んで座る。ワインは赤。つまみには羊の乳から作ったチーズが数種類。


 あの精霊祭の日以降もナディアはそれまでと同じようにイーサンに接している。イーサンは変わらない様子に安堵しつつもどこか寂しさを感じていた。それが我儘な願いであることは充分承知の上でだ。


「予定が狂ってしまいましたね」

「仕方ない……それより昨晩はすまなかった」


 イーサンの言葉にナディアはクスクスと笑う。


「私の武勇伝をお見せできなくて残念です」

「随分勇ましかったようだな」

「ええ。ちゃんとイーサン様をお護りできて良かったです」


 ふっと笑われては、イーサンの立場はない。ナディアが三人もなぎ倒している間、ぐっすりと眠っていたのだから。起きてから昨晩の出来事を聞いたときには肝を冷やし、何ともいたたまれない気持ちになった。


「結局あの男達は何者だったのですか?」

「分からない。早馬からの情報では衛兵達が行った時には宿には誰もいなかったそうだ」

「宿主もですか?」


 ナディアが目を見開いて問うと、イーサンは渋顔で頷いた。


「男達は動ける状態ではなかったからな。逃げた仲間が助けにきたのかもしれない。宿主達は無事だと良いのだが」


 今度はナディアが眉を下げながら頷く。頷きながら何か引っかかるものを感じていた。


「それにしても、ナディアがあのスープを飲んでいたらと考えると恐ろしいな」

「はい。多分私達、今頃草むらに転がっていますよ」


 イーサンはもう少し護衛を連れて来るべきだったと後悔した。キャシーの兄は一足先にこの街に来ており、明日から一緒に鉱山に行くつもりだったが、ナディアの護衛に回って貰おうと考えている。うまく尾行して、遠くから見守るよう指示をするつもりだ。


「滞在期間が二日になりましたね。明日鉱山に行かれますが、護衛はどうされますか? 私がしましょうか?」

 

 クビクビと、気持ち良いぐらいの飲みっぷりでワインを傾けるナディアの顔には多少疲れが見える。


「この屋敷にも数人護衛がいるから彼らを連れていく。ナディアは疲れているだろうから休め」

「外出は禁止ですか?」

「多少ならよいが、変装してくれないか?」


 イーサンの言葉にすんなりと頷く。もとよりそのともりだった。見知らぬ街で女の一人歩きはいろいろ絡まれて面倒だ。





▲▽▲▽▲▽▲▽


 イーサンは朝から視察に行った。ナディアは遅めの朝食をゆっくり食べ、部屋で少し身体をほぐしたあと長い黒髪を帽子に詰め込み部屋を出る。


 内陸部だからだろうか、王都より季節の歩みが早い気がする。騎士時代、遠征で王都を離れることはあっても、知らない街を観光することはなかった。同じ国でも店先には、見慣れない布や食べ物が並んでいる。


 街の規模は小さく、歩いているのは庶民ばかりだ。それでも多少は大きな店もある。その内の一つ、ウィンドウガラスに映る姿を見てナディアはフフッと小さく笑った。


 まさか、婚約者から男装を薦められるとは思わなかった。さらに、絶対に知らない男に着いて行くな、話をするな、戦うより逃げろと念を押された。


(過保護すぎでしょう。私、結構強いわよ)


 でも、悪くない。ナディアはもう一度帽子を深く被り直すと、ウィンドウガラスを離れた。



 あの精霊祭の夜。


 思わぬ言葉が口から溢れ落ちたことに、誰よりもナディア自身が驚いた。イーサンは目を見開き僅かに頬を緩めたあと、苦しそうに眉を顰めた。


(私には言えない秘密がある)


 その秘密がイーサンを悪魔だと言わしめ、苦しめているように思う。


 シャツの胸元に触れ、その下に隠すようにつけていた白水晶もどきのネックレスを引っ張り出す。イーサンも同じ物をつけているのだろうと思うと、胸の奥がじわりと暖かくなり、そして苦しくなった。


 ナディアは暫くネックレスを見ると、再びシャツの下にしまい、歩き始めた。

 少し細い路地に入ると今度は屋台や、直接地面に品を置いて売る業者が目に入ってきた。


 路面に座る物売りにふと目が止まる。そこには大きな壺が沢山並んでいて、異国の香りが辺り一面に充満していた。どうやら香辛料を売っているようだ。そのそばには大小様々な緑色の瓶が並ぶ。中身はオリーブオイルのようだ。


 先程食べた食事を思い出した。塩とオリーブオイルを混ぜたものに、よく焼けたパンをつけて食べると、とても美味しかった。パンもだけれど、オリーブオイルが美味しい。聞けばここより馬で半日行った場所にオリーブの生産地があるらしい。


 小さな小瓶や大きな小瓶が沢山並んでいる。ナディアはワインボトルの半分ほどの大きさの瓶を手に取った。


「それは一番初めに抽出したいいやつ、おすすめだよ」


 日に焼けた四十代程の女店主が教えてくれた。ラーナのお土産はこれにしようと、ナディアは銀貨数枚を女店主に渡す。


「ありがとう。それからこれはオマケ。オリーブオイルに塩や香辛料をいれた私の特性の品。午前中に売り切れて小瓶しかないけれど持っておいき」


 そう言ってポケットに入るほどの大きさの瓶を手渡してくれた。緑色に光るその瓶の中で、とくりと液体が揺れた。


「ありがとう」


 小瓶はズボンのポケットにいれ、オリーブオイルが入った紙袋を片手で抱える。いつの間にか随分歩き回ったようで、日は傾きつつある。朝昼兼用のような食事を摂っただけなのでお腹が空いてきた。


(イーサン様はもう戻られたかしら?)


 気にはなるけど、どこからかいい匂いもしてくる。軽く腹に食べ物を入れようかと、ナディアは匂いの方へと向かった。

 

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