第31話
ナディアが匂いに釣られて入ったのは、アットホームな雰囲気の食堂。四十代ぐらいの料理長と同じ歳ぐらいの愛想のよい女性、それから彼等の娘と思わしき妙齢の女性が一人。
常連客は、珍しそうにナディアを見るもすぐに興味を失って食事や会話に夢中になった。
娘が入って左の二人掛けのテーブルにナディアを案内する。椅子に座り足を組み渡されたメニューを見るナディア。その姿に若い娘が顔を赤らめながら、注文を聞く。ナディアは野菜がごろごろ入ったスープと肉を少し、それから果物を頼んだ。
「あと麦酒を」
「かしこまりました」
ぼーっとした表情でメモを取る娘の後ろから、にゅっと大きな影が現れた。
「同じ物をもうワンセット、肉は大きくしてくれ。麦酒も」
そう言うと、当たり前のようにどさりとナディアの前に腰を下ろし、深い海の底のような目を細めた。ナディアは目を数度瞬かせてから間抜けな声を出した。
「……ジル、どうしてここに?」
「仕事だ。偶然だな。そっちこそどうしてここに?」
「……仕事かな? 婚約者の」
「わざわざ着いて来たのか? ひと時も離れたく無い、とか?」
ナディアはふっと笑い首を振る。
「毎日屋敷に閉じこもってばかりで飽きちゃった。騎士団にいた頃はよく馬に乗ってたから、ちょっと遠出したくなっちゃった」
それを聞いてジルはなんとも複雑な顔をする。
ナディアはジルを見ながらあれ? と思った。長い前髪から片目だけ覗くのは相変わらずだけれど、何だか髭がいつもより乱れている気がするのだ。
「麦酒をお持ち致しました」
娘がナディアの方を見て言う。ありがとう、と言うとポッと頬を赤らめて、早足で厨房へ戻って行った。
「俺は未だかつてあんな反応を受けたことはないぞ」
ジルが不貞腐れて言うので、ナディアはわざと流し目で微笑んだ。
「大抵の娘はこれで落ちる」
「参考にならないし、何から突っ込めば良いかも分からん」
二人は笑いながら乾杯をした。
スープは素朴な塩味で、素材の甘みが引き立てられている。ベーコンの旨味を吸ったしんなりとしたキャベツが美味しい。ジルは肉を、それ一口で食べれるの? と思う大きさに切って頬張っていく。
食後にオレンジを食べ二人は食堂を後にした。お腹はいっぱい、ほろ酔い気分になったナディアは外に出て大きな腕を伸ばした。
その時だ。シャっと空気を切る音が聞こえ、ナディアは反射的に身を翻す。
ナディアの持っていたオリーブオイルの瓶が矢で射られ、地面に琥珀色の水溜まりを作った。
「ナディア、こっちに」
ジルが手をひっぱり、弾けるように二人は走りだした。細い路地を左右に走り抜ける間も、弓矢は何本も飛んできては、二人を掠めて行く。
土地勘の無い場所だ。走っているうちに目の前に低い塀が現れた。つまりは行き止まりだ。後ろから数人の足音が聞こえる。ナディアが塀の下を覗き込むと下には道が続いていた。塀の高さは一メートル、下の道までは塀の上からだと四メートルちょっと。
「ジル、飛べる?」
塀に足をかけながらナディアが聞くと、片手でジルが塀に飛び乗った。
「俺が先に行く。下にも誰かいるかも知れない」
「分かった。抱き止めなくてもいいわよ」
「
ジルは躊躇うことなく飛び降りる。素早く下に敵がいないことを確認するとナディアに向かって手を合げた。ナディアも飛び降りようとした時だ。背後から弓矢が飛んできて右足を掠めた。
方足に痛みを感じながら宙に身体を投げ出す。弓矢は掠っただけ。しかし、傷ついた右足を庇うよう着地したのがまずかった。左足に負荷がかかり過ぎて地面に降りた瞬間鈍い痛みが走った。
(うっ……)
「足を痛めたか?」
「大丈夫、立てる」
ナディアは右足に重心を置きながら立ち上がる。これはこれで、矢傷が痛むがゆっくり歩くことはできそうだ。そう思い歩き出した途端、景色がぐるっと変わった。
ジルがひょいとナディアを肩に担いだのだ。そしてそのまま目の前の森へと走り出した。
「ちょ、ちょっ、大丈夫! 降ろして、走れるから」
「その足でか? 気にするな。大して重くない」
細いけれど、背が高いナディアはそこそこな重さがある。だけれど、ジルは軽々とナディアを抱えて走る。
しかし逃げ切れるか、と思ったのも束の間、敵も塀を飛び越え降りて来た。真っ暗な森の中でジルが木の根に足を取られた一瞬の隙をつかれ追いつかれてしまった。
ジルはナディアをおろす。ナディアが剣を抜くと、ジルも腰のナイフを抜いた。そしてナイフをナディアに差し出す。
「これと交換しろ。その足でこれだけの人数は無理だ」
「大丈夫。私騎士よ? 足を痛めていてもあなたより強いわ。それより隙を見て逃げて助けを呼んできてくれない?」
「……チッ」
(舌打ち?)
ナディアが訝しむ間もなく、ジルは剣を奪い取ると強引にナイフをナディアに渡した。
「できる限り守るが、自衛はしてくれ」
そう言うとナディアを背に庇うようにして立つ。月の鈍い光が剣に反射する。青い目の色が闇のように濃くなる。
敵は五人。最初の一太刀で一番目の前にいた男を切り付ける。右肩から脇腹にかけて赤い線が走る。次の瞬間には身を屈め、左にいた男の両太ももを切り裂いた。
(強い)
その隙のない動きに、ナディアは言葉を失って呆然とする。少なくても、いや、絶対商人の動きではない。
今度は左右から同時に男が切り掛かって来る。ジルは左からの一手を素早く避け、腹に強烈な蹴りを一撃。すぐに身を翻し、右側から振りかざされた男の剣を剣で受け、睨み合う。右側の男は大柄なジルよりさらに一回り大きい。
ナディアは、ジルに腹を蹴られて疼くまる男の肩にナイフを突き刺す。次いでナイフを首に押し当てた。
「山小屋で襲ってきたのはお前達の仲間か?」
くぐもった声で問いかける。
「山小屋? 何のことだ?」
「二日前の夜はどこにいた?」
ナディアは男の頬にナイフの切っ先をあてて、その刃を目に向かって移動させる。頬の真ん中から目に向けて赤い筋が走って行く
「ま、待て。本当に知らない! 二日前はこの街にいた。それにあんた誰だ? 俺達のターゲットはあの男。お前は関係ないだろう」
(ジルがターゲット?)
ナディアはその言葉を聞いてナイフを頬から離す。なぜ男達がジルを狙うのかは分からないけれど、二日前の夜の襲撃とは関係なさそうだ。
逡巡するその瞬間に隙ができた。背後に立つ人影に気づいた時には、太い首が腕に巻き付いていた。右手をねじり上げられ、ナイフが手から滑り落ちる。そのまま持ち上げるように、強引に立たせられた。
「剣を離せ。さもなければこいつを殺す」
酒焼けしたしゃがれた声の男はナディアの喉元に剣先を突き立てた。ジルの足元には大きな男が蹲っている。
「彼女は関係ない。離せ」
月が雲間から顔を出した。先程の鈍い月明かりではなく青白い光が明るく周りを照らす。ジルの瞳はその光を受け、青く輝いた。
「………っ?」
ジルの顔を見た男は驚いたように息を詰めた。
「……誰だ、お前?」
男の言葉にナディアは目を丸くする。
(男達はジルを狙って来たのではないの?)
ナディアが頬を切った男が立ち上がり、ジルを指差して怒鳴り始めた。
「俺達は
(何が起きているの? 人違いで襲ってきた? いや、それにしてはなんだか状況がおかしい)
背後の男はさらにナディアの首に剣を突き立てる。刃先が少し皮膚を裂き血が滲んだ。それをみたジルの顔が変わる。ジリジリと間合いを詰めるように、にじり寄ってくる。
「離せと言っているのが聞こえないのか?」
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