第10話
公爵邸でナディアに用意されたのは、来客用の一室だった。二部屋の続き間にシャワールームもついている。
その部屋で、先程来たばかりのラーナと向かい合ってお茶を飲んでいる。時刻は夜の七時。
「足を折った男は見つからなかったわ」
紅茶に砂糖を二個入れながらラーナが報告をする。
あの後足を折った男のもとに行ったけれど、そこには誰もいなかった。もう一人仲間がいたようだ。男は盗みを頼まれただけ、それすら失敗してしかも依頼人と顔を合わしている。そのうち、物言わぬ状態で見つかるかもしれない。衛兵には念のため男の特徴を伝えておいた。
「そうだ、これ返しとくね」
向かい合って座っている二人の間にあるローテーブルに、ナイフを二本おく、ナディは買ったばかりのナイフを手に取り刃こぼれしていないか確認する。実に手慣れていて自然な動作だ。
「それにしてもイーサン様はシャツの上からでも分かる立派な体躯をしているわね」
ほおぅっとした顔で、紅茶を飲みながらラーナは呟く。
「あ、あなたの婚約者って分かってるわよ。あくまでも観賞用って意味ね」
「世間一般的にはフランク様のような容姿を観賞用っていうんじゃないの?」
「うーん。優男か。なん信用できないのよね。それより上腕二頭筋の方が信じれる気がする」
「うん、その領域は私には分からないわ」
ナディはストレートティーを口に含む。
(高級茶葉は香りが違うわ)
紅茶を堪能するナディア、筋肉のすばらしさを語るラーナ。会話がかみ合うことなく二人はお茶を飲み終えた。
「じゃ、私ちょっと出かけてくるね」
ナディアはそういって立ち上がった。
「私、行こうか」
「いい。あなたさっき戻って来たばかりで夕食まだでしょう? 私はもう食べたから」
そう言うと、クローゼットを開ける。ずらりと並ぶ男物の服から一着を選ぶ。
「随分貢がせたわね」
「私から欲しいといったことは一度もないわ」
後輩に、男装姿のナディアの鑑賞を趣味とする令嬢がいて、何かと送ってくるのだ。
ナディは選んだ服を布で包むと部屋をあとにした。
用意された二階奥の部屋を出たあとは、長い廊下を歩き一階へと続く階段へと向かう。
その途中で、イーサン付きの侍女に出会う。珍しくない茶色の髪を後ろで一つにまとめ、特徴のない茶色の瞳をしている、どこか捉えようのない侍女だった。
「ナディア様どちらに行かれるのですか?」
「騎士の寄宿舎へ。私の荷物の大半はまだそこにあるから。えーと、あなたは確か」
「イーサン様付きの侍女、キャシーと申します。外は暗いですし、お一人では危険ですのでお手伝いいたします」
予想外の申し出にナディアは、眉を顰めそうになるのをどうにか耐えた。
「大丈夫よ。読みかけの本を取りに行くだけだし、この敷地内にある寄宿舎は私にとって家のようなもの。それに、多分、私あなたより強いわ」
肩を上げ最後はあえて冗談めかして言っている。でもキャシーは眉一つ動かさない。
「分かりました。ではせめて灯りだけでも用意いたしましょう」
無表情な侍女はそう言うと踵を返して階段を下りて行った。
月明かりがほとんどなかったのでカンテラは意外と役に立た。
ナディは机の上にそれを置くとワンピースを脱いで持ってきた服に着替える。部屋の隅に転がっていた帽子を目深にかぶり、濡れたような艶のある黒髪を襟足で縛った。そして、カンテラの灯りをふっと消すと、闇夜に紛れて街へと向かった。
娼館のある歓楽街を避けるように歩き、酒場へと向かう。とはいえ向かう先も決して治安は良くない。夜に女が独り歩きするような場所ではないが、男装姿のナディはその場に溶け込んでいて、絡んでくる輩はいない。
年季の入った扉を開け、一件の酒場に入る。間口は狭いが奥行きがありテーブル席が十席と七人掛けのカウンター席がある。ナディはカウンター席の一番端に座った。
「久しぶりだな」
顔見知りの店主がすぐに声をかけてきた。頼んでもないのに麦酒が前に置かれる。
「ねえ、ラビッツ、今日は来てないの?」
ナディは振り返って店内の客の顔を確認しながら質問する。
「今日はまだ来てないね。奴にとってはここは仕事場でもあるからその内顔を出すだろう。待つかい」
「そうさせてもらうわ」
店主はナディアが女だと知っている。数年前、この店で暴れた客がいて店主が衛兵を呼んだが、その際衛兵の手伝いをしていたナディアもここに来たのだ。それから時々ここに顔を出すようになりラビッツとも顔を合わせるようになった。
ナディアが一杯目を飲み終わる頃だ。
「お、バートンじゃないか。偶然だな」
肩を叩かれ振り返ると、ジルがいた。バートンが自分が語った名前だと思い出すのに数秒かかった。そして少し気まずい顔をする。
「ナディア」
「ナディア? なるほど、それが本名か」
ジルは当たり前のようにナディアの左隣に腰掛ける。ナディアの空になったグラスをみて麦酒を二つ頼んだ。
相変わらず髭と、長い前髪で顔の半分は見えないけれど、ナディアの座る位置から見える横顔は、青い目が細められ悪戯っ子のように見えた。
「これはあんたの奢りな?」
「分かってる。この前は本当にご迷惑をかけてしまって申し訳ありません」
ナディが頭を下げるとジルは、本当になっと口角を片側だけ上げた。
「普段はあんなに飲まないのよ」
「そうあって欲しいよ。俺が紳士だったことに感謝しろよな」
「えぇ、奇跡的なことだわ」
二人の後ろにいた男達の声が一際大きくなった。
「いや、本当だって。俺だけじゃなく他に見た奴もいるんだよ」
「幽霊船をか? それともセイレン? 海の悪魔をか?
「船だよ、船。あのあたりは異国の船はこないはずなんだ。この辺りで見かけたことがない船だから……」
「なぁ、その話詳しく聞かせてくれないか?」
いきなり話かけられた男達は、不審な目でナディアを見た。右側の男が眉を顰め値踏みするように見るのに対し、もう一方の男はナディアを何度かこの酒場で見たことがあったようだ。
「たまに見る顔だな? 何について知りたいのか? 男を惑わす声を持つセイレンか? それとも海と月を宿す悪魔か?」
「幽霊船だよ。見るようになったのは最近かい?」
男は無精ひげを触りながら暫く宙を睨み考える振りをする。ナディアは苦笑いを浮かべ
「マスター、彼らに麦酒を一杯ずつ」
と頼んだ。男はにやりと笑うと急に饒舌になった。
「見るようになったのは、一ヶ月前ぐらいだ。ろくでなし王子が馬鹿やった頃だ。全く、これから先どうなっちまうのかね。でも、考えようによっては、馬鹿が納めるより隣国の下に入った方が安泰かもな。おっと、話がそれたな。船の大きさとしては中型だな。初めは商船かと思ったが、黒塗りの商船は珍しい。港に停泊しているのを見た者もいない。つまりはずっと沖にいるわけだ。おかしいだろう? 何しているんだって話だよ」
「夜中に港に着いたとか、小型のいかだに乗り換えて上陸したってことはないか?」
「何の為にさ? そんなことしても金にはならないぜ」
男はそう言うと、マスターが持っていたばかりの麦酒をグイグイと飲みほし、空のグラスをナディアに向かって軽く持ち上げた。彼なりの礼の仕方だろう。
「気になることがあるのか?」
「うん、ちょっとね」
ジルはそれ以上は聞かずに、つまみを幾つか注文した。
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