水族館、海、彼女、僕
空殻
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恋人と水族館に行ったとき、ふと「海が怖いんだよね」と言ってみた。
それは同意を求める意味合いではなく、ただなんとなく言葉にしてみただけだったが、彼女には「ええ?そうなの?」と聞き返される。
その時、僕らが見ていたのは、この水族館の目玉の一つである巨大な水槽で、色とりどりの魚と、大きなマンタ、それに大人しそうなサメが何匹か、混ぜこぜになって泳いでいた。
僕は水槽を指さす。
「例えば、この水槽も海をイメージして展示されているんだと思うけど、こういう風に海の中の風景が目の前に現れると、けっこう怖いんだよね」
「ああ、海ってよりも、『海の中』が怖いってこと?」
「そうそう」
事実、僕は海の中が怖い。子どもの頃からそうだった。
遠くから眺めている分にはきれいだとも思えるのだけれど、海に実際に入ることを想像すると、それはとても怖い。
小学校の臨海学校の時も、僕は砂浜で遊んでばかりいて、せいぜいくるぶしをちょんと海水に浸す程度しかしなかった。
ただ、彼女は僕のこの感覚にはやはり同意しかねるみたいで、理解するための事情聴取を始める。
「そもそも、なんで怖いの?トラウマとか?」
「トラウマ?」
「ほら、子どもの頃に溺れたことがある、とか」
「ああ、いや、そんなことは無いかな」
これは僕も考えたことがあって、親に聞いたこともある。
つまり、自分が記憶していないほど幼い時に、海、または水中で溺れたことがあるかということだ。
ただ、父も母も、そんなことは無いとあっさり否定した。
だから、心的外傷とか、その線は無いのだろう。
「ふーん」
チラッとマンタに視線を向けながら、彼女は相槌を打った。
「じゃあ、なんで怖いの?」
「うーん」
僕は考え込む、いや、考え込むふりをする。
自分のことで、しかも幼い頃からの話であるので、答えは出ないまでも、いくつか理由の候補くらいは挙げられる。
たとえば。
「色んな生き物がいるのが、怖いとか?」
海には色々な生き物がいる。その中には、けっこう気持ち悪いもの、グロテスクなものもいるだろう。それに、サメやウツボ、クラゲなどの明確に危険な生物もちらほら。
僕の海中への恐怖は、それら生物に対する恐怖ではないだろうか。
そう伝えてみると、しかし彼女は納得しない顔をした。
「でもなあ、別に生き物なんてそこら中にいるでしょ?」
「そうだけど、地上の生物と、海の生物は違うでしょ」
「うーん。でもじゃあさ、例えば私は虫全般がダメだけど」
そう、彼女は虫が満遍なく苦手だ。小さな羽虫が目の前に飛んできただけでも、大げさなほどに身をのけ反らせて接触を回避しようとする。
「でも、私は、虫が出るところに行くのが、理由もなく嫌になるわけじゃないよ」
「え、でも前にキャンプに行こうって誘ったとき、嫌だって言ったじゃん」
僕はつい、二か月ほど前の会話を掘り返してしまう。口にした瞬間、悪手だったと後悔したが、幸い彼女は気にした素振りは見せなかった。
「それはそうだけど、でも、私は少なくとも、『虫がたくさん出るから嫌だ』ってことは自覚できてるわけ」
「ああ、そういうこと」
つまり、もしも自分が「海の生き物が苦手だ」という理由で海が苦手なら、その理由にもおそらく自覚的であるはずだ。
そうでないから、きっとこれはクリティカルな理由ではない。
他の理由を考えよう。
「他に思いつくのは、底が見えないのが怖い、とか?」
海は、ちょっと深くなればあっという間に黒く、底が見えなくなる。
その不確定さが、何か未知のものを想起させて、恐怖を覚えるのだろうか。
「でも、それは無いんじゃない?」
これも彼女にあっさりと否定される。
「なんで?」
「ほら、この水槽を見て」
食い下がろうとする僕に対して、彼女は目の前の巨大水槽を指さした。
「この水槽は、ちゃんと底が見えるでしょ」
「うん」
確かに、この水槽は底が明らかに見える。海をイメージして、岩がいくつも配置されているが、底はちゃんと見えた。
「でも、これも海っぽくて怖いんでしょ?」
「そう、だね」
そうだ、僕はこの水槽を見て、そもそもこの話題を始めたのだった。
そして僕はこの水槽も海っぽくて、少し怖いと思う。
だから、底が見えるかどうかも、たぶん本質的な恐怖の理由ではない。
その時、館内アナウンスが鳴った。一日に五回開催される、イルカショーの案内だった。
あと十分で始まるようで、この回を逃すと次は一時間半後だ。
「イルカショー、せっかくだから見ていこうか」
僕はそう言って、今までの話を打ち切ろうとする。話のネタとして出してはみたものの、デートに来ているのに、自分の恐怖の原因について話していても仕方がない。
相変わらず理由は分からないけれど、それでいいじゃないか。
そう思って彼女の手を握る。けれど。
「そもそも、さ」
そこで彼女は僕に訊ねる。
「海が苦手なら、なんで水族館に誘ったの?」
この問いかけの答えは、僕もなんとなく分かる。
ただ、答えたくない。
二秒ほど悩んで、彼女の表情を見ると、彼女はニヤニヤと笑っていた。
まさか、僕の考えていることが読まれているのではないか。
そう考えて、僕は海中に対してのものとは別種の恐怖を彼女に抱く。
水族館デートに誘った理由は、別に海が苦手でも、彼女と一緒なら楽しいんじゃないかと思ったから、とか。
苦手な海中を想起して、自分の心拍数が上がって、むしろ自分に吊り橋効果がかけられるんじゃないか、とか。
水族館特有の青白い光で、照らされる君はきっと綺麗だろうと思ったから、とか。
そんなくだらない答えをまさか口にするわけにはいかないので、僕は黙りこくる。
自分の顔は赤くなっているかもしれないけれど、この青い光で見えないといいな、と思う。
恥ずかしさに、心拍数が上がる。
耳の奥で、血が激しく流れる音が響く。
これはきっと、自意識が溺死する音だ。どぼん。
水族館、海、彼女、僕 空殻 @eipelppa
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