ロンダ ー混乱の午前ー

ベントはトレミシア市南西部に位置する人口600人程の小さな村である。

村の北部には、かの有名なイバラ山が聳えており、かつてはトレミシアの材木庫と呼ばれる程に林業で栄えた村だった。


夕暮れ時になると、イバラ川のほとりで屋台の灯があちこちに点き始め、仕事終わりの杣人達がジョッキを酌み交わす。

「学びたい奴は王都へ行け。稼ぎたい奴はベントへ行け」とは当時の流行詩である。


そんな栄華も今は昔。

全てはトレミシア中に夢亡ナイトメアが蔓延る前の話である。

夢亡ナイトメアに侵入された土地に残された道は二つ。

諦めて全てを差し出し、荒廃するか。

取り戻すべく総力で立ち向かい、滅亡するか。




「父ちゃん、ねぇ、父ちゃんったら」


「なんだ」


「ロンダのこと、信じてあげてるよね?」


「信じてるとも。母さんはどうなんだ」


「あたしはもちろん……信じてるけど……でも」


「ああ、とにかくまずは確認しなくては」


ロンダの母と父は大股でベントの表通りを歩いていた。

太陽はまだ東側に昇っている。人通りも少ない。

出歩く者もいたが、誰も彼も虚ろな表情でフラフラとしていて、まるでベントという村の生命力を体現しているようだった。


「ロマンドさん、血相変えてどこ行くんだい!」


道すがら、朝っぱらから居酒屋にたむろする男の一人が声をかけてきた。

ロマンドとは、ロンダの父の事である。


問いかけに返事をしたのは妻だった。


「それが聞いてよ。うちの娘がその、夢亡ナイトメアをね……」


「おい」


ロマンドが妻の二の腕を掴む。

力強く引っ張られた妻は、口をつぐんだ。


「失礼、急いでるもので」


「お、おぉ……」


二人はたむろする男達に軽く会釈をし、早足にその場から離れた。


「ちょっと、痛いって」


ある程度離れた所で、掴まれた腕を強引に振りほどく妻。


「すまん。だがロンダが夢亡ナイトメアを倒した話はまだ誰にもしちゃダメだ」


「なんでさ。ロンダが嘘ついてるっていうのかい? 信じてるって言って、本当は疑ってんのかい!」


「相手は夢亡ナイトメアだぞ!!」


普段穏やかな夫から出た突然の怒声。反射的に妻は背筋を伸ばした。


表通りに響いた大声は少なからず衆目を集め、窓から顔を出す者もいる。

ロマンドは妻に頭を下げ、声を抑えて弁明した。


「大声だしてすまん。だが、万が一ってことがある……下手すると死人が出るかもしれない」


「……そうだね」


ロマンドと妻は一旦落ち着きを取り戻し、移動を再開した。


「何処に向かってるの?」


隣を歩く妻の問いかけにロマンドは答えた。


「……この村で最大の夢亡ナイトメアの溜まり場……」


ロマンドの声は震え、幾分かの恐れが込められていた。


「目指すは『ベント・デルタ』だ」




二人が去った後の居酒屋は当然、挙動不審な二人の話題で持ちきりだった。


「なんだありゃ?」


「へっへっへ、娘っこがまた何かしでかしたんだろ」


「娘って?」


「知らねーか? あの家にはロンダっていう、穀潰しがいるんだよ」


「顔は可愛いんだが、ちょっとおかしいんだよな……。近頃もずーーっと神殿に入り浸ってるんだろ?」


「へっへっへ……神父と出来てんじゃねぇの」


「俺はおかしなお祈りをしてるのを見たぜ」


「おかしなって、どんな?」


「それが枕を床に並べて、手をぎゅっと握って何かぶつぶつ呟いてんだよ。俺は数分間しか見てねーが、下手すりゃあれを一晩中やってんだよな」


「へぇ……」「くっくっく……」


「それは……勇者の祈願じゃあ……」


男共が噂話に一花咲かせてる最中、端の席に居た老人がポツリと洩らした。


「何ですか長老?」


「勇者の祈願じゃよ……。夢亡ナイトメアを打ち倒す、伝説の勇者を呼ぶ儀式……若いもんが今時、珍しいのぉ……」


「へぇーっ」


殆どの男達は長老の言葉を聞き流した。しかしその内の一人が据わった目をして呟いた。


「そういえばロマンドのカミさん、夢亡ナイトメアがどうとかって言いかけてなかったか?」


「ああ、言ってた」


「……ロマンド達のあの慌てよう、ただ事じゃないだろ。もしかしてさ……」


「おいおいまさか勇者様が本当に現れて、夢亡ナイトメアを倒したってのか? そんな馬鹿な!」


一人の男が笑い飛ばす。

しかし話題も希望も何一つ無いこの村に、「」の三文字は余りにも刺激的だった。


「確かロマンド達、南に向かったよな。あっちの方にはシャピー畑とイバラ川と製材所と……」


「ベント・デルタがあるぜ」


「ベント・デルタ? それじゃねぇか?!」


「お前ら本気かよ? 長老の昔話真に受けすぎ……」


「お、俺……明け方に神父様が出掛けるのを見たぜ。結構慌てた様子で、それも南に向かってた気がする……」


「おいおいおい、神父様までベント・デルタに向かったんじゃあ? これはもう決まりだろ!!」


確信も確証もない与太話が、口に出せば出すほど真実のような気がして男達は盛り上がった。

酒はすっかり放置され、下らない噂話をしていたさっきまでとは比べ物にならない程の熱気が、居酒屋を包んでいた。


「こうしちゃいられねぇ。今日はもう店仕舞いだ。俺もベント・デルタに行く」


「おやっさん!」


熱気は、話を聞いていただけの居酒屋の店主をも巻き込んだ。


「長老も行きましょう! ベント・デルタに!」


「うむ……」


男達は移動を開始した。


騒ぎを聞きつけた表通りの住人達が何事かと集まってくる。

男達の一行に、その熱に、次々と人が引き寄せられていった。


目指すは『ベント・デルタ』。


或いは、終わり無き悪夢に射し込んだ微かな光明へ。

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