第52話 もう迷わない
国立病院の大きな自動ドアが開くや否や、
『救急処置室で手当てしてもらってる』
地下鉄を乗り換えようとしていた時、そう
夏人はその短い文面を読んで、少しほっとした。手術ではく手当てだったからだ。だが頭の怪我だ。油断はできない。
地下鉄を降りた瞬間からおよそ10分間、無我夢中で走って来た夏人は汗だくだ。息も上がっていた。しかしそんなことはどうでもいい。一刻も早く
ようやく救急処置室の前に着いたが、そこに居るはずの菜々子の姿がない。焦った夏人はきょろきょろと辺りを見渡す。ちょうどそこへ処置室から一人の看護師が出て来た。
「あ、すみません」
夏人はその女性看護師に声をかけた。
「交通事故で頭を怪我した男子高校生、えっと、柊
「あー、はいはい。看護主任の柊さんの息子さんね」
「あ、そうです。今彼は……」
「処置が終わって、たった今病棟に移ったわよ」
「そうなんですか。ところで、あの、怪我の具合は……」
柊の様子を尋ねようとした瞬間、菜々子からLINEが届いた。
『病院着いた?西病棟の6階にいます。部屋は603だよ』
夏人は看護師に頭を下げて、走りたい衝動を抑えながら、エレベーターの方向に歩き出した。
ようやく夏人は、柊が居る病室の前にたどり着いた。4人部屋の603には3人が入院しているようだった。その中に『柊祐介殿』という名前を見つけた夏人は、逸る気持ちを抑えるため、大きく深呼吸をした。
扉は開いていたのでそのまま入室しようと足を一歩踏み出した時、突然笑い声が聞こえてきた。柊の笑い声だ。
「だからさ、菜々子は大袈裟なんだよ。あれくらいで死なないっつうの!」
「だって、あんなに血は流してるし、気も失ってたじゃん」
「救急車の中ですぐ気付いただろ?心配しすぎだよ」
思わず足を止めて2人の会話を聞いていた夏人は、柊のいつもと同じ声に泣きそうになった。
「柊くん!」
夏人が近寄ると、ベッドに座っていた柊は目を丸くして驚いた。
「夏人来てくれたのか!」
その瞬間柊の顔がパッと明るくなった。その顔色は思ったより良く、夏人は少し安堵した。だが「お前学校は?こんな大事な時期なのにサボったのか?」と夏人の心配をする柊に、少し声を荒げた。
「何言ってるの?学校どころじゃないじゃん!」
その剣幕に、柊は一瞬たじろいだ。
「あ、うん、そうだよな。ごめん……」
「菜々子ちゃんに事故の事聞いて、どれだけ心配したと思ってるの!」
いつもは穏やかな夏人が珍しく怒っている。
柊は菜々子を見た。『夏人に心配させやがって』と言わんばかりだ。
「だって、もうどうしたらいいのか分からなくて……。でも、
そう言って菜々子は頬を膨らませた。
そこに「あんた達少しうるさいよ。他の患者さんに迷惑でしょ」と言いながら冴子が部屋にが入って来た。廊下側に居た患者に「ごめんなさいね」と謝っている。
「
「あの、怪我の方は……」
「倒れた時、頭を打って軽い
「じゃあ、大丈夫なんですね?」
「これからもう少し詳しく検査するけど、問題はないと思う。でも頭を打ってるから念の為、今夜は入院させるけどね」
看護主任の冴子が言うのだから間違いはないだろう。
夏人は思わず両手で顔を覆った。
「無事でよかった、本当によかった……」
顔は見えないが、その震える声で泣いているのが分かった。
「じゃ、祐介、検査の時間になったら呼びに来るから」
「お、おう」
「菜々子ちゃん、下の売店で飲み物でも買って来てくれる?」
「……?あ!は、はい」
菜々子は、柊と夏人を2人きりにしてやろう、という冴子の配慮に勘づいた。
「椎名くん、祐介のことお願いね」
冴子の声を聞いた夏人が涙を拭いながら顔を上げると、冴子と菜々子が揃って部屋を出て行くのが見えた。
2人が見えなくなったのを確認した柊は、ベッド脇にある小さな椅子に座るよう夏人を促した。そして仕切り用のカーテンを閉めた。
「夏人、ほんとごめんな。菜々子がテンパってお前に電話したんだろ?」
「うん。もう心臓が止まるかと思ったよ。男の子を助けたって聞いたけど……」
「まぁね。夢中で助けに飛び出して、後はあんまり覚えてないんだ。気付いたら救急車の中でさ。珍しく登校が一緒になった菜々子が付き添ってくれたんだけど。まぁ、泣くわ喚くわで。頭痛てぇんだから騒ぐなって怒ったくらいだよ」
縫合したであろう箇所にガーゼが貼ってある。痛々しい。
柊はその場所をそっと触りながら、ははは、と笑った。
「まだ痛いよね?」夏人はその柊の手を、優しく握った。夏人から触れてくるのは珍しく、柊は動揺しながら「少しね。でも平気だよ」と笑顔を見せた。
「無事で本当に良かった。俺、もしかしてまた大事な人を失うんじゃないかって、怖くて怖くて仕方なかった」
「うん、心配かけてごめん」
「柊くんらしいけど、あまり無茶しないで欲しい」
「分かった。夏人を悲しませるような事はもうしないよ」
「あのね、俺、決めたんだ!」
突然夏人がそう言った。柊の目をじっと見ている。
「え?何を?」
「東京の大学を受験する。一緒に東京に行く!」
「え?うそ!マジで?いいの?」
「うん。その事を今日、柊くんの家で話すつもりだったんだよ。だからこのまま伝えられなかったら、どうしようって……。怖かった……」
柊を見る夏人の目が潤んでいる。
「それで、一緒に暮らしてくれるの?」
柊は更に夏人に顔を近づけた。その潤んだ目に自分が映っている。
「うん。母さん達にも許してもらったし」
「マジか……。やべぇ、どうしよう。嬉しすぎなんだけど」
顔を赤らめている夏人を柊はグッと引き寄せ、抱きしめる。夏人も柊の背中に腕を回して、力強く言う。
「今回のことで改めて思ったんだ。何かあった時、こうして駆け付けられない距離になってしまうのは辛すぎるって。何より、もう柊くんと離れたくない……」
「うん、俺も同じだ。夏人とずっとずっと一緒に居たい」
気が付くと、夏人は柊の胸の中で涙を流していた。
親元を離れ、柊と一緒に上京する。今までの夏人なら有り得ない選択だった。
だが、それだけ柊と離れたくない思いが強い、ということだ。
そしてそれは、柊も同じだった。2人にはもう迷いはなかった。
「でもまず、俺が大学合格しないとね!」
そう笑った夏人に、柊がそっとキスをした。
柊の温かい体温と、トクントクンと規則正しく聞こえる心音に、夏人はひどく安堵した。
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