第51話 祈り

昨夜までの雨は上がり、秋が深まった青空はどこまでも高かった。雨上がりの澄んだ空気は、身も心も引き締めてくれる。その少し冷たい空気を、夏人なつとは胸いっぱい吸い込んだ。


 

 ひいらぎから明応めいおう大学のスカウトの話を聞いたのが10日前。その後すぐに、柊は大学側に入学の意思を伝えた。上京を決めたのだ。冬休み前に一度大学に赴き、小論文と競泳の実施テストを受けるのだが、これは体だ。柊の明応大学入学は決定したのも同然だった。ただ、学生寮への入寮だけは、返事を保留にしていた。


 ……今日こそ話そう!


昨日も話そうと試みたが、学校では柊とすれ違ってばかりだった。帰りも夏人は塾、柊は秋月あきつきと入学に必要な書類を作成していたりと、思うように2人の時間が噛み合わなかった。

 

 『学校だと落ち着いて話聞けないから、明日の放課後マンションに来る?』

夏人の様子を悟った柊から、昨夜遅くLINEが来た。

『いいの?その方が嬉しい』

『もちろんいいよ。でもお前、塾は?』

『サボる!』

『へー。俺の恋人は随分と逞しくなったもんだなwww』

『強くてかっこいい彼氏の影響かな?www』

『彼氏かぁ。照れくさいけど嬉しいよ。あー!早く会いてぇ。そういえば、明日は冴子が家に居るけど大丈夫か?』

『冴子さんが居たっていいよ、話しするだけだから』

スマホに見入っている夏人の顔が、思わず赤くなった。

『おう。じゃ明日な』

『うん、おやすみ』

スマホから手を離そうとした瞬間『ピコン』と通知音が鳴った。そこには「I Love You」と書かれたスタンプが届いていた。


 夏人の胸が、恋愛ドラマや漫画の主人公のようにキュンとした。恋をしている夏人は今、幸せに満たされていた。



 「さて、行くか!」

夏人が勢いよく自転車を漕ぎ出した瞬間「ガチャ、ガチャン!!!」という大きな音と同時に、自転車が止まってしまった。慌てて確認するとチェーンが切れている。

 

 ……マジかぁ。困ったな、遅刻しちゃう。

父の龍二りゅうじは、たった今車で出勤したところだ。

 ……確かこの時間だとギリギリのバスがあるかも。


夏人は自転車を玄関脇に戻し、急いでバス停に走った。


 

 肌寒い朝にも関わらず、じっとりと汗ばんだ夏人を乗せたバスは、予定より少し早めに駅に到着した。あとは、今乗り込んだこの地下鉄が、定刻通り出発すれば遅刻しないで済む。


 ……よかった、なんとか間に合いそう。


ほっと胸を撫で下ろし、夏人は一番後ろの車両の入り口に立った。

と、その時。制服のポケットに入れていたスマホが『ブーブー』と揺れた。着信だ。

スマホを取り出し、画面を見た夏人はぎょっとした。


 ……え?菜々子ななこちゃん?


スマホの画面には『藍沢あいざわ菜々子』と表示されている。柊と付き合い出してから菜々子とも何かと絡むようになり、お互い連絡先を交換していたのだ。しかし2人が直接連絡を取り合うことはほとんどなかったので、突然平日の朝に連絡がくることに驚いた。しかも、LINEではなく電話だ。


 ……なんかあったのかな。


夏人は一旦車両を降りることにした。何か嫌な胸騒ぎがする。

「もしもし、菜々子ちゃん?どうしたの?」

夏人が出ると、菜々子は尋常ではなく慌てている様子だった。

「夏人くん!どうしよう、どうしよう」

しかも電話の向こうが騒然としていて、菜々子の声がよく聞こえない。

「ごめん、よく聞こえない。もう少し大きな声で……」

「夏人くん!祐介が、祐介が!死んじゃう!」

菜々子は半狂乱だった。恐らく夏人の声も届いてないだろう。


 ……え?死んじゃう?


夏人の鼓動は突然早くなり、さっきまでの汗が一気に冷や汗となった。その汗が背中を伝うのをはっきりと感じる。


 「菜々子ちゃん、落ち着いて。今どういう状況?何があったの?」

夏人は自分に言い聞かせるように、努めてゆっくりと話した。

「道路に飛び出した男の子を助けようと……。祐介が車に轢かれて……」

「轢かれた……?それで柊くんの意識は?……」

夏人のスマホを握る手がブルブルと震え出した。

「頭からいっぱい血を流してる……呼んでも動かない。どうしよ……」

菜々子は泣き出していて、最後の方はよく聞き取れなかった。


 「菜々子ちゃん!!」

大声を出した夏人を、地下鉄のホームにいる人達が怪訝そうな顔で見る。

だが今は、そんな視線はどうでもいい。夏人は既に周りが見えていなかった。

頭からの出血、そして反応がない。ということは、頭を打って意識を失っているのか。それとも……。

「柊くんは息してる?」

「息?よくわからない……」

「柊くんの胸に顔を乗せてみて……。動いてる?」

「……。うん、心臓動いてる」

「よかった……。救急車は呼んだ?」

「うん。側にいた人が呼んでくれて……あ!」


電話の向こうから、救急車のサイレンが聞こえてきた。

「菜々子ちゃん、よく聞いて。一緒に救急車に乗って、搬送先を冴子さえこさんが勤務している国立病院にしてもらうんだ」

「国立……」

「いい?俺も学校には行かないで、これから病院に向かうから」

菜々子の泣き声が聞こえてくる。

「菜々子ちゃん、大丈夫。柊くんは絶対大丈夫!目を覚ましたら、何事もなかったように笑ってくれるから」

「うん、そうだよね、大丈夫だよね」

「そう!だから俺たちはしっかりしなきゃ。何かあったらすぐ電話して!俺も病院に行くから!」

「わかった、待ってるね」

そして電話は切れた。


 夏人はその場に倒れ込みそうなのを必死で堪え、地下鉄に乗った。

スマホが割れるのではないかと思うほど、両手できつく握るその拳は、驚くほど血の気がなかった。

そのスマホが再び揺れた。慌てて見ると菜々子からのLINEだった。

『国立病院に運んでもらえる』たった一言だった。



 国立病院まではここから地下鉄を乗り継いで50分程だが、その時間は夏人にとって永遠のように長く感じていた。

夏人の脳裏には変わり果てた陸玖の遺体が蘇った。まるで悪夢を見ているようだ。

陸玖を失ったあの日と同じように、何もできない自分に苛立ち、焦っていた。恐怖のあまり体の震えも止まらなかった。



 ……神様!お願いします。柊くんを連れて行かないで下さい。俺からこれ以上大切な人を奪わないで下さい!柊くんを助けてあげて下さい。お願いします!


 

 普段は神の存在に否定的な夏人だが、今は祈るしかなかった。ただひたすら、柊の無事を祈るしか術はなかった。








 

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