第50話 諦めたくない

 「お邪魔します」

休日に夏人なつとひいらぎのマンションを訪ねて来るのは久しぶりだ。

「あ、こらっ!待て!」柊の制止など聞くはずのない愛猫のキングとカズが、玄関で靴を脱いでいる夏人に勢いよく飛び付いた。

「キング、カズ!久しぶりーー!」

ゴロゴロと甘える2匹に「2人ともちょっと太った?」と、夏人は満面の笑みを見せた。

その笑顔に釣られ、2匹を追いかけて来た柊の口元も思わず緩む。

「ココア冷めるから、早くこっち来いよ」

そう言って、柊は夏人をリビングへ招いた。



 昨日、明応めいおう大学からスカウトの話を秋月あきつきから聞いた柊は、その晩考え抜いた。

やっぱり真っ先に話すべきは、恋人の夏人だろうと。そして2人の今後についても、きちんと話すべきだろうと。

  『言葉にしないと本当の気持ちは伝わらない』

それを柊は、身を持って何度も経験していた。

  

 『夏人には嘘をつかない。隠し事をしない。自分のありのままの想いを言葉で伝える』

そう決めたが、夏人を好きになればなるほど、その事がどれだけ難しい事なのか柊は知っている。恋人を悲しませたくないから嘘をつく、隠し事をする。それは時に必要な恋の技術テクニックの一つなのだろう。しかし柊祐介の恋はまだ幼い。幼い恋だからこそ、純粋に素直に相手のそのままを好きでいられる。そこに打算や駆け引き、技術テクニックは存在しないのだ。そしてそれが初恋というものなのかもしれない。



 これから話す事が、柊と夏人の関係を変えてしまうかもしれない。

だが夏人に嘘をつかない、ということは、自分自身にも嘘をつかないということだ。その為に自分の真っ直ぐな気持ちを言葉にして伝えよう。そう柊は覚悟を決めていた。


「で?どうしたの、話って」

「うん。あ、悪いな。今日も朝から塾だったんだろ?」

「うん、でも大丈夫だよ。明日もあるし」

流石の夏人も、国立の医学部となるとそう簡単ではない。引退後すぐ、難関大学に特化した進学塾に通い始めていたのだ。

「それより……」

柊を見る夏人は、その話を早く聞ききたいとウズウズしている様子だ。


 柊はフーっ、と一つ深呼吸をした。

「実はさ、昨日秋月先生から、明応大学の監督が俺をスカウトしたいって話を聞いたんだ」

「え?明応大学?ほんと?」

「うん……」

「柊くん凄い!明応って言ったら、競泳の名門中の名門じゃん」

夏人も昨日の柊と同じ反応をし、同じように高揚しているのがわかった。

「でも、凄い厳しいって聞いたよ、練習」

夏人もその評判は知っていたようだ。


「うん、まぁ。でもそのくらいじゃないと強くなれねぇし。その辺はあまり不安はない」

ラグマットに胡座をかいてキングとカズを撫ででいた夏人に「こっち来いよ」と、柊は座っているソファの隣をポンポンと叩いた。

 夏人は素直に従い、柊の隣に座った。2人の距離がグッと近くなった。

「……明応行きたいんでしょ?」

ポツリと言った夏人に、柊は驚いた。

「今朝早く、話したいってLINEもらった時、ピンときた。面談で何かあったんだろうなって」

「……」

「昭陽大学の話をしても、なんか柊くん嬉しそうじゃなかったし」

「え?俺、顔に出てた?」

「うん、柊くんわかりやすいから」

「ははは。お見通しだったか」

柊はぎこちなく笑った。



「夏人、俺さ」

「うん」

「明応、行きたい」

「……うん」

「もっと泳ぎたいし、強くなりたい」

「……うん」

「俺バカだから、まだ将来のこととか考えられないけど、とりあえず今は目の前にあるチャンスを掴んでみたい」

「………」


 夏人から「うん」という相槌が聞こえなくなった。柊は夏人の肩に手を回し、そっと抱き寄せた。

「夏人?」

「うん……」

「今俺は自分の気持ちを素直に伝えた。今度は夏人の本当の気持ちを聞かせて」

「……」

「俺の為に嘘をつくのは、絶対ダメだよ」


 俯いていた夏人が顔を上げた。意外にも力強い目に、柊は少し驚いた。

「柊くんは、明応に行くべきだよ」

「それって本心?」

「もちろん。こんな凄い話ないよ。明応大学にスカウトされる選手なんて一握りなんだから。柊くんはその数少ない、選ばれた選手なんだ。だから迷う必要なんてないよ」

「そっか……」

「うん……。でも……」

柊を見つめる目がふと曇った。

「東京だもんね。離れ離れになっちゃうね。それは、ちょっと……。正直キツいかも……」

ぎこちない笑顔を作る夏人を、柊は優しく抱きしめた。


 柊の胸に顔を埋めた夏人もそっと背中に腕を回し、その体を柊に預ける。

「柊くんの競泳に対する熱量エネルギーは、俺が誰より知ってる。だから全力で応援したい。本当にそう思ってる」

「うん」

「……でも離れるのは寂しい。柊くんの体温。優しい匂い。俺の名前を呼んでくれる声。その全部に手が届かなくなる。そんなのやっぱり辛いな……」


 夏人を抱きしめている柊の腕に力が入った。夏人の腕にも同じように力が入る。


 ……やっぱり俺も離れるの嫌だわ。


柊は確信した。夏人が愛おしい、ずっと側に居て欲しい、離れるなんて考えられない。しかし、明応大学で泳ぎたい気持ちも変わらない。

 大学も夏人もどちらも諦めない選択肢は一つしかない。

柊は昨夜、考え抜いた手段を夏人に伝える事にした。それは決して簡単な事ではないが、2人にとって最善の策だと、柊は確信していた。


 「なぁ、一つ俺に考えがあるんだけど」

柊の胸に顔を埋めていた夏人が、上目遣いで柊を見る。

「なに?」

「難しいことかもしれないけど」

「うん」

「俺も、やっぱり夏人離れるのは嫌だ。でも明応には行きたい」

「……うん」

「お前は頭がいい」

「?」

「お前なら東京の大学でもいけると思うんだ」

「え?」

夏人の目が丸くなった。


「明応には、希望すれば学生寮がある。でも希望しないと、近くのアパートを借りる事になるんだよ」

「え?それって……」

「うん。2人で東京の大学に進んで、一緒に住むってのはどう?学生同士のルームシェア。でも俺らは付き合ってるわけだから、同棲になるのかな」

柊の顔が僅かに赤くなった。

「俺が東京の大学を受験?同棲……?考えた事もなかった」

「だろうな」

「………」

「これなら明応で泳げるし、夏人と一緒に居られる。俺の我儘は一気に叶う!」

柊は笑顔を作った。だが夏人は何も話さない。


 ………やっぱりそう簡単にはいかねぇよな。


柊は黙ったままの夏人の手を握った。

「大事な時に困らせてごめんな。でも、俺は決めたよ」

夏人が目を合わせてくる。その大きく美しい瞳から今にも涙がこぼれ落ちそうだった。柊はわざと声のトーンを上げた。

「俺は明応大学に行く!そしてもっと上を目指す。でも夏人のことも諦めない!だから、この話よく考えてくれないか?」

「………」

「よく考えてくれた答えなら、例えお前が地元こっちに残って医者を目指すことを選んでも、俺はそれに従うし、夏人の夢を全力で応援するよ」

「……。うん、わかった」

そう言った夏人の声は、やっと聞こえるほど小さな声だった。

「夏人は夏人の信じた道を選んで。まぁ、あわよくばその道を俺も隣で歩きたいけどね」


 

 夏人の頬にさっきまで我慢していたであろう涙が、一筋だけ伝った。

「どんな形になっても俺の恋人は夏人だけだ。……大好きだよ、夏人」


















 


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