第36話 幸せと思える時間
事前にWebからチケットを購入していたので、この窓口の行列に並ばずに済んだ
「うわぁ……!」
まだ入り口を抜けて、ウエルカムホールに入っただけなのだが、その開放的な空間に、夏人は目を輝かせている。
「ごゆっくり楽しんで来て下さいね!」
2人はスタッフの女性から、パンフレットを渡された。
「え?デート?」「そう!デート!」
部活が終わり、帰り道を並んで歩きながら、柊は笑顔でデートに誘った。
夏人は目を丸くしている。
「お前の誕生日、何もできなかったから……」
そう柊が言いかけたところに「ほんとに全然悪気はなかったんだ」と夏人は慌てて両手を合わせ、ごめん、と言った。
「いつだったか、部室で星占いの話になって、
「ほんとに隠すつもりなんてなかったから」
夏人は少し焦っているようだった。
「わかってるよ!」
柊は、笑顔で夏人の頭に手を置いた。
「ま、でも、彼氏としては、皆んなより先にお前の誕生日を知りたかったけどね」
思わず自分のことを『彼氏』と言った柊は、その場で立ち止まり、俯いてしまった。
う、うわぁ。恥ずい……
真っ赤になった柊の顔を覗き込んだ夏人は「嬉しい!」と笑った。
そんな夏人に、柊の顔はますます赤くなった。
「と、とにかく!」柊はコホンと小さく咳払いをした。
「夏休み中に誕生日デートをするからな!どこに行きたいか考えてろよ!」
夏人は嬉しそうに「うん!」と大きく頷いた。
夏人が選んだのは『水族館』だった。
県内唯一の水族館で、数年前にリニューアルしている。
建物は地上2階建てで、面積は約6,000㎡、延床面積は約10,000㎡と、かなり広大だ。
施設内に大小合わせて約100基の水槽があり、約300種50,000点の生き物を展示している。
柊は、一つ一つ丁寧に水槽を見ている夏人に合わせて、ゆっくりと歩いていた。
夏休みとあって、家族連れやカップルで、施設内はかなり混雑している。
ふと柊の目の前に居たカップルが、さりげなく手を繋いだのが目に入った。
それを見た柊はドキッとした。
そうだよな、俺らも付き合ってるんだから、手くらい繋いだって……。
柊はそっと手を伸ばしたものの、夏人の指に触れる寸前で躊躇した。
「柊くん!すごいよーーー!」
夏人が小走りに近づいた巨大な水槽には、約25,000尾のイワシの大群が、勢いよく泳いでいる。入り口で渡された、パンフレットの表紙に大きく紹介されている水槽だ。
「キレイだなぁ……」
ブルーに輝いている水槽を見上げた夏人は、見惚れたまま動かない。
まぁ、あんまり焦らなくてもいっか……。
恋人同士になっても、今までと何か変わるわけでもなく、友達の延長線みたいな関係に、柊はどこか焦っていた。
何か形にしたくて、こうしてデートに誘った。手も繋いでみよう、と試みた。
だが、笑ったり、感心したり、驚いたり。
コロコロ変わる夏人の表情を見て、柊は思った。今はこれでいい、と。
何も慌てて距離を縮める必要はない。
ようやく兄、陸玖の死を受け入れ、水泳も再開できたばかりなのだ。
のんびり、ゆっくり恋人同士になればいいか……。
まだ、水槽の前から動かない夏人に、腕時計を見た柊は声を掛けた。
「夏人!そろそろイルカのショー、始まるぞ!」
「あ!そうだね!」
隣を歩く夏人は、イルカって可愛いよね、楽しみ!と柊に笑顔を見せた。
イルカのショーで歓喜し、その後フードコートで腹を満たした2人は、ミュージアムショップに入った。当然この場所も混雑している。
「姉ちゃんに何か買って行こうかな」
「じゃ、俺も菜々子と冴子に……。てか、女って何が嬉しいんだ?」
「……うん、そうだよね、どれにしよう……」
柊と夏人はあれこれ迷いながら、商品を見て周った。
「わー!これ可愛いな」
そう言って夏人が指差した物に、柊が目を向ける。
2頭のイルカがクロスしている、シルバーのネックレスだ。
「へぇ。こんなアクセサリーも売ってるんだ」
「仲良しのイルカが、
「うん、だな」
柊は、チラっと値段を見た。
『¥3,500(税込)』
「…………」
柊は鞄に付けるような、イルカのキーホルダーを探すことにした。
楽しい時間はあっという間だ。
水族館から駅に向かう市営バスの一番後ろの座席に、2人は並んで座っている。
「すっごい楽しかったなぁ」
夏人の満足そうな笑顔に、柊の胸が熱くなった。
「でもさ、俺ら毎日のように水に入ってるのに、結局デートも水絡みだったな」
そう言った柊に、あ、ほんとだ!と夏人はクスクスと笑った。
「そういえば、何で水族館だったんだ?ま、俺も久しぶりだったし、涼しかったし、すげぇ楽しかったけどさ」
何よりお前と一緒だったから、と口には出せなかったが、柊は夏人と一緒なら、どこでも楽しいと思えた。
いや、楽しいというより『幸せ』という言葉がしっくりくる。
実はね…、夏人が言う。
「死んだ実の父親と、家族で水族館に行く約束をしてたんだ。でもそれからすぐ事故で亡くなって……」
「………」
「俺、父さんの記憶あんまないんだけど、その約束だけは何故かはっきり憶えててさ。多分すごく楽しみにしてたんだろうね、子どもだったし」
夏人は、優しく微笑んだ。
「なんか、ごめん……」
余計なことを聞いてしまったと、柊は自分のデリカシーの無さに呆れた。
「謝ることなんてないよ!きっと、父さんもイルカのショーを見て喜んでいたと思う!だから柊くん」
夏人は柊を真っ直ぐ見つめ、連れて来てくれてありがとう、と頭を下げた。
ここがバスの中でなかったら。公共の場でなかったら。
柊は、この愛おしくてたまらない、夏人を抱きしめていただろう。
しかし、今はそれは出来ない。それならせめて。
「………!!」
夏人は気付いた。
周りにバレれないように、自分の右手を、柊の左手がそっと握っているのを。
柊は、照れているのか、それとも周りに怪しまれないようにする為か、黙って窓から外を眺めている。
夏人も黙って柊の右手を握り返し、ほんの数センチ、柊に体を寄せた。
柊は相変わらず、何も話さず、外を眺めている。
だが体中に夏人の体温を感じていた柊は、夏人への想いが、より一層強くなっているのを自覚していた。
しばらくして、2人を乗せた市営バスは、終点の駅に到着した。
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