第20話 過去

 ひいらぎがスイミングクラブに戻った頃、雨は更に強くなっていた。


 その雨の中、去っていく夏人なつとの背中を、柊はただ呆然と見ているしかなかった。

そして、柊は夏人のとんでもなく大きな地雷を踏んでしまったのだ、ということをすぐ解釈した。解釈はしたが、柊の頭の中は酷く混乱していて、全く整理が出来ない。

 とりあえず戻ろう・・・。

柊はついさっき、この坂道を夏人と笑いながら上っていたのが、随分昔のことの様に感じていた。


 「コーチ!!日下部くさかべコーチ!」

プールサイドで選手を指導していた日下部は、自分を呼ぶ声の主を探した。

 制服のまま全身ずぶ濡れで1人立っている柊を見た日下部は、外に出て行った2人がどうなったのか、容易に想像がついた。

 日下部に近づいた柊の表情は、困惑と絶望に満ちていた。

「コーチ、夏人のこと知ってたんすか?」

って誰すか?」

「アイツに兄貴がいるんすか?」

柊が焦っているのが、日下部には手に取るようにわかる。


 「柊、とりあえず落ちつけ」

日下部は、更衣室で待ってる様、柊を促した。

「・・・はい」と素直に頷き、プールから出て行った柊の背中を見ながら、日下部は大きく深呼吸をした。

 指導していた選手に声をかけた後、日下部も更衣室に向かった。


 びしょ濡れのまま、更衣室のベンチに座っていた柊は「ほら」と温かいペットボトルのお茶を差し出されるまで、日下部の気配に全く気づかなかった。

「お前、風邪ひくぞ」柊は、手渡されたバスタオルを黙って受け取り、髪を拭いた。


 「さてと」日下部は柊の隣に座った。

「夏人くんのこと聞きたいんだろ?」

 バスタオルを頭から被っている為、柊の顔は見えない。

お茶には口を付けず、両手でギュっと握っている。

「俺・・・」柊はポツリと言った。

「アイツのこと何も知らないんです。友達になれたと思ってたけど、こんなの友達じゃない。あんな顔までさせて・・・」

 日下部はバスタオルの上から、柊の頭に手を乗せた。

「俺はお前らが友達じゃない、とは思わないけどな」

日下部がそう言うと、柊が顔を上げた。

「・・・・・」


 「椎名夏人くんには、3歳上の兄さんがんだ」

?」

「そう。名前は椎名陸玖しいなりく。彼は俺の教え子だった」

「・・・・・・」

 なんで過去形なんだろう・・・。柊の胸がざわつく。


 「陸玖は・・・・・・。亡くなったんだよ」

 あー。やっぱり・・・。

そのまま柊は俯いた。

「その時夏人くんは、まだ中2でね。本当に仲がいい兄弟だったから、ショックが大きくて、しばらくは学校にも行けなかったらしい」

「その陸玖の死がきっかけで、夏人くんは水泳を辞めた、と聞いていたんだ」


 柊の頭の中はごちゃごちゃだった。

日下部に何を聞いたら良いのか、分からなくなっていた。

黙っている柊を見て、それを察した日下部は話を続ける。

「陸玖は、将来有望な選手で・・・。日本代表の強化選手に選抜されるほどだったよ」

 柊はハッと思い出した。


 『三好みよしスイミングクラブ』からオリンピック選手が出るかもしれない、と聞いたことがあった。

 そうか。それが夏人の兄貴だったのか・・・。

「でもその、夏人の兄貴はここじゃなく、北校に居るって聞きました」

「日下部コーチって、ずっとこっちで指導してたんじゃないんですか?」

柊の疑問に「いいや」と日下部は、首を横に振った。

「俺は陸玖が死んだ後、すぐにこっちに異動して来たんだ」


 柊が通うこのクラブは、県内の3箇所にスクールを構えている。

ここは中央校だが、陸玖は北校に在籍していたらしい。

「社長が気を遣ってくれて、俺を中央校に異動させたんだよ」

「どういうことすか?」

「俺が、陸玖に夢中だったからね。彼が死んだ後、抜け殻になった俺を見かねた社長が、北校から離したんだ」

 日下部は遠い目をしている。

その頃を思い出しているのかもしれない。

「もしかして、自分が育てた選手が世界の舞台に立てるかもしれない。それは指導者にとって大きな夢だから、とてつもない喪失感だったよ」

「そうだったんですか・・・」


 北校にすごい選手がいる、というのは確かに聞いた覚えがあった。

その椎名陸玖、夏人の兄を指導していたのが、この日下部だったとは・・・。

 柊は驚いた。そして「あ!」と小さく声を出した。

「もしかして、夏人も北校で泳いでたんですか?」

「だからお互い知ってたんですね」

「いや、夏人くんはスクールには入っていなかったんだ」

「え?じゃあ、どうして・・・?」

さっきまで俯いていた柊は、今は日下部の顔をじっと見ている。


 夏人は時々、陸玖を送迎する父親に付いてきて、兄の泳ぎを遠くから見ていたらしい。

日下部が、陸玖から弟を紹介された時、夏人は小学5年生だった。

 大人しく、どこかオドオドしていて、兄貴とは正反対の子だな、という印象だったと日下部は言う。

 「その頃、夏人くんは水泳が苦手でな」

日下部は天井を見上げながら話を続けた。

「でも陸玖の泳ぎを見ているうちに、興味が湧いたみたいで」

「スクールの入会は拒んだけど、陸玖が時間を見つけて、市営プールで教えていたそうだ」

 

 市営プール?柊は思い出した。

夏人は、その市営プールで自主練していると言っていたことを。

 兄貴との思い出の場所じゃないか・・・。

 アイツ、辛くなかったのかな・・・。

 大丈夫だったのかな・・・。

夏人の気持ちを想うと、柊の胸は苦しくなった。


 「中学生になった夏人くんは水泳部に入部して直ぐ、中総体で準優勝して、全国まであと一歩だった、と陸玖が自慢していたな」

「え?マジすか??」

「お前は覚えてないか?」

柊は「うーん」と唸った。

 その当時の柊は、なかなかタイムが伸びず、自分のことで精一杯だった為、他の選手の記憶は曖昧だった。

  

 スイミングクラブにも所属してない選手が、いきなり県予選で2位なんて、普通考えられないことだ。

 でも夏人なら有り得る話だなぁ・・・。

と、これまでも夏人のずば抜けた運動神経を、まざまざと見せつけられてきた柊にとって、さほど驚く話ではなかった。

 「そういえば」柊は思い出した様に、日下部に聞いた。

「夏人の種目は何でしたか?」

「自由型だよ。陸玖もね。夏人くんは、200mが得意だったそうだ」

 自由型フリー背泳バックじゃないんだ・・・。

柊は、夏人に初めて会った時に見た、あの背泳ぎが忘れられないのだ。


 「陸玖も夏人くんも、お互い本当に素晴らしい選手で。2人ともこれからだって時に、陸玖は、高2の時インハイ出場を決める地区予選の前に、突然亡くなったんだ・・・」

日下部の頭は深く項垂うなだれ、声は少し震えている様だ。

 病死ですか?事故ですか?という柊の問いに、日下部は黙った。

だが暫くして「事故だよ・・・」と項垂れたままポツリと言った。

「それ以来、夏人くんも水泳を辞めた、と聞いていたんだ」


 わずか14歳の少年が、大好きな兄を突然亡くした悲しみは、兄弟のいない柊でも容易に想像がつく。

 兄貴がきっかけで始めた水泳なんだから、泳げなくなるのも当然だよな・・・。

強引に水泳に誘ってしまった柊は酷く後悔した。

何も知らなかったとはいえ、夏人を傷つけたことに変わりはないからだ。


 「その夏人くんが、お前に誘われて、また水泳を始めたと知った時、俺は震えたよ!」

突然顔を上げた日下部の声に、柊は驚いた。

「いや、俺何も知らなくて・・・」

柊は首を横に振りながら「夏人を傷つけてしまった」と言った声は小さかった。

 

 「柊!!」

日下部は柊とは反対に、声のボリュームを上げ、こう言った。

「夏人くんを助けてやってくれ!彼はまだ水の底に沈んでいる状態だ。それを今、お前が引き上げようとしているんだ!」

「彼を救えるのは、多分お前しかいない。夏人くんを水の底から引っ張り上げてやってくれ!夏人くんと、死んだ陸玖の為に。頼む・・・」

 柊の肩をがっちり掴みながら、日下部は柊の目を見つめた。


 柊は困惑していた。

兄を亡くしたショックから未だに立ち直れないだけではなく、何か他の理由も含んでいる。

 日下部の言葉の端から、柊はそんな違和感を感じていた。

だが、その違和感を口に出すことはなかった。

いや、口に出すべきではない、と柊の本能が言っていたのだ。



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