第19話 春時雨
学校を出て、
柊が自転車のペダルを悠々と漕いでいる後ろを、夏人は走って付いて来ている。
「夏人、頑張れーー!」
徐々に息が上がってきている夏人を、柊が
「なんで走らなきゃダメなのー?」
「これも、トレーニングの一環だよ、夏人くん」
柊はこの坂道を毎日の様に、自転車で上っているのでもう慣れっこだが、後ろを走っている夏人にとっては、キツい上り坂だ。
「はい、到着!お疲れさん!」
ハァハァと、肩で息をしている夏人が安堵した。
やっと、着いたのか・・・。
顔を上げたと同時に『
え?三好スイミング・・・?なんで?
夏人の目が大きく見開いた。
火照っていた夏人の顔と体から、見る見ると血の気が引いていくのがわかる。
そして、この早い鼓動は、走った後のそれとは明らかに違う。
・・・・。どうしよう、どうしよう・・・。
夏人はその場から動けなくなった。
「どうした?夏人。バテたか?」
自転車を置いてきた柊が、近づいて来た。
「う、ううん。大丈夫・・・」精一杯の笑顔を作った。
「そっか。じゃ、行こうか」
柊の後ろを付いて行きながら、夏人は自分に言い聞かせていた。
大丈夫・・・。
俺のことを知ってる人間は、ここには居ない筈だ・・・。
自動ドアをくぐり施設の中に入ると、塩素とアンモニアが混ざった、独特なプールの匂いがしている。
夏人は
柊と一緒に受付のカウンターにやって来た夏人に
「見学者名簿に名前を書いて」と、20代半ば位の女性がボールペンを渡した。
「コイツがコーチに話していた、同級生の
柊が夏人の肩を軽く叩いた。
「聞いてたよー。いらっしゃい、椎名くん」
その受付の女性は、ニコニコしながら夏人を見た。
「ちょっと!柊くん!彼、すごいイケメンじゃない!!」
柊に小声で話したつもりだろうが、夏人にははっきりと聞こえていた。
聞こえてはいたが、聞いていない夏人は、表情を変えることはなかった。
ずっと辺りをキョロキョロと見回している。
「とりあえず」
そんな夏人の頭に手を乗せて、柊は階段を指差した。
「2階に見学場所があるから、そこで見てて」
「後で、プールサイドに呼ぶから」
「会員じゃないのに、制服でプールまで入っていいの?」
と聞いた夏人に、コーチの許可を貰ったから、大丈夫だよ!と柊は笑顔で答えた。
じゃ、と階段を登ろうとした夏人の背中で
「あ!
と男の名前を呼ぶ、柊の声が聞こえた。
夏人はギクリとした。
日下部?え?ウソだろ?
「夏人ーーー!」
柊が呼んでいる。
夏人の心臓は急にバクバクと音を立てた。息苦しさを感じ、思わず胸を押さえた。
脂汗もじっとりと滲み出る。
「夏人、俺のコーチ!」
夏人は、日下部という男の顔を見たくなかった。
だが「おーい!夏人ー!」と何度も呼んでいる、柊を無視するのは不自然だ。
仕方なく、夏人は恐る恐る振り返る。
「やっぱり・・・」
夏人の顔を見た瞬間、日下部は小声で言った。
「え?コーチ夏人を知ってるの?」
柊の質問は、日下部には届いていない様だ。
「夏人くん、久しぶりだね。兄さん、
日下部は、穏やかに優しい声で話しかける。
「・・・・・・・」
「柊から君の名前を聞いて、まさかとは思ったけど」
「・・・・・・・」
夏人は
「あれからすぐ、水泳を辞めたと聞いていたから、驚いたよ」
「ごめんなさい・・・」
夏人の声はやっと聞こえる程の、か細いものだった。
「いや!夏人くんが謝ることではないんだよ」
日下部は慌てた。
「逆なんだ。夏人くんがまた泳ぎたい、と思ってくれたのが」
「俺は、嬉しいんだ」
日下部は優しく微笑んだ。
「今頃、陸玖も大喜びしてると思うよ」
夏人はまた、黙って俯いた。
え?なに?りくって?は?兄さん?
2人の会話を聞いていた、柊は困惑していた。
そもそもなんで、この2人は知り合いなの?
そういえば、葬式って言ってたよな。どういうこと?
突然夏人が「ごめんなさい」と頭を下げ、出口に向かって走り出した。
唖然としていた柊が我に帰り、大声を出す。
「夏人!!待てよ!夏人!!」
柊は振り返り、一瞬日下部と目を合わせた。
日下部が黙って頷くのを見た柊は、急いで夏人を追いかけた。
自動ドアが開くのさえ、もどかしい。
ようやく外に出た柊は、夏人の姿を探した。
厚い雲に覆われていた空からは、小降りだが雨が降っている。
だがそんなこと、今の柊にはどうでもよかった。
いた!!
夏人は既に敷地から出ていて、さっきとは逆に、下り坂を走っている。
「夏人!待てって!」
柊の言葉に耳を貸さない夏人は、どんどんスピードを上げている。
くそっっ!!アイツ、どんだけ足早いんだよ!
てか、まずい!下りなのに、このスピードは危ねぇ!!
「おい!夏人!危ないから止まれって!!」
柊は叫び声を上げた。
坂道が終わりかけた所で、ようやく夏人のスピードが落ち、柊は追いつくことができた。
柊は肩で息をしながら、夏人の右腕を掴み、2人は立ち止まった。
「急にどうしたんだよ・・・」
夏人は振り返らない。
「お前、コーチと知り合いなの?」
「・・・・・・・」
「りくって兄さん?夏人、姉ちゃんしかいないって言ってたよね?」
「・・・・・・・」
「それに、葬式って・・・。どういう・・・」
柊は、夏人を掴んでいる手に力を入れ、強引に自分に振り向かせた。
それでも俯いて柊を見ようとしない。
雨で濡れている、少し伸びた夏人の前髪を掻き上げ、柊は夏人の顔を覗き込んだ。
「・・・・・・・!」
柊はそのまま動けなくなった。
全く表情がない。顔に血の気もない。まるで人形の様だ。
泣くわけでもなく、怒るわけでもなく、ただそこに立ちすくんでいる。
目の前に居るのは、本当に夏人なのだろうか。
「俺には話せないことか?」
柊は夏人の腕を掴んだまま、ポツリと聞いた。
夏人は否定も肯定もせず、小声でたった一言発した。
「ごめんね・・・」
その声は、少しハスキーで綺麗めの、いつもの声ではなかった。
柊は黙って、夏人から手を離す。
その瞬間走り出した夏人の姿は、あっという間に小さくなった。
ついさっきまで柊の手に、確かにあった夏人の温もり。
いつの間にか本降りとなっていた雨に、その温もりを奪われた柊は、その場から動けない。
酷く冷たい春の雨は、柊を容赦なく濡らしていた。
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