第2話 椎名夏人の日常
スマホを見ると、19時40分だった。
「まだ帰ってないのか」夏人は少しホッとした。
自転車を定位置に置き、玄関を開けると「おかえりー」と声が聞こえてきた。姉の声だ。
「ただいま」
夏人は小声で応えながら、姉の声が聞こえた方向、キッチンに向かった。
「母さんは?」
晩ごはんの支度をしている姉、みのりに、夏人が尋ねる。どうやら今夜の献立は、豚肉の生姜焼きらしい。肉は既にタレに漬け込まれている。
「お父さんと出かけたよ」夏人を見ないまま、みのりは返事をした。
「え?こんな時間に?」
「まさかまた調子悪くなったの?」
夏人の声が曇った。その意味を察したみのりが「違うよー!」と夏人とは真逆に、明るい声で否定する。
「なんかね!」
「お母さんが前に、職場の人から食事券をもらってたみたいで。それが今日までの期限だからって」
「お父さんと約束してたみたいだよ」
みのりは、味噌汁の味見をしてから、さらに話を続けた。
「でも、お店どうしよう、って迷ったらしいけど。結局いつもの『
と嬉しそうに話した。
『皐月』は近所の小料理屋だ。
両親が2人で食事に行くなんて、いつぶりだろう。
とりあえず具合が悪くなったわけではないみたいだ。
夏人は胸を撫で下ろした。
お世辞にも上手い、とは言えない、キャベツの千切りを終えたみのりは、ようやく夏人に目を向けた。
弟は制服ではなく、左胸に『SEIKA HIGH SCHOOL 椎名』と小さく刺繍がされている、
「え?ジャージで帰って来たの?」みのりが
「髪、濡れてる?雨降ってたっけ?」
いつの頃からか、自分の身長を抜いて、男らしい体つきになった弟を見上げ、オレンジがかったその髪に触れた。
「姉ちゃん、これ・・・」
夏人が差し出したコンビニの袋には、びっしょりと濡れた制服が、無造作に入っていた。
「何これ?どうしたの?」
「勝手にプールに入ったんだ、学校の・・・」夏人は、申し訳なさそうに下を向いた。
みのりはギョッとした。
「え?プールに入ったの?なんで?」
みのりは濡れた制服を見て思った。弟はそのままプールに入ったのだろう。そしてたぶん、何も考えずに入ったのだろう。夏人は度々、こういう不思議な行動をとることがある。
中学3年生の時、何も言わず隣の県まで2度行ったことがあった。連絡はあったから、特に心配はしなかったが、帰って来た夏人に理由を聞くと、2回とも同じ答えだった。
「わかんない。でもなんか行かないと、って急に思って・・・」
ある時は、普段絵なんて描いたことがないのに、急にカレンダーの裏によく分からない絵を描き出した。
どういう意味の絵なのか聞いても、やはり「分からない」だった。
弟が時折、理解し難い行動を見せるようになったのは、あの夏からだ。
それと同時に、あまり笑わなくなったのも、やはりあの夏からだ。
夏人はあの夏、あの日から、変わってしまった。少なくともみのりはそう感じている。
いやたぶん、父も母も、同じように感じているのではないだろうか。
だが今回は今までのそれとは違う。
弟が自らプールに入ったのだ。あれほど水に入るのを拒んでいたのに。あれほど怖がっていたのに。「なんで?どうして?」答えを聞きたいのに、なぜか声にならない。
夏人は姉のそんな葛藤を感じ取っていた。
答えを聞きたいのだろう。そしてもしかするとプールに入ったことを、叱責したいのかもしれない。でも夏人はやはりこう答えるしかなかった。
「どうしてこんなことをしたのか、俺も分からないんだ」
「姉ちゃんごめんね・・・」
みのりは、ううん、と小さく首を横に振った。
元々しっかり者で優しい一つ歳上の姉は、あの日から、ますます夏人に優しく、穏やかに接するようになった。
そんな姉に、今こんな悲しい顔をさせている。
夏人はもう一度「ごめん」と
「とにかく!」みのりは少し大きな声を出した。
「まずは、制服を洗濯してね。それと」
と言いかけて、パタパタとキッチンを出て行った。すぐに戻ってきたみのりは、右手に白いバスタオルを持っている。
「お腹空いたでしょ?先にご飯食べよっか!」
と夏人のオレンジがかった髪を軽くゴシゴシっと拭いて、そのまま頭の上にバスタオルを置いた。
夏人は、うん、と頷いた。
髪をバスタオルで拭きながら、姉が努めて明るくしているのを、感じ取っていた。
食卓に向かい合って座った時、「お母さんには・・・」とみのりが言いかけた。
やはり、母親の心配をしている。
それは夏人も同じだった。だからみのりが言い切る前に言った。
「わかってるよ。プールのことは話さないよ。制服も自分の部屋で乾かすから」と。
それを聞いて、姉は安堵の表情を見せる。
「いただきます」
2人同時に、豚肉を口に運んだ。みのりが作った今夜の生姜焼きは、少ししょっぱかった。
風呂に入っている間に、制服の洗濯が終わり、2階の自分の部屋に戻ると間も無く、両親が帰って来たようだった。
楽しかったのだろう。両親の明るい声が下の階から聞こえる。
たぶんみのりは、何事もなかったように、嬉しそうに、2人の話を聞いているに違いない。
「ごめん・・・」ベッドに倒れ込んだ夏人は、枕に顔を埋めて、
仰向けになり、なぜあんな事をしたのか考えた。
帰宅途中もたぶん、「なぜ」と考えてたと思う。
ジャージに着替えている時も。コンビニで買ったパンツを、トイレで履き替えている時も。地下鉄に乗っている時も。最終駅の駐輪場に置いている自転車に乗って、自宅に向かっている時も。
ずっと考えていたと思う。
そもそも『思う』というのは、夏人自身、あまり記憶がないからだ。
なので考えていたと『思う』になるのだ。
「疲れた・・・」
夏人は大きなため息をついた。
プールに入ってしまった事も、姉を困らせた事も、考える事も。
全部「疲れた」のだ。夏人は目を閉じる。
そういえば、プールで水泳部の男子に怒られたな。
夏人は、柊のことを、ふと思い出した。
でも顔はあまり覚えていない。
名前なんだっけかな・・・
柊の顔も名前も思い出せないまま、夏人は眠りについた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます