ただ君に空を見せたかったんだ

姫川楓

第1話 柊祐介の日常

「俺は夏が嫌いだ」

「だからこの名前も嫌いだ」

 そう言ってうつむいたお前に、俺はただ、空を見せてやりたかったんだ。


                       



「あーーーー!!」

コンビニに向かおうと校門を出たところで、自転車を押しながら歩いていた柊祐介ひいらぎゆうすけは、突然大声を上げた。

 学校から歩いて、およそ5分の場所のあるコンビニに立ち寄るのは、もはや日課だ。柊たちだけではない。青華せいか高校に通う生徒たち、ほぼ全員の日課だろう。

柊の横を歩いていた上野樹うえのいつきが声を荒げた。

「なんだよ!びっくりさせんなよ!」

あ、悪い。と言いたげな顔を樹に見せながら「やべー。携帯忘れてきたわー」と制服のシャツとズボンのポケットを叩きながらぼやいた。

「もしかして更衣室じゃね?」

柊と樹の少し前を歩いている、城之内巧じょうのうちたくみが口を開く。

「かもな。しょーがねー、戻るわ」「おー!先に行ってんぞー」

柊と同じく、自転車を押して一番先を歩いている、吉澤斗真よしざわとうまに置いてかれまいと、樹と巧が、腕を振りながら走り出した。

 柊が戻ろうと、渋々体を校舎に向けた時、1人の男子生徒が、柊のすぐ横を走り抜いて行った。コイツも忘れ物か?柊はちらっと、その男子生徒の背中を見た。


 柊は校門の西側に自分の自転車を無造作に置いて、端の階段を勢いよく駆け上がった。この3の自転車置き場の上には、運動部の部室がある。念のため部室も見てみよう、と思ったからだ。ドアには『水泳部』と縦書きに書かれている年代物の板が掛かっている。その部室の前に立つと「あーーー!!」と柊はまた声を上げた。

カギがかかっているのだ。当然だ。

部室使用後は、職員室に返すのが学校の決まりなのだ。

「マジかー・・・」

一つ大きなため息をついて、仕方なく校舎に向かって走り出した。

B棟の2階にある職員室のドアをノックし、静かに扉を開けると、数人の教師が残っていた。

「おー。なんだー?」

顔をコチラに向けたのは、化学の教師だった。あまり好きではない教師の1人だ。

「1年3組、水泳部の柊祐介です。あの、忘れ物しちゃって・・・。部室のカギ・・・」

と言いかけて、大事なことを思い出した。

「あ!あとプールのカギも!」

化学教師は、ちょっと待ってろ、とめんどくさそうに鍵のボックスを開けた。ズラリと並んだ鍵の中から、水泳部の部室とプールのカギを探し出し、早く返せよ、と言いながら柊に渡した。

柊は軽く会釈をしてから、急いで部室に向かう。部室に着くと、慌ただしくカギを開け、室内に入った。

「なんか今日ついてねーな」

独り言を言いながら、自分のロッカーを開けたが、そこに柊のスマホはなかった。

 やっぱ更衣室かなあ。

 部室のカギを閉め、その鍵を右ポケットに捻り込み、今度はプールに向かって走り出す。残念なことに、プールは部室から一番離れているのだ。

そういえば、今朝の運勢、射手座がビリだったような・・・。

そんなことを考えながら柊は走った。


 プールの入り口を開け、更衣室に入る。真ん中にはベンチがあり、そのベンチに目をやると。「あったー!」スマホはすぐ見つかった。

画面を見ると、LINEの通知がきていた。巧からだ。

『スマホあった?』

柊は慣れた手付きで『あった。今から合流』と返信した。

すかさず、ピコンと通知音が鳴り『了解』という意味であろう、変なスタンプがきた。

 巧は、この手の、凡人が選ばないであろうスタンプを好んで使う。

柊も樹も、斗真も慣れっこだ。ただ、女子には使わない方がいいと思う、引かれるぞ。と度々忠告をしている。巧はたぶん聞いてないと思うけど。


 「さてと、カギ返しに行くか」

柊が更衣室を出ると、プールからかすかに水音が聞こえてきた。

「?」柊がプールに目を向けると、やはり小さな水音が聞こえる。

 誰か泳いでいるのか?

 いや、カギ閉まってたよな?

静かにプールサイドを歩き、水音の主を探した。

太陽が沈みかけ、辺りは暗くなり始めている。

見ると、プールには人影があった。浮いているようだ。

 もしかして引退した先輩かな。今日で最後だし・・・。

そう。学校のプールを使えるのは、今日が最後だったのだ。9月も下旬になると、さすがの水泳部員も水の冷たさに体が震える。柊も例外ではない。

 先輩であろうその人に、柊が声をかけようとした瞬間、その人影はゆっくりと、静かに進み始めた。背泳ぎバックだ。

「え?」柊は目を疑った。その人は制服のまま泳いでいる。

しかも水泳部員の顔じゃない。見知らぬ顔だ。


「おい!お前何してる?」

と声に出そうとしたが、なぜか声にならない。

そいつが、あまりに静かで、美しく、そして凛とした背泳ぎバックを泳ぐから、邪魔してはいけないと、柊は無意識に思っていたのかもしれない。

「なんだこの泳ぎ。これで着衣水泳なのかよ・・・」

柊は何秒、何十秒見入っていたのか。いや、見惚れていた、という方が正しい表現かもしれない。ハッと我に帰って、ようやく声をかけることができた。

「おい!お前!何してるんだ!部外者だろ?」

思ったより大きな声に、柊自身が驚いた。

 ピタっと泳ぎを止めて、立ち止まったソイツの顔は、薄暗さのせいで、よく見えない。

柊の方向に歩いてきたソイツが、プールサイドに上がってきて、ようやく顔が見えた。

やっぱり知らない顔だ。

ソイツは柊の隣に、ちょこんと、体育座りをし、何も喋らない。

数秒の沈黙が流れた。

「お前・・・」

と柊が口を開いた瞬間

「誰?」

と体育座りのまま、柊を見上げて、ソイツが先に質問してきた。

「・・・・・」

ソイツは犬のように頭をブルブルと振ったあと、ゆっくり立ち上がった。

並んでみると、178センチある柊より、身長は少し低いようだ。

相変わらず、質問に答えない柊の目を、ソイツはじっと見ている。

 柊は困惑していたのだ。

端正な顔立ち。俗に言うイケメンの部類だ。体は細めだが、濡れた制服の上からでもわかる。そこそこに鍛えてるようだ。

頭に目をやると、オレンジがかった髪色をしている。その毛先から、ポタポタと雫が落ちている。

そして柊を見ている目。厳密に言うと、柊を見ているようで見ていない目は、およそ高校1年生とは思えない、大人のような目をしている。少し冷たい印象だが、吸い込まれそうなその感覚は、軽い目眩に似ていた。


 ヤバい!!なんで俺の方がコイツのペースに飲まれてるんだよ!

しっかりしろ!と言わんばかりに、自分の両頬を引っ叩いた。強く叩いたせいかジンジンと痛い。

「は?いやお前こそ誰?つうか、制服のまま何してんの?」

「フェンス登って入ったの?部外者なのに?」

強気な態度で、この部外者を責め立てている柊・・・。

と、だが残念ながら、それは脳内の柊祐介で、現実の柊は、というと。

「1年3組の柊祐介。水泳部だけど」と自己紹介をしている。

 いやいや、逆でしょ?こいつが名乗るのが先じゃない?てか、なんでコイツさっきからこんな堂々としてんの?え?俺がバカなの?


ハアーーー、と肩を落とした柊は、改めてソイツを見た。

 ソイツは、気づけば既に暗くなっていた西の空を黙って見ている。そしてポツリと話す。

「そうなんだ。水泳部・・・。ごめんね、勝手にプールに入って」

さっきと同じように、ブルブルと頭を振った。

声もキレイ系なんだな、と柊はぼんやりソイツを見ていた。

 気がつくと、最初にコイツを見つけた時の、嫌悪感とか、違和感とか、苛立ちとか。

そんな負の感情は消えていた。

 

 なんか、コイツと居ると調子狂うな。

柊は、再び両頬を引っ叩いた。さっきのは痛かったから、今度は少し手加減した。

 西の空を見ていたソイツが、突然振り返り、柊に向かって話し出す。

「俺は1年4組の椎名夏人しいななつと。軟式野球部だけど」

椎名夏人の自己紹介は、柊のそれを真似ていたようだ。おそらくわざと。

 やっぱりキレイな声だな。

そんなことに気づかない柊は、相変わらずぼんやりと、椎名夏人を見ていた。

辺りはすっかり暗くなっていたので、椎名夏人の顔はほとんど見えていない。

 でも、たぶん。

少しだけ笑っていた。

少なくとも、柊にはそう見えた。


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