夏の彼方 エピローグ

「………」


 あの夏から幾日かが過ぎ、緩やかな気温の変化と共に二学期が来た。今もこうしてクラスメイト達と肩を並べて教室で授業を受けているわけだけど、自分の頭の片隅にはずっと“あの人”がいた。

 ———真優美まゆみさん、今頃どうしてるかな。

 もうあの小さな町を出て、海の向こうへ渡っているのだろうか。いや、どうかそうであってほしい。

 それに引き換え、自分はまだこんな所にいる。でも、それをもう息苦しいとも退屈だとも思わなくなった。未熟で当たり前なのだと、今はそれでいいのだと、あの夏の日に真優美さんから教わったから。向かう意思さえ忘れなければ。

「いてっ」

「こら沢渡さわたり、授業中によそ見するなよー」

「あっ、すいません」

 教壇に立っていた教師にチョークを投げられて俺は我に返った。


***


「あ、琥太郎こたろうくん」

「ん。あぁ、松本まつもと。なに?」

 放課後、同級生の松本が声をかけてきた。彼女とは小学校からの付き合いになるし特別仲も悪くなかったのだが、ここ最近特に接する機会が増えていた。

「今日も行くんだよね。一緒に行かない?」

「うん、いいよ」

 校門を出て日の傾いた街を一緒に歩く中、彼女が思い出したように尋ねてきた。

「琥太郎くん、どうして急に英会話教室通い始めたの?私は親に言われたからだけど」

「それはまぁ、英語使えるようになっておきたいから」

 近所の英会話教室に通い始めたのは、学校での授業ももちろん大事にしているがそれだけではどうにも足りない気がしたからだ(決して先生を悪く言うわけではないのだけど)。別にすぐにどこか海外へ行く事情があるわけでも身近に外国人の友人がいるわけでもないのにどうして急にそんなことを言いだしたのかと両親は不思議がったが、何にせよ学ぼうとする姿勢は買ってくれたようで。

「ふぅん」

「なにその顔」

「琥太郎くんってそんなに真面目だったかなーって。それとも英語使えるようになったらカッコいいと思ったからかな」

「そんな見栄のために時間を割くような人間でもないと思ってるんだけど」

「だよね。ってことは、何かしら理由か目的があるんだよね」

「まぁ、将来に向けての投資って感じかな」

 いつか、自分もあの海の向こうへ行く。そのために今の自分ができることは何かと考えた結果だった。今より大きくなって、もっと遠くへ行けるようになったときのために。

 日々できることを続けていれば、いつかきっと。

 ———また会えますよね。

「っと、危ないよ琥太郎くん!」

「え、うおっ!」

 突然隣を歩いていた松本に腕を引っ張られ、慌てて歩を止める。やや遅れて、目の前をトラックが走り去っていった。どうやら、横断歩道の信号を見落としてしまってたようだ。

「もう、ちゃんと前見て歩かないと」

「ごめん。いや、ちゃんと前は向いてたんだけど」

「嘘ばっかり」

「ホントだよ」

 ただ、少し視線は遠かったようだ。まだあの夏の彼方を見ているのか。

 今を見ないと。

「あ、青に変わったよ。行こう」

「おっと」

 彼女に促され、俺は微々たるも大切な一歩を踏み出した。

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