天翔ける街 エピローグ

「………ふぅ」


 自宅の仕事部屋でタイピングの手を一度止め、大きく伸びをする。ずっとパソコンの前に座っているというのは足腰や肩もそうだが特に目の疲労が著しい。気分を入れ替えるように部屋の窓から愛する街の空を見た。

「今日は曇りか」

 街の頭上には分厚い雲が一面に広がり、空の青色も太陽も今日は姿を見せない。

 以前まで池袋最大の都市伝説として名を馳せた《竜》も、そこにはいなかった。


 《竜》が池袋の空から姿を消して数ヵ月が経とうとしている。《竜》はどこか違う場所へ移動しただけで再びこの世界に現れると信じている者も一定数いるようだが、少なくとも池袋の空にいた“あれ”がまた現れることは暫くないだろう。

 あの日街に委ねた《竜の涙》はすっかりこの街の新たな観光資源、引いては一種の信仰の対象となっており、かつて《竜》が現れた原因とされる“土地への信仰”を取り戻している。《竜》が消えたのもそういうことなのだから。

 池袋という街を深く愛している一ライターとしては些か不本意なところもあるが、経緯や動機はどうあれこの街に関心を持ち、愛してくれる人が増えているこの現状を決して悪くは思っていなかった。

 それこそ、百億円を手にすることよりよっぽど価値のあることだと思えるほどに。

 重く垂れ込む低い空をぼんやりと眺めているうち、ふと仕事の気分転換も兼ねてあの場所に行きたいと思った。


***


 ———あの騒動からしばらく経つが、いまだに人が多いな。


 やって来たのは池袋西口方面にある、かつて《竜の涙》が奉られていた社。正確には今もそれは奉られているのだが、建て直された社の規模が以前のそれとは比較にならない。奈良の東大寺や栃木の日光東照宮かと見紛うほどに巨大で神聖なデザインの建築物に変貌を遂げていた。

 本物の神と呼ばれる存在を多くの人がその目で確認したのだから、熱を帯びてしまうところがあるのは仕方ないのかもしれないと一人苦笑する。

 社務所で受付を済ませ、軽く一礼して境内に足を踏み入れる。一連の事件のちょっとした当事者でもあったが故か、ここに来るともう目に映らない《竜》の視線を感じるようで妙に緊張してしまう。

「あ」

「おや、君は—――」

 境内を歩いていた時、見覚えのある顔と遭遇した。もしかすると、もう二度とこの街で会うことはないかもしれないと思っていたのだが。

「久しぶりだね、———くん」

「どうも。おひさしぶりです、―――さん」

 そう慣れない敬語を使っておどおどしつつも頭を下げるのは、例の事件で同じく関わった上遠野尋史かみとおのひろし少年(仮名)だった。関わったというより、むしろ一番の被害者だったともいえる。あれから少し時間が経ったが、成長期の子供らしく背が伸びているように感じた。

「まさか、君とまたこの街で会えるとは思わなかったよ。今日は親御さんとはぐれたりはしていないかい?」

「はい、二人は今トイレに行ってるだけで待ってるところです」

「そうか、なら安心したよ。………さっきも言ったが、よくまたこの街に来る気になったね。あの事件は君にとって怖いものだったろうに」

「はい、怖かったです」

 けど、と意を決したように上遠野少年は続けた。

「なんとなく、《竜》にお礼とかお詫びとか、しておいた方がいい気がして」

「別に、《竜》は君に対して怒ったりはしていないと思うけどね。むしろ感謝されていると思うよ」

「それでも、なんとなく」

 そうはにかむ表情を見て、きっと彼自身にもうまく感情の整理はできていないのだろうと理解できた。それはそうだろう。《竜》だの神様だの、およそ人知の及ばない存在と関わったのだから。

 だが、それでも。

「君がまたこの街に来てくれたこと、この街の住人として心から嬉しく思う。ありがとう」

 今日もどこからか見守っているのだろうあの池袋の都市伝説も、きっとこの少年の再訪を喜んでいるに違いない。そう確信した。


「池袋に、ようこそ」

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